主の小道
11月1日〜20月10日


静けさと賛美

神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。
(詩篇六五・一)

神の御前にはどのような静けさがあるであろう。詩篇の記者は「我が魂はただ黙して神を待つ」とうたった。人は神の御前で、まず何ごとにもまして黙すべきかも知れない。
いかなる冗舌もそこでは無意味である。神をほめたたえてもその言葉は不足だ。私たちの言葉には、神を喜ばせるどんな知恵もあらわれない。無意味に鳴りわたるドラの音のようだ。その罪はどんな言葉によっても弁解しきれない。人はただ黙すべきである。
そこに何が起こるか。大風の中にも火の中にもない、神の細い声が聞こえてくる。静けさこそ神の御前にふさわしい。人は黙してただ神の語られるのを聞くことだ。そこでだけ人は自分の本当の姿を知る。私たちを見通した神がそれを教えて下さるからだ。それがいやで人は騒ぎたてている。酔うように大きなビートに身を任せる。しかし、一度静まればすぐに神のみ声が聞こえてきて、人は自分の姿を知る。
それが出発点だ。「私は救われるために何をしたらよいのですか」とたずねると、神は十字架の上でその罪のために捧げられた御子イエスを示される。ただ黙して神を待つ者にとってのみ、十字架の言葉は愚かでない。静けさの中でだけ罪が認められ、静けさの中でだけ人は十字架を受け入れる。静けさは真の恵みの源であり、それは神の御前にふさわしい。
そこで御旨が一番はっきりと語られ、聞かれる。私たちはしばしば静まるべきである。
神の御業はそこに起こるからである。その静けさの中から湧き起こる賛美こそが真の賛美である。冴え渡って聞こえ、すべての人の心に明確にひびく福音の証しとなるのだ。まことに神の御前の静けさこそ賛美の源である。
(一九八七年一一月一日)

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自分にとって治める事

もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。(第二テモテ二・一二)

この聖句は私の長い間の質問に答える意味を持っている。人間というものは、それぞれその人なりの特有の悩みがあるものだ。性格とか、仕事とか、その人の生涯の目標とかで、それは違ってこよう。
牧師である私は、たとえ小人数ながら、主より託された霊的な羊を牧する任務がある。
そのことについて常に不足を憶えているものである。
小さい時のこと、父親に「自分はどうして雄治と命名されたのか」とたずねたことがある。「雄々しく治める人になれということだ」との返事であった。
指導者の仕事は決断をすることだと聞かされて、なおのこと自分の足りなさを感じたものだ。
ある時、このパウロからテモテヘの手紙の一節が目にとまる。「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」実にすばらしい聖書の真理ではないか。
雄々しくというと、力ずくでと理解しがちである。そういう風に格好よく治める人を羨ましく思うことがある。
しかし聖書の真理はこれとは異なって、福音によれば、我々の主は十字架を負って殺され、死に打ち勝って勝利者となられた。この真理である。
パウロが、「私は牢に入れられているが福音はつながれたるにあらず」と言い得るこの卓見が、自分には欠けていたことに気づかせられた。
息子が小学生の頃、「父の背中を見て何を思うか」と教師にたずねられ、「忍耐しているということだ」と答えたことを知った。
確かにそうであった。しかし今はこの聖句に強く励まされる。農夫の忍耐は待つことだった。強い兵士は辛抱強い男だ。真に治める人とは、耐え忍ぶことの出来る人なのだ。
(一九九二年一一月一日)


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主の忠告

わたしはあなたに忠告する。・・・買いなさい。(黙示三・一八)

この「あなた」とは、ラオデキヤの教会と呼ばれている「冷たくもなく、熱くもない」教会のことである。七つある諸教会のそれぞれの名は、現存した地名で呼ばれているが、ここではそれぞれそれらの教会の特徴を分類し、代名詞のように使われている名である。
ラオデキヤの教会は、現代の教会、私たちをあらわしていると言えよう。特に日本の場合である。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(一七)まさに私たちのことである。霊的な状態としては最も危険である。こういう時には主を否み、「主とはだれだ。」とよく言うことがある。(箴言三〇・九)
さて私たちへの忠告は何か。真に富める者への道は何か。
一火で精練された金をキリストから買う。若い時の苦労は金を払ってでもしろ、という昔の言葉がある。キリストとの密接な関係を保ちつつする苦労は、若い者も年寄りも、金を払ってでもする価値がある。私どもの人格をあぶり出すような試練も、主にあれば益となるということである。
二裸の恥をあらわさないために着る白い衣を買う。人間の裸の恥はキリストの十字架の贖いによってのみ隠される。人はすべて罪ある者なので、それを隠す衣を自分では持ちあわせていない。
三目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買う。キリストにある真の価値観の中に生きる。クリスチャンの知る「神の栄光」という価値観こそ、人生の目的を正確に指し示すものである。(第一コリント一〇・三一)
(一九九一年一一月三日)

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真理に立つ

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
(ヨハネ一四・六)

議論し合っている人々は、我こそは真理に立って話していると思っている。カッカとしている様子でも分かる。どうして分かってくれないのだろうとじたばたやっている。彼らの考えの中には真理は一つだと言わんばかり。ただ一つの真理を見出すのでも大変なことなのに、彼の口からは次から次へと「真理」が飛び出してくる。それらは「真理らしかったり、真理だと思っていることだったり、またはただの信念だったり」することもある。
「真理だ、真理だ」という事柄はいっぱいある。本当にそれはどういうことを指すのであろうか。つれづれに聖書を見ていて気がついた。
イエスは一気に言ってのけた。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と。
私たちは何となくクリスチャン同士で話が合ったり、分かって貰えたりすることに思いあたる。そしてまたとんでもない大きなミゾも体験する。果たして本当に話し合えて一致する真理ってあるのかしらん。そこで気がつくことは、真理とはキリストの御人格そのものであるということ。真理とはキリストを受け入れてみて理解することができるということである。この真理は道でもあるということ、目指すところ、達成するのに距離があるということなどだ。
また同時に生命でもあるということである。真理は死んだ机の上の産物ではない。道のりを歩いていかせる原動力なのである。皮をむいて「これだよ、真理は」と言ってのけられないものだ。
(一九九六年一一月三日)

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彼らは共にちりに伏す

ある者は元気盛りの時に、全く平穏のうちに死ぬだろう。彼のからだは脂肪で満ち、その骨の髄は潤っている。ある者は苦悩のうちに死に、何の幸いも味わうことがない。
彼らは共にちりに伏し、うじが彼らをおおう。(ヨブ記二一・二三〜二六)

人の死は人生について深く考えさせる。その点、もっとも恵まれた伝道集会の時とは、人がそのことに直面する葬儀の時だといわれる。
生きている人間にとって、突如その中断がやってくる死とはまさに対決してくる力であって、深刻な重さを持っている。同時にその死に直面する「時」もまた重要であろう。
まだ先があるとたかをくくっていたある農夫が、おごりの絶頂期に「今夜あなたの生命がとられる。それを知らぬ愚か者めが・・・」と神よりお叱りを受ける。(ルカ一二・二〇)
モーセが約束の地カナンを目の前にして、百二十歳という高齢ではあったが、目もかすまず、気力も衰えていなかったのに、神の命令で召されたことも思い出される。その時は神によって定められており、おりに適って美しく、一つ一つに最高の意味がある。
また死に様についていえば、かわいそうなのもあれば、それほどでもない、惜しまれながら脂肪で満ち、骨の髄まで潤った死もある。しかし、これは見方の問題ではある。
苦悩のうちに、何も恵まれるところ、報いられることもないままに召される人は可哀そうともいえるが、それは死のこちら側だけを見る時にそういえるだけだ。
「彼らは共にちりに伏す」のである。そのちりの中から世の終わりの時に主に呼び出され、復活して天国の喜びを味わうか、第二の死のためによみがえるか。ここが真の幸いへの分かれ目だ。
(一九九〇年一一月四日)

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働かざる者は・・・

静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(第二テサロニケ三・一二)

この聖句の少し前のところにパウロの言葉として「働きたくない者は食べるなと命じた。」という使徒の生活上の姿勢について書いてあるところがある。
ある人と話をしていて、聖書の言葉は同じことを言っても言い方がやさしいですね、とのことであった。世の中の言い方をすれば「働かざる者は食うべからず。」、つまり「働かない者は食べてはならない。」ということである。働かざる者はというところを働きたくない者は・・・といっている、というわけだ。
一般の言い方では突き放しているが、聖書の表現では、穏やかにやわらげられているというのだ。じっと見ているとそういう風に感じられてくるから不思議だ。
飲み食いするという営みは、人間にとって最も自然で普通の動作、仕事である。これは、神さまの御前で人間がアダムを通して神の命令に違反し、罪を犯した時から、人間に課せられた作業である。人間は、働きたくなければ食べていくことはできないことになったのだ。
しかし、神さまはその業を単なる罰として下さったのではなかった。人が額に汗して静かに仕事をし、自分の手で得たパンを感謝しつつ食べる時、こよなき喜びを得られるようにされたわけである。勤労の喜びというものか。
神さまに静かに祈って、この働く喜びを得た人、勤労のパンを食することの幸いをとらえた人は、幸福と言わねばなるまい。
だから、何も働かないで、しまりのない歩み方をすることが、強く警告されている。他人のおせっかいはするが自分を律することはできない。こういう歩み方はかえってつまらないと言わざるを得ない。
あなたは、今日どんな思いであなたの仕事場に出て行くか。
(一九九四年一一月六日)


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積極的な考え方

シモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(ルカ五・五)

人生を前に進めていく原動力となるのは「積極的な考え方」です。それを生み出すのは聖書信仰といっていいでしょう。
私たちは自然と否定的・閉鎖的な考えになりがちです。何回か失敗した経験があると、どうしても立ち直るのが難しいものです。「夜通し働いても、何一つとれない」経験というものは、よくあるものです。しかもこの場合、シモン・ペテロは漁師で、その道の専門家であります。ただぼんやりとつっ立っていたため、とれなかったわけではなく、場所を変えてみたり、違った方法をとったりで、きっと苦労したことでしょう。こういう時は本当に悲劇です。
重荷を負う者、労する者は我に来たれ!とイエスはおっしゃいます。キリストを信じる信仰でこの世の生活においてよい面といえば、このどうどうめぐりの閉鎖的な状態を、どういう方法であれ打開してくれることではないでしょうか。
ノーマン・ピールという人は、「積極的な考え方の力」という本の中で、肯定的な考え方で信念を持って進めば何事もうまく行くものだ、特にこの「信念の魔術」が力を発揮するのは信仰の世界においてである・・・と言っています。
自分は漁師で、その分野で全力を尽くした。せっかくのお勧めだけど、あなたは大工ではないか・・・。こう言って消極的に今一度の試みを拒むことがあります。しかし、それを言った方が神だと信ずる時、「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」ということになる。
ここに新しい可能性が生まれるのです。信仰者の群れ、つまり教会は、信仰によって頭のやわらかい人たちでなければなりません。
(一九八三年一一月六日)

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夕暮れ時に、光がある

その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。(ゼカリヤ一四・六、七)

この聖句はゼカリヤの有名な「その日」の情景である。その日とはつまり「私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。」(ゼカリヤ一四・五)時である。主の再臨の日だ。その日より後に始まる永遠の都には「もはや夜がない。」(黙二二・五)今の時代は神が昼と夜を定められているので、その両方がある。神と交わる魂にとって夜は賛美と沈静の時であろうが、アダムの罪以来、多くの人にとって、これは孤独な、悶々とする眠れぬ時である。教会の台所にあった誰かのコーヒーカップには「生きているからにはつらい時もある涙こぼすなそれが人生」と書いてある。神なくして、夜はそのまま暗いだけであり、辛いことはツライだけなので、こうしてがまんするしかない。
この頃、病気の末期の患者に希望を与えるホスピスの活動が脚光を浴びはじめた。これはとてもすばらしいことである。人は年をとるとボケる。これは死の恐れをとりのぞく自然の働きとも考えられるが、与えられた人生に最後まで光があたり、主を賛美することが望ましいのは言うまでもない。信仰は持っているものの、ただ痛みをこらえて一日一日を過ごしている義母を見ながら、ひそかに「夕暮れ時に、光を・・・」と祈る者である。
自分の病気の実態を知らされることが是か非かはまだまだ議論があり、その人によりけりだと思う。知らされて必ずショックだろうが、その時こそ自らの意志で生涯を主にあずけ、死の準備ができるのかも知れない。なりゆきまかせより、はるかに意義のあることのようだ。
(一九八七年一一月八日)

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満ち足りることを学ぶ

私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。(ピリピ四・一一)

今の時代は、わが国は食べ物で満ちあふれています。(年間、二十組の夫婦が餓死しているというのに・・・。)
こうした中で、どんな境遇にあっても満ち足りることを知る、ということは大事なことです。
人間は満足できればそれが至福の時ですから、満ち足りれば、それは真の幸福につながるのです。
パウロは言いました。「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ四・一二〜一三)
こういう心の平衡感覚は一体どこから来るのでしょう。
どんなところでもがまんができる、どんな時もこわいものがない、ということです。
この「足りることを学んだ。」という言葉は、ギリシャ語では、「試練を通して学んだ。」
ということです。
満ち足りるのは、無理やり苦しいところをがまんするというのではありません。中身の充実したもので、何がなくても喜べる心持ちです。
ほどほどの生活に心から満足し切れるということは、どんなに素晴らしいでしょう。
それは事をいい加減にして放り出すということではなく、自分が精一杯主にあってやった事を受け止める、ということです。
そしていつでも感謝な心で人生を送ることになるのです。
これは自分の業ではなく「私を強くしてくださる方(キリスト)」によって、私たちの内に作られることであります。主イエス・キリストが私たちをどんな境遇にあっても守ってくださるという信仰が必要でしょう。
(一九九六年一一月一〇日)

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偉大なる招き

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。(ヨハネ七・三七〜三九)

主イエスほど私たちの必要を満たしてくださるお方はない。だれでも重荷を負って苦労しているものは、そこへ行けば休息がある。渇いている者があれば潤される。しかもそれは、砂漠の中の泉のように自分の内側から潤されるのだ。
また、主による供給は、この世のものと比べてみてその性質が違う。サマリヤの女に主が言われたように、砂漠で旅人の喉を潤した水がどんなに甘いものであろうとも、また渇く。キリストを信じる者に与えられる潤いは、二度と再び失われることはない。主より来る平安もまた素晴らしい。物や健康のように眼に見えるものがないと私たちに来ないこの世の平安ではなく、人生の苦労の片隅に追いやられてなお上を見上げることのできる希望である。
こんなことを言っても、人は決してそれを理解しない。主の弟子たちはこの救い主を伝えるにあたって、ただ来てみなさいと言う。あなたが自分で体験する主の平安が不思議な力で人を魅了するのである。これが証しだ。
イエス・キリストを信じる人は、自分の内に力の源泉、すなわち生命を持っていてそれが絶えることがない。平安があれば、それは世の何ものも邪魔できない。そういうところに主は私たちを招いておられるのです。来たりて見よ。これが一度主を知った者の心からの声です。招かれる主こそが、自分を犠牲にしてそれを備えられたのですから。
(一九八四年一一月一一日)


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