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イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないがあとでわかるようになります。」(ヨハネ一三・七)
わたしの執務室の棚に父の葉書が一枚のっている。私宛のもので「いつもおいしいお茶有難う。父より」とさらさらと達筆な字で書いてある。それだけだ。捨てられて当然の古葉書だが、先日、古いものを整理していた時、目に留まって、ふと懐かしくなりとっておいたものだ。
父は私どもに対して思いやりの深い人だったが、そのことを、母のそれのようには、その時は思わなかったものである。母の死に際しては、年齢も若かったせいもあり、心の傷は大きかったが、父の時は寝ていた時期も長く、静かにあきらめて送れた。
しかし、今この一行の葉書を見ると、短いだけに余計に心に響いてくる。これが一文章だけしか意味がないものならば、書くこともなかったろう。他に何も書くことがないぐらい、一言「アリガトー」と言いたいのなら、わざわざ書いて投函してくれたこの葉書の重みは相当のものである。今そのことがよく分かる。今だからよく分かる。
主イエスが弟子の足を洗われたことについて、シモンは仰天した。いろいろなことが入り乱れて、このことをどう理解するか迷ったのである。弟子は師に勝らずの、その弟子と師の差は実に雲泥の差、次元の差である。ただ一つそれを埋める手だてはと言えば、私たちにとって、時が経ってから想い起こすこと以外にはない。「汝今知らず、後悟るべし。」これは大切な真理のようである。
時が経つとどうして気づくのであろうか。渦中から離れて見ることができるためか、自分が成長するのか。私のこの場合について言えば、何か父の境地に近づいたのかもしれない。主の境地に近づければよいのだが。
(一九八九年一一月一二日)
また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(第二ペテロ一・一九)
一人の婦人が求道の決心をして、招きに応じて手を挙げられた。
集会後、私に向かって嬉しそうに言われました。「手を挙げることができたんですよ。」
今までに何回もその機会があって、しかも決しかねていたものであろう。応答するということでふっきれたのであろう。姉妹の輝いた顔が忘れられない。
いろいろな問題がいまだ解決しないまま、主におゆだねしたのである。決心した時に聖書通読を始める。よく分かるかどうかは問題ではない。薪が多ければ、燃え上った時、勢いよく燃える。御言葉に数多く接していればいるほど、神さまの御心が分かりかけた時、効果を発揮する。私の信念である。
一日に六頁を読むと一年で読める。読み続けると分かってくる。旧約と新約を並行する。等々、いろいろと話した。「約束します」と言われたが、続けるのは大変だと思う。
さらに私が信じていることは、聖書を読み続けるだけで、祈っていること、願っていることが次々に聞かれていくという経験をすることである。
多分、今までも同じだったかも知れないが、聖書に接していくうちにそれが「見えるようになる」のかも知れない。
かつては自分の考えにがんじがらめにされていたものが、聖書の通読という忍耐のいる努力を通じて解放されるのかもしれない。
姉妹の口を通して、問題に思わぬ方向からの解決の糸口が示されたという報告が入った。聖書を読むだけで・・・か。
(一九九五年一一月一二日)
クリスチャンになるということは新しく創造されること、と聖書で言っていますから(第二コリント五・一七)、これは大変なことで、またそれだけ恵みなことでもあるわけですが、どうもそれでおじけづいて、なかなか中に入り込めない人が多いようです。
しかし有り体に言えば、罪人がキリストの愛と贖いとを信じて身をまかす位のものですから、これ程簡単なこともまたないわけです。ただ、どれ程単純でわけはないことでも初めての者が憶するのは人間にとって仕方のないもののようで、だから清水の舞台から飛び降りたつもりになれ・・・などという言葉もあるわけです。
神の御赦しを信じて、その愛の手の中に身を投げる。これを信仰といいます。良寛和尚は自ら大愚良寛と呼んだくらい八方破れの人でした。七四才で、恐らく大腸ガンで亡くなったと思われますが、死ぬ時は大変だったでしょう。「裏を見せ、表を見せて散る楓(かえで)」とうたいました。最近、花道を作って引き下がる政治家のことが取りざたされていますが、どうにもならないのは人の最期です。その時は裏も表も見せる。これが彼の悟りというものだったのでしょう。
ここに一つのヒントがあります。神の前に身をまかすとは、そういうことではないかと。神が居られて人が居て、人はもうどうにもならないその時、神の御手にすがって何とかして下さいという気持ちです。似た話があって、椎名麟三という作家が洗礼を受けた時、もうこれでジタバタしてわめきながら死ねるな、と言ったということです。何か逆説のようですが、これこそ、神にあるということを適切にあらわした言葉だと思います。
クリスチャンになるということは、事に臨んでわめかない立派な人になるということではありません。裏も表もすべて見せて、神に何でも言える関係になることです。
(一九八七年一一月一五日)
私はだれに対しても自由ですが・・・。(第一コリント九・一九)
続けて使徒パウロは言っています。「より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。」
献身するということはこういうことではないでしょうか。すべての人の奴隷。やれと言われることを文句を言わずにやるのが奴隷です。主人に買われているということは、一切の事において主人の意志を行なうということなのです。
私たちはキリストの僕(奴隷)です。キリストを「主」と呼ぶのは、自分は奴隷ですというのと同じなのです。
しかしパウロの場合は、普通の奴隷と全く違う点が一つあります。「私はだれに対しても自由です。・・・」というのです。仕方がなく奴隷になったのではなくて、自分で自分の自由を放棄したのであります。これはキリストの心でもあります。
キリストは「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた・・・」(ピリピ二・七)とパウロは書いています。
恐らく、間違いなくパウロはこのキリストの姿にならったのであります。
「御自分を無にして」は、欄外注によれば「特権を主張されずに」ということだと書いてあります。キリストは神の御姿であられる方でした。しかし自らその特権を放棄して仕える者(これこそ奴隷そのもの)の姿をとられたのです。
パウロは持っている自由を、主に献身し、仕えるために自分から放棄しました。そして不自由になったのです。しかし、誰が考えたでしょう。この不自由なる者が最も自由なる者であるということを・・・。
彼は自分の特権を捨てて不自由になる、この誰にもできないことをできる自由を持ったのです。
(一九九二年一一月一五日)
終わりに、兄弟たち。喜びなさい。・・・(第二コリント一三・一一)
この節には五つの命令が(あるいは勧めが)パウロによって書かれています。
「終わりに・・」とありますが、さまざまな叱責、慰め、罪の指摘、教え、勧めが、次々となされた後になされた具体的な勧めです。神さまに用いられた使徒パウロの勝れた点はこれです。
どんなに難しいことを語っても、福音は言葉ではありません。生きるための具体的な指針であります。そしてもう一つは、深い信頼。どんなに駄目人間でも(それはコリントのクリスチャンに対する叱責の仕方で分かります。)福音によって生かされた人は神の御名によって勧める価値があるということです。
彼らは悔い改めてやり直す力を神さまによって持っているし、それを信じるパウロも自身が体験した福音によってこれを知っているのです。
その勧めの筆頭が「喜びなさい。」であります。喜ぶということが命令形で言われるとは不思議なことです。人間だけが笑うことができると言われています。他の動物でも好ましいこと、嬉しいことがあるに違いありません。しかし、笑顔は人間独自のものでしょう。自然にわきあがってくるものです。
だから作り笑いは無理なのです。不自然なのです。命ぜられてもできるものではありません。しかも、この聖書の記者パウロは、クリスチャンたちに向かって「兄弟たち。喜びなさい。」というのです。
別訳では「さようなら」ということだそうです。単なるあいさつの言葉とも考えられます。日本語のさようならは実にファジーな内容ですが、このあいさつは人生肯定的な感じがします。英語のグッドバイはこの線を受けています。神が共にいますように。それなら喜べますね。
(一九九一年一一月一七日)
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。(第二コリント一二・九)
人が自然に目ざめる時がある。実は神は御自分の造られた大自然を神の御心の啓示の手段としてお持ちなのだから当たり前の話であるが、雑事にかまけて、人は実際にはそれを見おとす。
私が神学生の皆と連れ立ってアルプスの「白馬」に行った時はびっくりした。腰かけの上に横になってじっと星を見ていると、平地で見ているのとは違い、空気も汚れていないせいで、数も多く、じっと見ていると、比較する物がないので大きな星がスーっと自分の方に近づいてくる、という経験をする。
「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。・・・」(詩篇八・三、四)人が小さく見えてくる。そして、この「人」に目を留めて、それを造られた神を見るに、驚きのため息が聞こえてくる。
「あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。・・・」(八・四)
神の、私たちに贈るメッセージは、意外な形であらわれる。
ダビデが、四メートルもある戦いなれしたゴリヤテに、力でなく信仰で勝利し、戦いに疲れ必死に祈った時、思いがけぬ力に恵まれ、ドンデン返しに勝ってしまう。
また、果てしなく広がる天空をながめ人の小ささを感じ、それを「人を神よりいくらか劣るものとして」造られた神の御心・・・。
しかし神を見て人を見ると、何か大きなことを与えられる様だ。「少年よ、大志をいだけ」(キリストにあって・・・)が心に残る。
(一九九六年一一月一七日)
私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。
(ローマ一五・一四)
人を信じるということは生易しいことではありませんが、もしそれが出来れば、奇跡を生むことは間違いありません。これは愛の奇跡と呼べましょう。愛だけが、信仰による愛だけが人を信じさせるのです。それは、主の内に見られるものであります。主の信頼は、ご自身の犠牲という土台の上に立っています。だから、それは愛以外の何ものでもないわけです。
ある研究によれば、クラス分けのテストの結果、あなたたちは近い将来成績が上がると予告された期待群とそうでない一般群とを、それぞれある期間後に調べると、前者は成績が上がっていたが、このクラス分けが実はデタラメであったということである。つまり期待された人はその期待に応える、というわけである。これをピグマリオン効果というそうだ。期待されすぎてつぶれることもあるが、一般論としてこれは信じるに価する論である。
ペテロが死を予告されてもなお従順へと進んで行けた理由は、主の期待があったからだ、と言えないだろうか。(ヨハネ二一章)ローマの人々はそんなに力があり、知恵に満ちていただろうか。パウロの確信は彼らの実態によるものではなく、信仰的な理由から来たものであると思う。どうしてかと言えば、だからこそ彼は、このローマ人への手紙を書く必要があったからである。
期待しえぬ時に期待する。これは容易なことではない。主と同じように命がけの犠牲を伴う場合が多い。が、やってやりがいのあることでもある。福音宣教の歴史は、無きがごとき者の用いられる歴史である。
(一九八四年一一月一八日)
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ八・二八)
神の摂理というものをあらわす、大変慰めに富むよい言葉だ。自分が信仰を持った当時の文語体の聖書(一九五〇年頃)では、「凡てのこと相働きて益となる」となっていた。
事が終わってみると「結果は自然なり」で、何やら自然主義者の日本人には好まれたものの様である。
今の新改訳聖書では、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる・・・」となっていて、すべてそのようになる背後には、神が居給うてそれを導いていて下さるということが、はっきりと出ている。
これは文語体の聖書とは、この部分が原本が違うのであって、新改訳の欄外注の所に「異本では『すべてのことが働いて益となることを・・・』となっている」と書いてある。
もちろん、文語の場合も「なるようになったら良くなってしまった」ということではないが、冒頭の新改訳の訳の方がはるかにすっきりしている。
私たちは、ノドもと過ぎれば熱さ忘れる・・・で、いつの間にか事が解決してしまったというようなことになりがちであるが、それは、その人のうちに真の祈りがないせいである。
神は、その一人一人の愛する者たちを、まどろむこともなく守り導き、悪より助け出していて下さる。だから、祈っていない者たちには何時の間にか・・・という事になりかねないが、祈りつつ神の御手を待っていた者たちにとっては、神がすべてのことを働かせて益としてくださっていたその御手を、実によく知ることができるのである。
そこに感謝が湧く。物事は決してなるようになるのではない。神がなされるのだ。
(一九九〇年一一月一八日)
目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい。(第一コリント一六・一三、一四)
パウロは、神にあって人間を見る目のすぐれた人でした。だから勧めも適切であったのです。ここにある四つの勧めは、コリント人の世的な生活を教え、実践的な注意を与えたあと、まとめて勧告した勧めで、四つあります。
目を覚ましていなさい−マタイが「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないから・・・」という主の言葉を記録しています。主がいつ来られてもいいように用意された心でいる。これがまず第一に必要なのは、神の前にあることです。
堅く信仰に立ちなさい−主にあってしっかりと立つ。(ピリピ四・一)確固たる歩みは信仰の結果です。私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる(四・一三)というのがクリスチャンの魅力でもあるのです。主の来臨を期待し、着実に歩んでいくのが、福音に生きるものの救いというものです。(第一コリント一五・一〜二)
男らしく、強くありなさい−旧約聖書に「男らしく」ということで面白い光景がのっています。(第一サムエル四・九)イスラエルの人々が神の箱の帰還を喜び、凱歌を上げてふるい立っている時、がっかりしたぺリシテ人が励まし合った言葉だ。「さあ、ぺリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ(さもないとへブル人の奴隷になるぞ)。」その結果、イスラエルをさんざんやっつけたというのだ。信仰の勇気ならもっと強いはず。
いっさいのことを愛をもって行ないなさい・・・力はしかし人を傷つける。愛はすべてをおおうことを知らなくてはなりません。
(一九八九年一一月一九日)
使徒の働き九章三六〜四二節の話。ヨッパにタビタという女性がありました。ギリシャ語に訳すとドルカスと言います。「カモシカ」という意味。名は体を表わすと申しますが、さすが、積極的な奉仕で知られた(三六)人らしい名です。美しく、優しく、善をなすのにすばやい女性だったのでしょう。彼女が惜しまれながら死んだ時、悲しみの中にいる人たちの要請で、ペテロがこれを生き返らせました。
この事件の波紋は大きかったようです。四二節は「このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた」と申しております。これは死人がよみがえるという驚くべき奇跡のせいもありますが、何よりも彼女ドルカスがキリストの教えの弟子として多くのよい業と施しをしていて、そのことが目に見えるかたちでも人々の間に残っていたからに他なりません。(三九)生前の証しがどれほど大切なことでありましょうか。
彼女は女の弟子と記されています。弟子とは、何もかも捨てて主の教えについていく者のことを指します。彼女はクリスチャンとしての愛のために生涯を捧げました。三九節には彼女の作ってくれた下着や上着の数々のことが出て来ます。彼女は財産のすべてを捧げ、犠牲を払ってこの仕事に打ち込んでいたものと見えます。贈り物をしたのみでなく、これに全精力を尽くしていたのです。さすがは弟子。この弟子にとっての神礼拝はよき業であったのでしょう。神がペテロを使って彼女をよみがえらせました。数少ないよみがえりの例を聖書から拾ってみますと、それぞれ重要な意義が伴っています。ドルカスの場合は何でしょう。神がこの世で尽くした礼拝を本当に受け入れられたことを表わしています。
そして、この大きな業の意味は、死んだ時初めて、大きなポッカリ空いたアナとして分かったのです。人の死とはそんなものです。
(一九八八年一一月二〇日)