主の小道
10月21日〜10月31日


人生の栄え

その人は、何をしても栄える。(詩篇一・三)

詩篇の第一篇は、詩篇全体の序文であります。詩篇には神にある人間の生き方が描かれ、その第一篇には全体の要約が書かれています。特にユダヤ人らしく、コントラストで示されているので分かりやすい。
まず、幸いということから説き起こします。一節には三つの「ず」が出てくる。「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かず」だ。
積極的には「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」のです。
聖別された人であり、学ぶ人であります。
人生というものは、その日一日がただちに結果をあらわすようなものではありません。
忍耐を持って自分の霊を見つめ、主を待ち望む時、農夫の忍耐がすばらしいものを生むのです。そうです。時が来ると実がなり・・・です。
水路のそばに植わった木のようです。実がなり、葉は枯れないのです。
何よりも嬉しいのは「何をしても栄える」という約束です。「そのなすところ皆栄えん」とは力強い限りではありませんか。
何をしてもいい。これは危険きわまりない言葉といえます。この自由はおそるべきものと思われるでしょう。
しかし、これこそキリスト者の自由を表わしています。
本当の意味での基本がしっかりしていれば、道をはずすことはありません。それが一節と二節にある三つの「ず」と、二つのクリスチャンの特徴でしょう。
テモテ・ザオという伝道者が話したのを聞いたことがあります。「主に従えばクリスチャン生活は楽しいものだ。実に楽しい・・・。そのなすところが皆、祝福の故に栄えるからです。」
(一九九一年一〇月二〇日)

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励ましつつ罪を赦す

彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。(ヨハネ八・九)
この時はイエスにとっても危険な時であった。姦淫の現場から連れられてきた女はみんなの視線を体に感じつつ震えていたのである。このような罪は「石打ちの刑」であった。
(ヨハネ八・五)
「モーセの律法は、こういう時には石打ちの刑になるのですが、あなたのお考えはどうですか」というのである。これはパリサイ人のワナであった。
もし赦してやれと言えば律法違反だし、石打ちの刑に処すればイエスは律法主義者だ。
それなのに多くの面で違反していると言ってなじるだろう。
イエスの答えは明快であった。人間には律法だからといって人を裁く理由がない。それを直接イエスは民衆に問うたのである。彼らは良心がとがめて、裁きの実行をやめた。そして老人から始めて、一人去り二人去って、イエスと女の他は誰も残らなかった。
この世で苦労した人々が何よりも先に自分の罪に気がついたというのはなかなか意味深い。この世の経験のない人ほど、人をよく裁くからだ。経験不足から自分の悪い所に気づかない。
また、こういうことが分かる。「私はあなたを赦します。」という事のできるお方は神の子一人しかいない。
ご自分の身体を十字架につけて人の赦しのバックグランドとしているお方にして言えることなのだ。赦された後、主の「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。
」ということになる。この女は再度罪を犯さなかったと思う。
(一九九六年一〇月二〇日)

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左の頬を向ける

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ五・三九)

あのバークレーはこの所を引いて、「キリスト教倫理としては新約聖書中で最高・・・」と評している。左をも打たれたら次はどうするか。今度こそなぐりかえす。これは冗談であるが、言葉の調子から言えば、相手がさらに打ちたければ打たせるというのが真意であろう。
どこかに打ちかえすという部分があれば、それはもうここで主が言う意図に反するわけだ。この姿勢はやられっぱなしで実に否定的・消極的な生活態度に見えると言う人がいるかも知れぬ。
しかし方向を変えてみるならば、際限なき繰り返しをストップさせるまことに積極的な姿勢ともとれる。我らの主が軍馬でなくロバの子にまたがった王であり、苦難のメシヤで我らを救われる救い主であられるのと同じだ。
しかし、エレミヤの言ったことば、「自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。」(哀歌三・三〇)を見れば、さらにそれがわれわれ自身に対して積極的な意味を持つことに気がつく。
主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。・・・これに続く言葉として考えてみると一層そのことが分かる。
自分の頬を黙って打たせる姿勢の中には、主を待ち望みつつくびきを負ってじっと黙って座っている者を見る。
主はこういう者にいつくしみ深い。だから二度、三度と頬を打たす者は相手のことを考えているのでなく、いつくしみ深い主の御扱いを待っているわけだ。
(一九九〇年一〇月二一日)

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あなたの計画

あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。(箴言一六・三)

結局、「主の道だけが堅く立つ」ということになれば、何をか言わんやで、もはや自分たちにはやるべきことがないということになりかねない。
しかし、この世の中にははたから見てその人の実力も将来も見え見えであるのに本人はそんなことにおかまいなく自分の道を進んでいることがよくあるものだ。下手の横好きという言葉もあるが、好きこそモノの上手なれというふうにも人は言うのであって、いつのまにかいっぱしの人になっていることもあって、これはやたらなことは言えない。
しかし私の言うのは、自分の目にはこれでよいと思っていることであっても滅びに直行する道もあり、実は本物が見えてないということがいくらもあるということである。結局は自分の力で努力する以外はないのだが、ただ不思議と主にゆだねると正しく努力する道が見えてくるものではないだろうか。
コツコツとやっていてもなかなか芽が出ないような時には自分も他人もいやになってしまうが、それでも主の道を探る者には希望があって自分の力を超えた努力を続けるものである。そうしてこの「農夫の忍耐」が実りの秋に報いられるのである。
農夫には日照りの時も嵐の日もある。そして、時たま努力した一切のものを失うことすらあるのだが、ただその努力が秋までもてば必ず報いられることを知っている。農夫にとっての実りの「秋」は実りの代名詞であってその時は必ず来るのである。
主にゆだねるとは農夫が秋を知っていると丁度同じようなものである。主にゆだねて放り出すのではない。自分の道を歩みつつ主を待つのである。
(一九八三年一〇月二三日)

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兄弟をおこる罪

出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物を
ささげなさい。(マタイ五・二四)

この頃気になることがある。ラジオやテレビに出てくる男性のタレントがしきりに相手の女性司会者を「お前」と呼び「馬鹿」とののしるのである。あれは私にとってはえらく気にさわる。
慣れてしまうと何でもないのかも知れないが、私にはがまんできない。「兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(二二)とイエスさまはおっしゃっているではないか。
私たちもふざけたり、からかったりしているうちに、知らず知らずのうちに兄弟姉妹たちを傷つけているのではないか。
相手が黙っている。笑っていると思って安心していると、私たちは知らないうちに大きな罪を犯すことになるのだ。
殺人が大変な罪であることは知っているが、私たちは知らず知らずのうちに舌で人を殺すに値することをしているとはおそろしい。その人の礼拝が神様に赦されないのだ。神様がお喜びにならないのだ。
「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。」(二三、二四)
私たちは気づかぬうちに殺人にも等しい罪を犯しているというのである。舌の恐ろしさだ。
そういう者を神は喜ばれず、礼拝をもお受け取りにならない。
礼拝をしようとする者は、まず自分が友とどんな関係か反省すべきである。
礼拝を受け入れられようとする者は、それ程の身づくろいをして主の前に出なければならない。
(一九九四年一〇月二三日)

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この世の生命をつぐ人

これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。(創世記三六・一)

この章にはエサウ以下の歴史が記されています。選ばれた民の祖ヤコブの傍系であります。旧約聖書の記し方には一つの特徴があるように見えます。創世記について見てみますと、そこには「天と地が創造された時の経緯」をはじめとしてアダム以下九つの歴史が記録されているが、アダムの歴史(五・一)の前にカインの系図が四章の後半に略記され、アブラハムの直系イサクの歴史を始める前に、その傍系のイシュマエルの歴史を処理している。(二五・一二〜一八)
それとよく似て、ここにもメシヤの先祖として選ばれたヤコブの歴史(三七・二)を始める前に、傍系エサウの歴史をこの三六章で処理してあるのである。(今までイサクが存命中であったからヤコブの生涯の記事は、イサクの歴史の中に含まれていたわけである)
彼らの生涯はこうだった、しかし主にあるものはという姿勢であろうか。傍系はどんなに栄えても残れぬ者、最後に勝利を得る民は神の民である。
詩篇の記者は「相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、彼らは、子どもらに満ち足り、その豊かさを、その幼子らに残します。」そういう人々について語っています。(詩篇一七・一四)確かに人生の一面はこうであります。約束の子たちが今なお荒野をさすらう者、寄留者であった時、エサウとその子たちはその詩篇の描写のようにこの世の地位、富を所有し力ある者となっていたのです。
これは一つの真理を表わしています。人はこの世でどんな多くの生命を継ごうとも、神の選びの中にあり真の生命に満たされずば結局何になるかと。
(一九八一年一〇月二五日)

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救いの中にあるもの

またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。(エペソ一・一三)

私たちがキリストによって救われた時、自分の中にどういうことが起こったのか、よく分かっていない人がいると困ります。キリストを主と仰ぎ、生涯このお方から離れないと誓ったことはよいけれど、み言葉によって自分の救いを確認しておきましょう。
まず救いの福音を聞くことです。これは真理の言葉とも言われていますが、創造者なる神がおられること、自分がその神さまの御前に罪人であることをみ言葉によって悟らせられ、救いはただキリストの十字架の贖いによることを知るのです。これらは聖書を聞き、聖書を通して働く聖霊によって確認することができます。これが信ずるということです。
そうすると約束の聖霊の証印をもって心の中に神の性質が印せられます。このお方に聞き従っていくとガラテヤ書五章にある御霊の実に満たされて、祝福されたクリスチャン人生を味わうことができるのです。
この人生の特徴は、聖書が言う「私たちが御国を受け継ぐことの保証」となられるということであって、これによってクリスチャン人生に確信を持つことができるのです。救われたことの確信は御霊によるものです。
これは神の民である私たちが贖われていることの証拠です。贖われていること、つまり救いの確信があることであります。もしこの確信がない場合、ガラテヤ書五・一六からの御言葉に従って自分の心を点検するとよいと思います。
そうして私たちは、豊かな贖いの確信の中にあって神の栄光を誉めたたえるべきです。
(一九八七年一〇月二五日)

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彼のかたちどおりの子

神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ・・・、アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。(創世記五・一、三)

ここに人間の罪の結果の悲惨さの原因が書かれています。アダムの子孫である人類は全てアダムに似たのです。神はわれわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろうと言われ、最初の人間を造られたのでした。
かたちとは「裁断されたもの」という意味で、形を持った物体の輪郭、影を意味します。ねずみの特徴を表わすねずみの像(第一サムエル六・五)、人の特徴を示す「神のかたち」なのです。ですから人間は最初に神の特徴に似たものとして作られたわけであります。一つの人格として生き、神との交わりを愛し、義と聖を愛することを特徴としました。
しかし神の命令にそむいたアダムはその全てを、ただ痕跡のみを残して失ってしまったのです。
さて、アダムの子は彼に似た、彼のかたちどおりの子であります。全ての人類はそのようにして次から次へとアダムの子として罪の中に生まれたのです。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・・それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ五・一二)
このように、アダムの罪によって損なわれた人間の中にある神のかたちは、キリストを信じる信仰によってキリストの聖と義と贖いとが、我らのうちに形を成した時に回復されるのです。損なわれたままの人間性が、人間の皮を被った動物の世界を現出している今の世をなげくものです。
(一九八〇年一〇月二六日)

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主は彼に目を留めて・・・

するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
(ルカ五・二八)

ルカによるとイエスはパリサイ人や律法学者たちの理屈を見抜き、見事にそれに反撃をされた。皆は非常に驚き、神を崇め、恐れに満たされたとある。(ルカ五・二二、二六)
こうした中で外に出られたイエスは収税所にすわっていたレビ(マタイ)に目を留めて彼を召される。一人の男の人生が変えられる瞬間である。マタイ自身の記録では「ご覧になって・・・」とだけ書いてある。
蛇に射すくめられたカエルのように、目を留められて動けなくなり、献身したわけではない。マタイの方でも自分の方をご覧になるイエス様を眺めている。彼の心の中にも自分の今の生活を反省し考え込んでいる部分があって、主に求めているのである。神さまの目が留まるということは何と光栄なことであろう。その全知は彼の問題の全てを見抜いておられる。あなたが必要とあれば、自分の全てをあげようというその愛は、イエスの御眼から注がれるように見えてくる。自分の方の求めも、何かしなければという思いも極限に達している。
そこに「わたしについて来なさい」というお言葉がかかるのである。彼は何もかも捨てて、立ち上がりイエスに従っていくのだ。
彼の献身は、引きしぼられた矢が放たれるに似ている。全ての準備が整えられているのである。この二七、二八節を見ると、そこに人の求めと主の招きの完全一致があるように見える。
人は献身を自分の力でやろうとしたり、もっと力強く抗し切れない力がある筈だと思い込んだりする。最後は自然だが、決してそんなものではない。
神の御目について、考えさせられるのである。
(一九九一年一〇月二七日)

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ただあわれみが人を生かす

ところが、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている。
(ヨブ記一五・四)

この言葉はあの苦難の人ヨブを慰めに来たテマン人エリファズのものである。
苦しんで祈ることもままならなくなった人に常識論をぶつけて、なおいっそう苦しみのドン底に人をおとし入れる人間の、典型的な例であろう。
言葉もなく苦しむ人のためには、こちらも慰めの言葉もないことが多かろう。ただ手をとりあって泣くだけのこともあろう。そんな時に言葉は何の意味も持たない。しかし、そこには少しの真理はある。
ヨブは友人から「あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている」と指摘されているが、これは真実であろう。一挙におそった悲しみで、彼は神さまを見上げる力も余裕のある信仰も失われて、祈ることもできず、ただただうなだれているのである。「まことに神は今、私を疲れさせた。・・・」(一六・七)実に悲しそうな瞬間である。神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、・・・」(一六・九)
しかしこのヨブの言葉の中に、突如輝き出す信仰の灯を見ることは不思議である。「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。・・・その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」(一六・一九、二一)
あんなに真っ暗な信仰の中にこの言葉が出てきたとはまさに奇蹟であり啓示であろう。
冒頭の言葉は、アメリカの改訂訳の聖書では「献身の程度を下げている・・・・」と読めるようだ。まさに霊肉共に暗闇の中を歩いていたヨブ。信仰も祈りも献身の一つもないヨブの信仰に回復をもたらしたものは何か。あわれみによる御霊のとりなししか考えられない。(ローマ八・二六)
(一九九〇年一〇月二八日)

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天井までもとどかぬ祈り

弟子たちのひとりが、イエスに言った。「主よ。・・・私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。』・・・」(ルカ一一・一〜二)

よく祈る人でも失敗することがある。「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」(マタイ六・七)とあるように、言葉を並べ立てて自分は祈っていると思ってしまうことがある。イエス様のお言葉によると、異邦人でもそんな祈りをすると思われる。
そんな祈りは天井までも届かない。家庭でのデボーションなどは、どうしても祈りが固定してしまうので慣れで祈ってしまうことがある。
そんな時、思い出すことばがある。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ六・六)よく子供がお母さんの耳元で、小さな声でおねだりすることがある。他人に聞かれるとまずいが、お母さんなら馬鹿にしないで聞いてくれる。丁度そのような祈りの願いごと。それが奥まった部屋にいます、奥まった所の神になす祈りなのかと思う。
そんな祈りなら願いごと一つ言わなくても「天にいます、私たちの父よ!」と呼びかけるだけで父に届き、何でもかなえられるような気がする。
あなたがたの父なる神は、あなた方がお祈りする先にその必要なものを知っていなさると聖書にあります。
父なる神は祈りよりも何よりも、四方を敵に囲まれてなお天なる神に寄り添って行く心を求めていらっしゃるのではないか。
(一九九四年一〇月三〇日)

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