主の小道
12月11日〜12月20日


御霊の働き

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ八・二六)

私たちの三位一体の神、父子御霊の神のうち、御霊は私たちの「慰め主」、「助け主」であって、信仰生活にもクリスチャンの使命である伝道にも大きな力となるもので、もっと学ぶ必要のあるものです。
御霊は、キリストの救いを受けた者には誰でもあずかれるものです。「キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。」(エペソ一・一三)救いの福音を聞いて受け入れた者には聖霊の証印が押される。嬉しいことです。
ではクリスチャンになれば、誰でも自動的に御霊の実(ガラテヤ五・二二、二三)を実らせることができるのでしょうか。いいえ、そうあるべきですが、実際は違っていることも多いのです。
「神の聖霊を悲しませてはいけません。」(エペソ四・三〇)御霊の働きは強制的なものではありません。私たちの罪と同居することができないのです。そのことをよく知って御霊に場をお与えすれば、これらの実を豊かに得ることができるのです。
私たちの計画や力ではできないかもしれません。しかし、御言葉によれば、聖霊は弱い私たちを助けて下さり、言いようもない嘆きをもって、私たちのためにとりなしをして下さるのです。
祈りで、お願いで一杯になった私たちの心の交通整理をして、何をどう祈ればいいかを知らせて下さるのです。
だから結局は神の御仕事なのです。今は私たちにとって御霊の時代です。これを知って、大きな祝福をいただきましょう。
(一九九五年一二月一〇日)

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その星を見て・・・

その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 (マタイ二・一〇)

あと二週間余りで主の御降誕をお祝いするクリスマスがやってくる。私たちにとってはクルシミマスと、時々冗談を言うくらい忙しく、今年も十指に余る関係集会が当教会でも行なわれる。主の降誕が喜ばしいものであるからだけではなく、多くの人々にとっては今もクリスマスは教会へその人々を導く、喜びの星の役目を果たしていると思う。大いに伝道とキリストご紹介の機会としたい。
聖書によると、東方の賢人たちがこの生まれたばかりの幼児を礼拝しに来た陰には、星という導き手があった。この星は遠い東の方でも彼らを導き、間近になっても主の宿る場所を教えた。モノの本によればこの星は明るく光り輝く、特別な星だったようである。この星について考えよう。
まず、どんなに明るい星で目立ったものだとはいえ、その星は誰にも見えた星。それこそ世界中の人が見た星だ。なのにその星を頼りに主を拝したのはこの賢人たちだけだった。
キリストの恵み、まことの光り輝きは世界中の人々に来たれと誘いの手をのばしている。招かれる者は多いが救われる者は少ない。何故か。
人は見ていながら見ていないものである。求める者は与えられるであろうと聖書に書いてある通り、本当に生命にいたる狭い道、見出すものの少ない救いの道を見つけようと求めている者には必ず見つかるようになっているのだ。満天の星の中に星座を見るように、人はどんな機会をとらえてでも救いの道を求めねばならない。この星は聖書に照らして見る時、彼らには意味あるものとなった。聖書は私たちに見るべき目のつけ所を教える。
今年も何人かの人々がこの特別な恵みによって救われるのだ。
(一九八八年一二月一一)

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生きる時の指針

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 (箴言三・六)

「思慮があなたを守り、英知があなたを保って、悪の道からあなたを救い出し、ねじれごとを言う者からあなたを救い出す。」(箴言二・一一〜一二)といわれる人生の英知を私たちはどこから得るか。 旧約の詩人は、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」と歌う。(詩一一九・一〇五)神の御言葉はほめたとうべきである。この指針は信仰と対であるから、先の先まで光が届くというものではないかも知れない。しかし、「一歩だけは確実に見える。その一歩をたどって行けば、後で振り返るとまっすぐ長い一本の道が見える。」ということになる。
パウロはエペソの教会の長老たちと別れる時、「あなたがたをみことばにゆだねます。・・・」(使徒二〇・三二)と言った。聖書の言葉を丁寧に扱う人々はそこから十分な悟りと教えを得るのである。
この場合、私どものとるべき態度に重要な点が一つある。それは従順の姿勢をもって聞くということだ。
よく、「なかなか主が祈りを聞いてくださらない。・・・」という人がいる。確かにすべてのことには時があるから、祈ってすぐ答えが与えられる時ばかりはあるまい。
しかし、こういう場合もあるということを知って欲しい。神は御心の中で最善という道を示していなさるのに、自分の方でして欲しいことを、こちらで決めてしまっているということだ。必要なのはそのお答えを受け取る従順さなのである。
神様の解答はアラジンの魔法のランプではない。神はそんなに小さくはない。ご自分の永遠の英知から自由にお答えを下さっている。信仰の従順がなければ、その道を知り得ない。
(一九九一年一二月一五日)

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一信者として祈るマリヤ

この人(弟子)たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。(使徒一・一四)

祈りに専念する初代教会の人々の間に、ひっそりと主イエスの母マリヤの名前が見えます。
先日婦人会で話したことですが、イエスの母マリヤほど数奇な生涯を送った人は珍しいと思われます。
彼女はまずイエスの母となります。これは神の母であって、子を産んだ母は多いけれど、神をその胎に宿した者は彼女だけです。
彼女は信仰によってそれを受けとめるのであるが、これは容易ならざる服従であることが、よく見ると分かります。彼女はことによると、ふしだらな女としての汚名を着、婚約者ヨセフを失い、律法に反するものとして手痛く罰せられることをも考えに入れなければならなかったのです。
その上彼女は、賢くはあったが変わった子の母でした。そして最後には、自分のその愛する子が十字架刑で惨殺される姿を、近くでその目で見なければならなかったのでした。
しかし、こうしたことが彼女を謙遜な一信徒としたことは疑いもありません。初代教会の熱心な祈り手の中に彼女の姿が見出せるのも不思議ではありません。
カトリックをはじめ多くの人々は、マリヤに特別な地位を与えようとします。しかし彼女の選びとったものは、一人の祈る信徒の立場です。
確かに彼女は大いなる特権を頂きました。それは恵まれた経験をしました。しかし、その恵まれた・・・という言葉の意味が大いなる特権のことではなく、そのことを通じて与えられた謙遜なる信仰だということを知らねばなりません。
(一九八九年一二月一七日)

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羊飼いの特権

さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
すると・・・。(ルカ二・八〜九)

あと一週間ほどしたら主のご降誕だ。民皆喜べ・・・と全世界が喜びの声を上げるクリスマスがやって来る。今は、数週前からこの喜びの時を待ち望み、日増しに高まって来るその期待の中で、私たちは待降節を守っているのだ。やがて大きな喜びが爆発する。
昔イスラエルの民もこの日を待った。長いこと待ち続け、ある者らは何者を待つのかを見失い、あまりに日常生活の中に埋没している下層の人々は、もう期待すらなくなってしまったかも知れぬ。
この土地の羊飼いたちはどうだったか。野宿で夜番をする彼らには、厳しい夜の寒さがしんしんと迫っていったことであろう。彼らの心を内側からはずませる喜びが来るのはいつのことか。
しかし、喜びの日は来た。主の使いが来て栄光が回りを照らす。主イエスの誕生を知らせに来た。お会いしに行きたいと思う彼らも、別に野宿をするための野良着を恥ずかしがることはない。主もまたみどり子として、そまつな布にくるまって居られるのだ。その床は飼い葉おけである。
ではあるが、史上最初のこのクリスマスの聖歌隊は天使の合唱である。栄光の中で聞こえて来るその合唱曲は何と美しかったことか。聖書には他の誰もがこの歌を聞いたことは書いていない。この日のこのクリスマスは、野宿していた羊飼いたちの特権だったのである。
羊の群れを見守った目が飼い葉おけの神の子を見つけたのだ。彼らのその耳が天使のクリスマス・キャロルを聞くのである。
主は実に貧しき者を富ませ弱い者を立たせるお方である。あなたのその心に真の希望の灯を突然灯して下さる。
(一九九〇年一二月一六日)

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思いやりと共に

愛は・・・すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 (第一コリント一三・七)

トルストイの言葉に「本当に強い兵士は忍耐する。」というのがある。私たちは、強い兵隊は「勇敢に戦う」のだと思っている。しかしそうではなく、耐え忍び、じっと待ち、よい機会をうかがい、時が来たら一挙に敵を打つのだ。「待ち」の姿勢がかえって「攻め」の姿勢というべきか。
この聖書の箇所は有名な第一コリント一三章の「愛は寛容であり」の中の一節である。
先日、人気のあるヤクルトの選手が盛大な結婚式をあげて、その光景がテレビに出たそうだ。その時の彼の言葉に、牧師よりのメッセージがあった。その選手が心に残ったと言っていたとのこと。
その忠告はこうだ。「思いやりと共に忍耐を持つように。」 結婚式などというものは、ともすればウキウキした空気の中でほめ合って、良いことをを言い合って終わってしまうものだ。
そういうことの中で、これからの結婚生活の中での忍耐を勧めたのはさすがだ。牧師がさすがだというのではない。大切な所にちゃんと釘を打っておく聖書の知恵である。
野球の選手は体が資本である。体を最高の状態に保ち続けるのは並大抵のことではない。これを選手である限り続けていくのである。その上で立派な成績が残る。
結婚してウキウキしたハネムーンは三ヶ月もたてば終わるであろう。あとは来る日も来る日も地道に、その日を全力尽くして過ごしていくのみだ。そこに選手生活の一生がかかっており、奥さんになる人の苦労がある。
耐え忍ぶには、すべてを信じ、すべてを期待することが要求されています。それは主に対する信仰であり、期待でもあります。
(一九九五年一二月一七日)

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主を信ずる時の安心

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。 (詩篇四六・一〜二)

本当の安心は主から来る。
私たちは人間だから、時によって不安に悩まされることがある。その悩みの種類はいろいろあるが、たとえば何かの理由でガンだと疑われた場合など。
突然神学校へ電話がかかってきて「肺がんの恐れがある。至急大きな病院で調べて貰いなさい」という。早速写したCTにも明らかに疑いがある。その後管を入れて直接見て貰って、一応シロと分かったのは二ヶ月後。ためしに肺結核の薬を飲んで七ヶ月。何も結果が出なくてそれも白。いったい何だったというのだろう。
山が海の真ん中に移り、水がざわめき、山々が揺れ動くというような天変地異が起こっても、恐れることのない平安、避け所、また力・・・。それはどこにあるのだろうか。それは神より来る。いつ何が起こっても心は動じない・・・。これは言うに易しく行なうに難しいことである。
心は一つであるから今のことを考えなくてはいけない時にも、同時にその結果が見えなくてはどうもしようもない。その時の自分の生死を確かめることになるが、その時が来ないと分からない。まさに「混とん」そのものである。
そんな時、一呼吸おいて私たちに平安がやって来るのだ。一〜三節を読むとそのことがはっきりわかる。神の秩序で自分の人生を整理していくと、そこに光が見えて来る。
我らが神のものであり、神は意味なく自分たちを困難の中におき給わない。神は全能の方であるからその困難をとりのぞけられる。たといとりのけられずも神の御心がなる。こんなことを考えていくと恐れがとり除かれるのである。
この詩篇四六篇は、信仰という言葉はないが、実に信仰の歌である。
(一九九四年一二月一八日)

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主の母マリヤの信仰を憶う

イエスの母はイエスが天に帰られてからどんな生活を送ったのだろう。
私は次の聖句が好きである。「イエスの母マリヤは・・イエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」(使徒一・一四)マリヤは、カトリックでいう無原罪の女性でもなく、美化された超人でもなかった。「祈りの人」として育っていった。しかももう一人の弟子としてであった。彼女の信仰は、イエスさまの生涯と共に育って
いったが如く思われる。幼子イエスは神殿の外で老預言者シメオンに迎えられた。彼はマリヤが剣で心を貫かれる経験をすると預言した。それが十字架で成就するとはその時は知るよしもなかったが、深く心にとめた言葉である。生まれて八日目のイエスを連れての経験であった。
エルサレムに上京したイエスが両親と離ればなれになり、心配した二人になじられた時、父の御元にいるのが分からないのですかとおっしゃった。マリヤはよく分からなかった。分からなかったがこれを心にとめておいた。主が十二才の時の出来事である。
ヨハネ二章五節にはカナの婚礼の記事がある。「母は手伝いの人たちに言った。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』・・・」 カナの婚礼の奇蹟はこうして起こった。確かにマリヤの信仰は成長したのである。祈りの人への一歩一歩である。マリヤの賛歌の中で預言的に次のように歌われているところがある。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ一・四五)「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」(四九)
この大きなこと、幸いなこととは何か。マリヤにとっては、イエスの名によって弟子らと共に祈り、答えを与えられることであった。
マリヤの心の中でこれが育つのに実に三十三年かかったのだ。
(一九九三年一二月一九日)

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クリスマスに見上げる木

人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神は・・・。
(使徒一〇・三九〜四〇)

クリスマスになると少々頭脳がこんがらがって来る。誰かが「教会でもクリスマスをやるんですか」などという奇妙な質問を私共に浴びせかけてくるようなわけで、その中心にいますキリストが忘れられ、それにまつわる文化ばかりが商業主義と情感に訴えかけて、私たちの囲りにどっと押し寄せて来るからだ。
あまりのことに頭を整理しようと「クリスマス小事典(現代教養文庫)」を買って読んでみた。が驚いたことに、クリスマスに行われることだからキリストに関係があると思われているものの九〇%は、聖書に何の根拠もなく、中には異教の伝統を色濃くのこしているものばかり目につく。サンタクロースにクリスマス・ツリー。ローソクに靴下等々・・・。
聖書の降誕物語は、マタイの福音書の受胎告示とルカの描くあの美しい馬小屋のイエスなどが残るばかりである。まことに私たちの受けついでいるクリスマスの諸行事は聖書に関係なく、間違えると大変なことになることを憶えておくべきである。
ここまでは誰も言うことだろうが一寸考えて見よう。クリスマスを中心として、なぜこんなに多様な行事が、歴史に、諸国民の間に、根深く残るのだろうかということである。
人々はクリスマスにツリーの星を見て、馬槽のイエスに羊飼いが出会った夜を思い起こす。愛する者にプレゼントを贈り合う。誰かがその機会をとらえて「それだけで終わるな。本当のクリスマスは・・・」と語りかければいいのではないか。
では本当のクリスマス・ツリーは何であろうか。イエス・キリストは罪のため死ぬために生まれられた。主がかけられた木をこそ、今宵仰ぐべきである。
(一九九二年一二月二〇日)

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ご自分を捨てて

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
(ピリピ二・七)

神の御子主イエス・キリストが人となられてこの地上に来られたクリスマス。その犠牲を思えば、喜ぶというより、感謝しつつ嬉しさをただ主に申し上げる以外にはありません。
この神の御子が人となられたというクリスマスの事件は、神が神としての特権を主張されなかったということです。「ご自分を無にして」という言葉はそういう意味です。
ですから、ヨハネのように間近から主を見た人は、こう言うことができたのです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネ一・一四)と。
主イエスが私たちの間に住まわれ、造られたものの姿をとられたとしても、それは見る者が見れば隠しようのない栄光に満ちておられたのです。
私たちの場合、何のとりえもない愚か者で・・・と言うことがあります。しかも多くの場合、正真正銘の愚か者であります。本当に使い物にならない、何のよいところもない者です。
しかしキリストが人となられた時、それは持っている特権のすべてをあえてお捨てになったのです。ここに意義があります。
人の救いという大目的のためにご自分の特権を主張されないということは、本当の謙遜であります。神は愚か者を本当に愚かなままではお用いにならない。真の愚かはそのようなものに等しい愚かではないからです。
クリスマスに思うこと。それは私たちの賜物を必死でみがきあげ、そして主のため、それを捧げようということです。
(一九九一年一二月二二日)

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