主の小道
12月21日〜12月31日


クリスマスに黙想

主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
(第二コリント八・九)

クリスマスは子供にとってだけでなく、私達にとっても大きな希望をもたらす夢であります。
聖書を見ると、主は決して富んで生まれた方ではありません。
ルカの二章七節には、主は馬小屋に寝かせられた、場所がなかったからである、と書いてあります。
しかし、その貧しさがどんなに富んで見えることでしょうか。
主イエス・キリストは、王室には生まれませんでした。ダビデの王族なのに馬小屋に生まれ、神の御子がお生まれになっているのに、そのことを本当に知った最初の人は羊飼いです。
そして、遠い国の三人の博士は最後に遅れてやって来たのであります。
しかしそれにもかかわらず、主がお生まれになったその時から、主のまわりには、何とも言えない本当の礼拝が積まれ、神に受け止められていたのであります。
宿屋には「彼らの居る場所がなかった」と言われたことも、そのことはかえって救い主が誰であるか見つけるための目印となり、彼らは、赤子を装いその実は救い主であられるお方に巡り会ったのです。
マタイの二章にある星に導かれて、救い主イエス・キリストに巡り会う三人の博士たちの話も、夢のようです。
彼らもまた主に巡り会って「この上もなく喜んだ」とあります。
彼らの時代にも「自分を低くする者は高くせられる」ことを教えて、私たちに夢を与えてくれているのです。四人目の博士がいたとするヘンリー・ダイクの「もう一人の博士」という本も、この夢から出たものではないだろうか。クリスマスに際して、ここから万物にも勝る人生の価値を考えさせられるのです。
(一九九六年一二月二二日)

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「何を」ではなく「誰」を

イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」 (ヨハネ一・三八)

今の時代はまことに物質中心の世である。クリスマスを見てよく分かる。キリストは求められなくて、コマーシャリズムと雰囲気を好むムード派がこれを歓迎する。
二、三日前の新聞に物不足のソ連の民衆のことを「宗教にすり寄る民」と表現してあった。物がない時に心が見えてくるのか。しかし、その新聞の論調ではそれが悪いことのように書かれていた。やはりこの新聞も物の側から世界を見ていることに変わりがない。
ヨハネ伝を書いたヨハネとアンデレは自分の師であるバプテスマのヨハネの紹介でイエスについていく。この二人の方をふりむいて言われた言葉が、冒頭の聖句である。これはヨハネ伝に出てくるイエスの最初の言葉である。イエスが「誰をさがしているのか」と言わずに「何を求めているのか」と言った言い方が注目に値する。
多くの人は人生に何かを求めている。しかし、その求めているものの多くが、自分の欲望を満たしてくれる物質的な保証である。イエスは彼らを試すためにそのように言われたのかも知れない。しかし、三七節の「イエスについて行った」が、二度と帰らなかったことを意味する時制であることを見ると分かるように、彼らは自分たちの求めているものが物質的なものではなく、人格的なもの、つまりメシアであるイエスを求めていたことをすでに知っていたと思われる。
クリスマスのよき日に私たちはもう一度考えたい。この日に誰を求めるか。馬槽の中に横たえられた主イエスは、生命を捧げて下さる贖い主なのだ。
(一九九〇年一二月二三日)

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あなたにとってクリスマスは?

ギャラップという世界的に有名な調査機関があって、かつてクリスマスについて世論調査をしたことがある。発表された結果はこうであった。
調査の対象となった人たちの三五パーセントは、クリスマスを宗教的なお祭りと考え、二六パーセントは休みだと考えた。二三パーセントは家族や友だちに会える機会だと考え、五パーセントは飲んだり食べたりする機会だと考え、残りの一一パーセントはそのどれでもないと答えた。見出しには「一〇人のうち七人にとってはキリストぬきのクリスマス」と書いてあった。(サンデー・テレグラフ)これが日本であればもっと多い数字となるだろう。
世界中でこの日が祝われ、その点で異教徒の国である日本でも、ジングルベルの音楽で耳にタコができる程度にはキリストの名が行きわたっていることはたしかである。しかし、教会でもクリスマスをやるんですかとたずねられて肝をつぶした牧師がいる位、クリスマスは飲んでどんちゃん騒ぎをする時と考えている人が多い我が国のこと、皆がこの日を知っているといって安心はできない。
ただ、多くの人が興味をもって「教会でやる本当の(?)クリスマスでは、何をやるのか」と言ってくるのも確かなので、せめてこの機会に教会の門だけでもくぐってもらい、キリスト教アレルギーを少しでも取り除いておきたいものと考える。
一つの星が、はるか遠く東の方からイエスを拝しに来た三人の賢人たちを導いたというすばらしい話が、聖書にある(マタイ二章)。星は、見上げれば誰の目の前にも広がる世界のものだ。星ほど万人に提供されている「しるし」はない。新聞の尋ね人欄などとうていおよびもつかない。が、それでも、「見る人」だけのもの・・・とすれば、どんなに時がよくても伝道の必要は消えない。
(一九八四年一二月二三日)

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その名はインマヌエル

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
(マタイ一・二三)

よく知られたみ言葉であるが、これがクリスマスの意味である。キリストの降誕により、神は私たちと共に居られることになったのである。神が共に居られるとはどういうことか。
まず、神はもともとこの世に居られるが、知られていないということだ。(ヨハネ一・一〇)この方はもとから世に居られたばかりではない。世がこの方によって創造された。創造主であられたのに、世はそれに気づかないのだ。それは、受け入れていないからだ。(一一)人間には、あなたのそばに居られるそのお方を、心の宝座に座らせない盲目性と頑迷さとがある。
しかし、これで最後ではない。神は「弱く、罪人であり、敵でさえある」(ローマ五・六〜一〇)私たちに時が来て(ガラテヤ四・四)最終手段をこうじられた。それがヨハネ一章一四節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」というこの主イエス・キリストの受肉という事件である。
いまだかつて神を見たものはいない・・・。その人間にひとり子の神が「神を説き明かされた」のであった。言葉のみでなく、わざを通し、十字架を通し、心低くする者には誰にでも分かるように・・・、幼な子にそれをあらわすように・・・である。
その人は神により生まれたので(ヨハネ一・一三)、新しく造られた者となり(第二コリント五・一七)、神の子となる特権の中に生き(ヨハネ一・一二)、天の神を「父よ」と親しく呼べる、そういう近さで神を知ることになるのである。その人たちが二人寄れば神そこにいまし、死の陰の谷も恐れることはなく、教会の宣教の重荷をも喜んで負う者となるのだ。(マタイ二八・一九、二〇)
(一九八八年一二月二五日)

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特権を主張しないで

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ二・六、七)

また今年もクリスマスがやって来た。教会では忙しく、いろいろな集まりをこなしている。こんな中でふと考えることがある。私たちはクリスマス、クリスマスと言って忙しがってはいるが、果して本気にそれを迎えているだろうかと。
確かにある人がいうように、聖書の中には一二月二五日がクリスマスだなんていうことは一言も出てこない。だからこんな商業化したクリスマスはやめるべきだと。忙しさの中
で自分もそう思う。しかしその反面、聖書の中にはイエス・キリストが貧しい姿でこの世に遣わされたことを六十六巻を通じて声高らかに述べている。決してあってもなくてもいいのではない。正しい理解をし、異教に毒されないクリスマスを意義深く祝うべきである。
聖書はいう。「キリストは神の御姿であられる方なのに」と。第一回目のクリスマスの参会者は仕事のため野宿していた羊飼いたち。キリストのベッドは、馬にえさをやる飼い葉おけ。その御姿はこの世で最も弱いはずの赤子であった。
キリストは神の御子である。その御子としての特権をあえて行使しないで、このような貧しさで来られたのである。ご自分を無にされ、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのだ。
全世界の王である主には、今皆がさわいでいるようなエネルギーで、その誕生が祝われる価値がある。しかし主は僕の姿をとられたのだ。自ら特権を放棄された。
私たちもまたもう一度心中を見まわし、本当のクリスマスを再発見すべきである。
(一九九四年一二月二五日)

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前向きの姿勢

弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」 (マルコ八・四)

七つのパンと少しばかりの魚で四千人の人が満腹し、余りのパン切れが七つのかごに一杯だったという奇跡が起る前の弟子たちの答えである。聖書を読んでいるとこういう態度が消極的なのであって、そこには信仰がないということに思い当たる。
まずこの奇跡は、イエスの言われた「かわいそうに」という言葉でスタートした。イエスが弟子を呼び三日間も食べていない弟子たちに目を向けられた。そこに必要があったのだ。ただその必要に自分が関わっていたとイエス以外は考えなかったことに、まず問題があった。しかしそれ以上に、この弟子たちの消極的な、否定的な姿勢だ。ここは確かにへんぴで、パンなど普通なら売ってないし、人も多い。十分には食べさせられない。でも主イエスはあるだけのパンを取り、父に祈られた。必要は必要である。現実を見つめれば、神により頼むしかない状況である。前向きに進んだ時、道は開いた。
多くの奇跡には、それが神によってなされるにあたり、共通した特徴があるように思われる。神の御力に頼る信仰はもちろんのことだが、頼らざる状況を正しく見据えることである。楽天的な姿勢は我々の取りやすい態度だ。何とかなるだろう。それにあきらめ。もう駄目だ。しかし、必要は必要である。信仰は、この人々にパンが必要だ、自分にはその責任がある、ということを確認させるものでもある。その時はじめて、真に神の奇跡が必要なことを自ら知ることになる。
祈りは具体的であればあるほどよい、とされる。質のいい信仰は前向きで、具体的で、素直である。私たちは投げやりで、奇跡は見られないのではないか。
(一九八九年一二月二四日)

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神は我らを知り給う

彼らはヨセフの指図によって、年長者は年長の座に、年下の者は年下の座にすわらされたので、この人たちは互いに驚き合った。 (創世記四三・三三)
いよいよヨセフの計画通り、いや神の御計画通り(四三・二六、三七・七、一〇)に、家族の再会ができるようになる。同じ母の子である弟のベニヤミンに会えたヨセフの心中はいかばかりであったことか。まだ父には会えないが、今ではエジプトのパロ王の下で総理大臣をしているヨセフが、その姿をあらわそうとするのである。神のご計画は着々と、しかも狂いなく進んでいく。
食事を用意して、自分の兄弟たちを席につかせる時、ヨセフは指図をして、年の順に座らせた。彼らは、正確に上から順々に座らせたその「偶然」に驚くのであった。しかし、それは偶然でもなんでもないのである。ヨセフは彼らの兄弟であり、彼らにねたまれて奴隷商人に売り払われるまでは、彼らと一緒に生活していた、彼らの一員だったからだった。ただ兄弟たちにとってみれば、ヨセフが生きているとは夢にも思わないことだし、似ていると思ってもまさかエジプトの大臣になっているなどと思わない。その上いつも平伏しているわけだから彼を判別できず、ただ驚き不思議がるばかりである。偶然の一致としか思えないであろう。
このことは私たちと神様との関係にも言える。神は全知なのだ。ヨセフが昔この兄弟たちの中に住んだ以上に私たちの髪の毛一すじにいたるまでご存知の神なのだ。
多くのことが偶然に起こると思ってしまう。しかし、神は大きいものから小さいものにいたるまで知りつくされ、摂理の御手の中に運用していて下さる。私たちが正確に導かれていても驚くにあたらないのだ。神は我らをあらかじめ知りたもう。
(一九八一年一二月二七日)

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自分はどういう者であるか

「あなたがたは、地の塩・・・世界の光です。」(マタイ五・一三〜一四)

神様は、私たちを救われた時から、一人一人が神のお国のために存在し、地の塩となって世界に味をつけ、世の光として世界を照らすよう望んでおられる。
私たちはその責任の大きさに、ただうち震えるだけである。
聖書には、あなた方が地の塩であり、世界の光であるだけではなく、こんな言葉でもはげましていて下さる。はたして私たちは十分その信頼にお応えしたかどうか。
今年の最後の聖日を迎えて考えてみよう。
まず「義の奴隷」といって、その手足を捧げ聖潔に歩むことができる人々だと言っている。私たちが後ずさりしているのに反して、主のご期待は高い。
また同じくパウロは、テサロニケの人々に「あなたがたはみな、夜や暗やみの者」ではなく、「光の子」だと呼んでいる。
ペテロによれば「私はキリストにあって選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」とも「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです」とも言う。
パウロは愛弟子テモテが涙の中で苦闘するのを見て、励ましています。「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(第二テモテ一・六〜七)と。
私たちは自分の力量でモノを考えるので、神を知ってどういう使命が与えられているか、またそれがどれだけできるものかを考えない。
主にあれば思いがけなく素晴らしいことができるのを知らない。
ヨハネの手紙を見れば「命令は重荷とはなりません。」とか「主はご自分の生命を捧げ、私たちはそれによって愛を知った。我らも又その友のために命を捨てるべきだ。」とまで言わせている。
(一九九六年一二月二九日)

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神の知恵

そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。・・・ (第一コリント二・九)
パウロはこの箇所において、「隠された奥義としての神の知恵」について語っています。この知恵はこの世の支配者たちですら悟らなかったもの、もし悟っていたなら、栄光の主を十字架につけなかったであろうと言われていたものです。私たちは、こうした知恵によって動き得る幸せ者です。
この知恵はありきたりのものではありません。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えて下さったものは、みなそうである。」という種類のものです。コンピューターにソフトというものがあります。コンピューターというただの機械箱にこれを入れるとその持っている知恵を備えた不思議な働きをするのです。私たちクリスチャンも信仰で動かされるとこんなすばらしい器になるのです。
今年私たちは、与えられた神の恵みと私たちの献身によって、多くのことを成しとげさせて頂いたと思っています。しかし、自分自身の力で進んだという面もあったことは、否めない事実のように感じています。
よい時も恵みです。順境の時は楽しめと聖書に書いてあります。しかし、逆境の日には考えよとあるように、逆らうものが来ると考えさせられ、祈らされ、そのために思いもよらぬ知恵が私たちを支えて、むしろ神の御意志が私たちに成ることが多いものです。
「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」(一〇)とあります。新年には新しい神のソフトを内に期待しています。
(一九九〇年一二月三〇日)

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日を数える

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに知恵の心を得させてください。 (詩篇九〇・一二)

待ち遠しい時に、私たちは指折り数えてその日を待ちます。楽しいことが来る時も、辛い日々が終わることを願う時にも・・・・。しかし、そのように数える一日一日は、何と無視されていることでしょう。それはまるで飛び去っていくものを見るようなものです。じっと心をこめて見るのではありません。
人生は七〇年か、あるいは健かであっても八〇年です。幼い日のことを考えると、ドーンと重い日々がゆっくりと過ぎ去っていったようで、やがて多少早かったりスピードが落ちたりで一様ではありませんでしたが、それでもだんだん早くなって、今では「早く過ぎ去り、・・・飛び去る」(一〇)感じで一日が終わっていきます。
これを今日の一日として、貴重な宝石を数えるように自分の日を数えることにしたいのです。今日の日を一日として位置づけ、価値をはかり、大切な日と思う人は自分の残りの日々の尊さをも確実に知っているということができましょう。「そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(一二) そうです。世の中に「知恵」というものがいくらもありますが、時の大切さを知る人こそが本当に知恵ある人だと言えると思います。
この一年は忙しくも嬉しい日々を数えました。そして最後の方では、飛び去っていく日に逃げられまいとその衣のすそにすがり、しがみついて、ようやく走りぬけたようです。人間が忘れられました。自分の密室もほこりをかぶったようです。心が置き去りにされました。
今新しい年を迎えようとしています。第一日目より、本当に日を数え、知恵を頂きたいものです。
(一九八四年一二月三〇日)

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なおも続く主の道

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
(ガラテヤ六・二)

互いに重荷を負い合うと決心して約一年。本当のところどうだったのでしょうか。やがて今年も暮れていきます。考えてみましょう。
重荷を負い合うといっても、人の重荷を負ってあげることの方がむしろ楽で、負っていただくのが苦手だった様な気もします。他の人の面倒を見るということは、感謝をされ、やり甲斐のあることですが、私たちは人に面倒を見てもらうのが苦手です。自分の重荷を人に負って貰うと、何もかもその人に任せなくてはならない。日本人はそれを遠慮と言いますが、遠慮をするのがいやだからできるだけ自分でやってしまおうとする。互いに重荷を「負い合う」ことが機能しないのです。
クリスチャンに遠慮は禁物です。また、本当に図々しく構えるのでない遠慮のなさと、本当の愛とを、私たちは身に付けるべきです。このことはもう一年やってみる価値がある、いや何回でも努力してみる必要を感じます。実に、愛の受け答えに上達することがカンジンなのです。御言葉は言います。「そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」と。
キリストにある者の至福について書かれているマタイ五章は「あわれみ深い者は幸いです。」と言います。同じ事を詩篇ではこうも言っております。「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。・・・主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。」
あわれみ深い者は、どのような動作よりも先に心配りをする。何か良いことをしてあげる前に、相手がそのことをどう感じとっているか、心を配ってあげる。
ああ神の道は長きかな。このようにして、私たちの神の律法完成の道はなおも続くのです。
(一九九五年一二月三一日)

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