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ギリシャ語の学者で、日本ではじめて日本人の手による立派なギ和辞典を作った人に、玉川直重という方が居られる。八五才でなくなってからキリスト新聞社で出版された本に「学びつつ、祈りつつ」がある。高名な学者の学究的内面には常に興味があるので買ったが、読まないでそのままにしてあったものを最近手にとって、あらためて感動した。
それは別に学問のことではない。信仰のこと、そして老夫妻の信仰による交わりのことである。毎朝食前に英語で賛美し、お祈りも聖書も英語で読む。右半身不随ながら、奥さまはよく食べ、笑い、一度も怒ったり、泣いたり、不平を言ったりしない。不自由だがスィートな妻だと告白して居られる。途中から夫人はだんだん口が利けなくなるが、ご主人が一人で祈り、その祈りのあとで信子夫人はただ一言「アーメン」と言う。まことにいろいろなものに欠けてはいるが、すべてが満ちたりたデボーションといえる。
ご主人は「神様にごあいさつするのだからね」と言って、不自由な妻の頭髪をトニックでうるおし、梳ってやる。こんな不自由な中で居住まいを正す心が、何とも感動である。
二人は手をとり合ってすでに主の御前に出ているのだ。
この様子を書いた手紙は、実は人目にふれることを予期しなかったものらしいとのこと。この文章を書いた四ヶ月後、家が留守になるので、納骨せずに自分の寝室においていた妻の遺骨の下から出て来たものという。トツトツと亡き妻に書いた愛の手紙であったのかと思う。
できるかぎりのことをしたのだが、一つ忘れていたことがあると書いている。顔をふいてやることを忘れていた。それを、この文章を書く今日までうっかりしていたと書いている。この「男の不器用さ」の中でいたわられた夫人は、ただやさしく笑ったであろうと思う。
(一九八七年一一月二二日)
私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。(第一コリント二・二)
米国の教会で聞いた話ですが、人々が「あの牧師は説教の中で十字架という言葉を一度も使わなかったから駄目な(福音的でない)説教者だ」と言っていたものです。
そのせいか、私が証しをした時、思わず「主は私の罪のために十字架にかかって下さった」と言った時、会衆席から大声で「アーメン」という同意の声が聞こえてビックリしたものです。また、逆に大声で「十字架」を連発する説教者もいて、一寸へきえきしたこともありました。
しかし、それほど十字架が信仰の中心なのも事実です。パウロは「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける(人には)神の力です。」(一・一八)と言っています。
彼のような大先生、伝道のためには勇気を十分に持っていた人でも、「すぐれた言葉や、すぐれた知恵」でもってキリストを宣べ伝えたい誘惑にかられたらしいのです。そしてそれをやってみたこともありました。
しかし見事に失敗しました。キリストの福音を宣べるのには、十字架を言わずには不可能であったのです。その理由は、まず、真の救いのためにはどうしても罪の贖いなしにはそれが達成されないということです。人間の一番大きな問題は罪です。私たちの良心もそれは少しは感じ知っているように、このままでは道がないのです。キリストはそのためむごい十字架につけられました。
次にもう一つは、神の独り子イエスが苦難を受けたまいました。キリストは神の子です。神ご自身が地上にお降りになりこの大事業をなして下さったのです。十字架はそのことを訴えているのです。
(一九九二年一一月二二日)
ペテロは力を込めて言い張った。・・・みなの者もそう言った。
(マルコ一四・三一)
私たちは主のために力をこめて生きなければなりません。残念ながらしかし、人の力には限りがあります。
イエスさまはすべてをご存知で、今夜・・・あなたは私を三度否みます、とおっしゃった。何もかも知っておられるのです。
ペテロは言い張る。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と。
人はよく希望的観測の中に生きるものです。だが現実の厳しさを知らなければなりません。主イエスさまはそれぞれの人の現実を見つめて私たちと対話なさるのです。
後にペテロは、主を否んだ経験の後、主から、「私を愛するか」と三度聞かれる。この三回の対話においては、もはや主とペテロの間には現実認識しかありません。ペテロは「主よ、あなたはご存知です。私が愛することは」としか申し上げられませんでした。
主はそれを知りつつも「私の羊を飼え」と委任命令をペテロに出しておられるのは不思議です。
主の前において必要なのは、本当の自分、限界を知ったまことの自分をおぼえることです。ペテロの場合、彼が用いられたのは彼が偉いからではなく、自分がどのような者であるかを知ったからです。
限界、弱さを知った者のみが、具体的に主に祈れるのです。そこに人間の真の強さがあるのです。私が弱い時に強いのだとはパウロの言葉です。
ペテロは、イエスさまから自分の可能性を買って頂いたのです。主は、力あるところを示したペテロを用いようとされたのではありません。自らを知り、主に頼ることを憶えたペテロに力があることを知られ、大きな仕事をまかされたのです。
(一九九一年一一月二四日)
ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。(第一テモテ二・八)
この部分(八〜一五)は、男性と女性に対して「同じように」パウロからテモテを通して教会に発せられた説教なのに、男性への注意は、いたって少ない。節だけで言っても、対女性の注意は七節に対して、男性にあてたのはこの場合ただの一節である。
よく人は冗談半分に、婦人に対しては言うべきことが沢山あるのだと冷やかすが、それほど重大と言えば言える。聖書においても他の類似箇所では等分になっている。
ここで、何としても不思議だったので考えさせられた。結果は「それほどに祈ることが必要だ」ということである。
東京のある中学校でアンケートをとったという。「君たちは学校を卒業したら、まず何をやってみたいですか。」答は、一位パチンコ、二位マージャン、三位が夜遊びとのこと。なげかわしい・・・と新聞に書いてあった。
同じ新聞に、悔い改めて救われる父子が涙を流して祈り合う姿が書かれていた。
後に偉くなった子供の方が先に救われていたのであるが、父親に、「何か言ってくれ」といってもまだ信仰が浅いので、「イエスさま」というばかりだったという。
たとえどんな父親であったにせよ、その影響力はとても大きいのである。
とても比べられないものの、父なる神(母なる神はない)のこの世での父と共通することは三つ。万物の根源としての御性格、その権威、深い愛である。
テレビで見かける「大草原の小さな家」という話は日本人にも人気がある。そこで父は、権威をもって力強く家を守る。
怒らず、言い争わず、唯一両手を上げて祈る祈りの力のある父が、本当の父と言える。
(一九九六年一一月二四日)
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。
(ルカ一〇・四二)
ただ一事のことを欠いているので、その全体が役に立たないことは多い。
ここに庭がある。美しく造園され、花壇をはじめ、すべてのものが芸術的に配置されていたとする。しかし、そこには種がまかれていないとすれば、夏の日は、惜しそうに言うだろう。「あなたに足りないことが一つある」と。
立派に整備された自動車があって、ガソリンがない。そこで私たちは悔しそうに言うことになる。「あなたに足りないことが一つある。」
これと同じようなことが私たちの人生にある。地位も財産も健康も家庭の平和もそこにあるのに、内なる心は、やはり私に足りないものが一つあるというだろう。人の心は物によって満足しない。物がない時には、それがあれがあれば必ず満ち足りると考える。必死になって求めてそれを得た時、はじめて気がつくのだ。人はパンのみで生きるものではないと。
心の貧しい者は幸いであると主は言われる。満ち足りることを知っているのは、実に貧しく何も持たない者なのである。パウロが信仰生活の果てに知ったことは、弱い者は強いということであった。弱い人だけが主を求め、主は弱さを知ったその人に、必ず力を与えられる。力の源を知る人に、その弱い人はなるのである。
とするとどう言うことになるか。なくてならぬものとは、私たちの持っている何かではないのだ。私たちにないものを知るということだ。私たちの貧しさ弱さが分かって、主の力の尊さに気がつくことなのだ。あのマリヤは、きっとそんな心でイエスのひざもとに座ったのだ。
(一九八四年一一月二五日)
しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているか、わかっていないのです。」(マルコ一〇・三八)
主イエスさまがこの時ほど切実にご自分の受けんとする受難について感じられ、弟子たちにもそれをお伝えになろうとされたことはなかったであろう。(マルコ一〇・三三〜三四)三二節の、「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。」
とあることでよく分かる。何かと主をなきものにしようとするユダヤ人たちのことが耳に入っている時だったから、決然たる姿勢で歩を進められる主の姿に弟子たちは鬼気せまる思いがしたのであろう。
しかしおかしなことが起こった。ゼベダイの子、ヤコブとヨハネがイエスさまのところにおねだりをしに来たのだ。イエスの問いに答えて彼らは言う。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」と。
こんなにも明確な主の予告を身近な弟子が誤認していたのか。そうではあるまい。言葉では聞いたであろう。そしてことによると、栄光の座とはヨハネ伝で言うところの十字架の死との同席を意味することをも分かっていたのかもしれない。しかし主イエスのご指摘では「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。」のである。主と同席することには栄光も何もないのである。ただ低く低くされる、最もみすぼらしい地位をとることなのだ。御子イエスがそうされたように、父が低い者を高くして下さるのだ。
この最も切迫した時に栄光の座を求め、その裏の部分が見えない弟子たちの姿は、ことによると私たちのものかもしれぬ。
(一九九〇年一一月二五日)
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
(第一ペテロ一・八〜九)
一体、イエス・キリストを信ずる信仰は、どのように持つのであろうか。聖霊の働きである救霊の業は、救われるという事実があっても、一体何をどうしたらいいかは、具体的には、一向に分からない。
新しく生まれるということは、「風はその思いのままに吹き、・・・それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」とイエスに言われたニコデモは「どうして、そのようなことがありうるのでしょう」と、途方にくれたように言った。(ヨハネ三・九)
教会学校の小学科五年生のある子は久しぶりに教会に来て、「今日はどうして来られたの?」と先生に聞かれた時、「犬の花ちゃんが病気になったから来た」と言っていた。これも子供たちにとっては、信仰のきっかけであり入り口なのである。事実はそこにあるのです。
見たこともないキリストを信じ愛している。それだけでも不思議なのに「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」それもただの喜びではない。
栄光に満ちた喜びにおどっていると言うのです。
信仰の結果である魂の救いというものは、信徒の心によって、したたかな建材として私たちの信仰生活を築き上げる。(へブル一一・一〜二)
キリストにあって真理の言葉、すなわちあなたが救いの福音を聞き、またそれを信じることによって、約束の聖霊をもって証印を押されたのである。
魂の救いは解明できないが、しっかりとした事実です。
(一九九五年一一月二六日)
「アクティブな(活き活きした)信仰」という題で開催された当教会での青年フェローシップの閉会礼拝で、突然御用をさせられて考えさせられた。信仰生活におけるアクティブな、とはいったい何なのだろう。
キリスト・イエスにある者は新しく創造された者である。この救いがはっきりしていて、人生の目的の見えている人は、救われてその心の中に御聖霊の内住をいただいている。ましてやそれが人生の初夏である青年期にあるなら、すべての点でアクティブでない筈がない。むしろその活き活きした所が破壊的な結果をもたらさず、神の御意志に正しくコントロールされ、神の知恵がその中心にましますこと、その時はじめて「活き活きした・・・」が生きてくる。人生の生命も、神のご栄光をあらわさないかぎり、死んだも同然ということと同じである。
昔、カトリックの神父F・カンドーというフランス人の随筆を読んで、いたく感銘を受けたことがある。彼がはじめて日本に来た時、電車の中で居眠りをする日本人を見て、ここに東洋の神秘と力の源泉があると感じたというのだ。やがて何ヶ月もたたないうちに、それが瞑想ではなく、単なる居眠りと気づいてガッカリしたというのだ。瞑想ということにきびしいカトリックらしい誤解であった。
しかし見方を一寸変えれば、イエスの地上での働きは実に精力的で、また活動的であった。休むことなく、適切な働きを続けられた。その力の源は、早朝あるいは夜を徹しての祈りにある。イエスにとっての静は、限りなく動の源なのである。青年の動は、神との交わりの静に深く根ざしていなければ危険である。
今一つ、それは同じことではあるが、神による制御である。御霊は私たちに強い活動力を与えるが、同時に私たちの意志をご栄光のためにコントロールする。祈りの生活にこれがあらん事を。
(一九八八年一一月二七日)
そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。(使徒五・四一)
クリスチャンにとって試練は必要である。信仰の成長のためにはなくてはならぬものだからである。
ペテロも、キリストにあって喜んで困難を選んだ人であるが、「試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」(第一ペテロ四・一二)と書いている。
成長するためには試練が必要で、主はそれをご存知だからである。
試練は何を教えるか。
まず、御言葉で戦うすべを知る。御言葉は両刃の剣、強力な武器である。しかし多くのクリスチャンはその扱い方を知らない。イエスはたくみに御言葉をお使いになった。(マタイ四・一〜一一)
二番目に、最も大きな逃れ場を知る。戦ってばかりいては疲れる。効果的に休み、よい戦いを戦うことだ。主は試練と共に逃れるべき道も備えていて下さる。(第一コリント一〇・一三)
神は摂理の主である。試練を支配し、逃れるべき道を支配しなさる事を知る事は、クリスチャンの成長にとって小さいことではない。
三番目として、自分が主の者であることを知ることである。自分が御名のために恥ずかしめられるに足る者となり、弟子たちは喜んだとある。
迫害のことを「マルチル」という。これは殉教ということでもある。証しには生命がかかっているということでもある。自分の信じていることが真剣に相手から問題にされていることのしるしだとすれば、迫害も嬉しい。
喜びは形となる。続く四二節で、伝道に励む弟子らの姿が出てくるのである。
(一九九三年一一月二八日)
ある人が、人間の一生を七五年として、それをどんな配分で普通の人が使っているかを計算した。テレビを見るのが八年、おしゃれや身だしなみに二年、二五年は寝床の中である。そのうち宗教関係には六ヶ月しか使っていない。今あげただけで半分は消えてしまう。意外に物理的にも人生は短いものだ。主にあって実りある人生をと願っているクリスチャンにとって、時間をどう配分して生きるかは、もっと真剣な問題であっていいだろう。
俳優の長谷川一夫は、ある時ヤクザに顔を切られて、役者の商売道具である部分を失ってしまった。それをかくすのに化粧に二時間かかるので、自分には一日二二時間しかないと心にかたく決意して毎日を過ごしたという。自分にとって生命がけの部分を時間として取り分けたのである。私たちは主のためにどれ程の時間を犠牲にしているだろうか。計算してみたらお寒い感じがする所であろう。ある姉妹は、自分の誕生日に家族で楽しく過ごそうと思ったが、何か有意義なことに使おうと、日頃ごぶさたしていた兄弟に逢いに行って交わり喜ばれたと、生き生きして話しておられた。こういうのを、自分の時計で生きたというのであろう。主にあって神の栄光、他の人への思いやりの中に生きることを知る者こそ、真のクリスチャンであろう。
人間の教育の中で一番中心になるのは、人格的なものである。どういう人に育てるか。
そこで一番大切なのは時間を守ることだと、西洋では考えられている。時間を守るということは、他人の権利や生活を守ることにつながる。約束の時間に遅れれば相手が迷惑し、その人に損を負わせる。そうならないために自分をコントロールしなければならないから、よい人格とは自分を管理できるということなのだ。
ひきずられてでなく自ら神に仕える人は、だから自分の時計を持っているといえよう。
(一九八七年一一月二九日)