主の小道
10月11日〜10月20日


デボーションのこと

あなたのみわざを、静かに考えよう。(詩篇七七・一二)

クリスチャンの霊的生活が豊かに成長し、実を結ぶようになるために必要なのはデボーション(瞑想・個人礼拝)の習慣であろう。よく家庭礼拝と言われるが個人的なという意味の家庭であって、家族単位でうち揃って行なう家庭礼拝とは区別され、一人一人の魂が主と対面し、神のみわざを静かに考え、自分をみつめることである。
種をまき水を注いで、植物の栽培が始まるとしても、育て給うは神だ。神の前に自分をみつめ、神の業を思うクリスチャンの魂は主の前に純化され、限りない成長をとげる。本当の自分の姿がわかり、主のご意志が分かるのでみ旨を行なう勇気と力がわく。神のみ心を行なうから祝福がある。だからなお励まされて主の道に励むことになる。
これはパウロが書いたガラテヤ書五章一六〜二五節の世界である。御霊の実を豊かに持つクリスチャンである。彼が「御霊によって歩みなさい」と言うからにはガラテヤのクリスチャンの中には信者でありながら肉の行ない(一九〜二一)の中に生きている者のあったことを示している。私たちは本当に救われたなら御霊がその内に宿る者とされたのだし、豊かに成長するためにはこの内なる御霊に導かれて歩まねばならないのです。
だからクリスチャンが本当にクリスチャンらしく生きるためには絶対にデボーションの習慣を確立しなければならない。これは絶対である。罪に敏感でみ旨を探る信者こそ生命のかおりをはなつ者である。人間の中には賜物のある人がいて、人づき合いのうまい者もある。しかしデボーション抜きのその人は真の喜びと平安とがあふれていないのでやはり異質な存在である。おそろしいことだ。
(一九八七年一〇月一一日)

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血の力

ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(第一ペテロ一・一八、一九)

有志の婦人方と聖書の通読と概説の学びをしている。すでに教会では何度も行ない、私も慣れていることなのであるが、聖書に心から興味を持っている者たちとそれを調べ合うのは喜びが深いことを改めて知る。
グルメが最高の料理を歓談しながら賞味するに通じ、それをはるかに上まわるものである。
旧約聖書レビ記にきて特にそうであった。この書はイスラエルの民が守るべき、いけにえの制度、様々な律法、宗教的な祭りなど、それも道徳律法は別として現代のクリスチャンには直接関係ないようなことばかり書いてある書であって、生涯何度かここまで読み進めてあきあきして忍耐を養われたことがある。
実際、キリストの救いとか恵みとかいうことを我々はどのようにとらえるのか。新約の時代の人々は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ一一・二八)などで知られるこの世に密着した救いなどの感覚で安易にとらえがちではあるまいか。
実際この聖句にしても「重荷」ということを深く理解すれば決してそうはならない筈である。
難しく、意味不明の事柄の中にレビ記一〜七章の五つの供え物の事がある。罪ある人間が神に近づく五つのいけにえだ。
十字架にかけられ血を流されたキリストの贖いの意味深さが分かる。レビ記に新約のへブル人への手紙を注解させ、キリストの十字架を思えば、救いの喜びが一段と深まる。
(一九九二年一〇月一一日)

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神を畏れると

あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたはわたしを思い出さず、心にも留めなかった。わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。(イザヤ五七・一一)

神を畏れるといえば、私たちの文化の背景の中では、バチがあたるとか、何か暗いイメージしか浮かんできません。
しかし聖書の言葉としてこれをとらえてみれば、これはこわがることなどではなく、「知る」ことだということが分かります。(箴言一・七、イザヤ一一・二)
愛の神を意識して生きることを神を畏れるというのです。
イエスさまは、「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。」とおっしゃっています。畏れなければならないのは「殺したあとで、その人をゲヘナに投げ込む権威のある者、つまり神ご自身」(マタイ一〇・二八)こそその方なのです。
神がそういうお方であることを知る時、その知識こそが私たちを解放し、この世には他に本当に恐ろしいものはないことを気づかせてくれるのです。
そのような神は雀一羽、髪の毛一すじをも目に留めて、それらが地に落ちるのを簡単にお赦しにならない愛の神なのですから、このお方を意識して生きるならば安心して(何も恐れず)生き続けることができます。
まやかしを言うこともありません。偽善はいりません。それらしくふるまっても、最初からは真実な信仰などというものはないのですから、軽々しく教えを捨ててしまうというようなこともないのです。
真に畏るべき神を知らない時、わたしたちは人を恐れ、惑いが生じ、ノイローゼとなるのです。
神を常に思い起こし、心に留めることこそ特に現代の人に必要なことではないでしょうか。
(一九九一年一〇月一三日)

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地の塩として生きる喜び

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
(マタイ五・一三)

クリスチャンとして生きることがどんなに素晴らしいか、見失ってしまう事が時々ある
のではないか。
ピューリタンの影響の強い宣教師に学んだ私は、日曜日にかかる教会外の行事は一切タブー。学校の友達と遊びたがる子どもたちに、まだ救われてもいないのに随分無理を言ってやめさせた事もあった。無念そうな彼らの事を時々思い出す。
私も幸いにして自分自身ではその信念をほぼ受けついでいるつもりである。
最近こんな事を聞いた。あるクリスチャンのその友達が、最近生きがいを失ってしまったという。いい嫁や家族の者らに面倒を見て貰って、何一つ不自由なく生活が出来るというのに、何のために生きているのか方向を失い、生きがいを見失ってしまったというのだ。そして、最近はまだそんなに年ではないのに、ぼけてしまったそうである。
クリスチャンでも年をとればぼける人も居るだろう。だが、一足一足主にあって歩むものたちには、全ての物に満ちたりて、その幸福さの故にぼけるひまはない様である。問題意識を持ち、召されるまで聖書を通して考え抜く、地の塩たちは最後まで戦い抜くであろうと思われる。失われていくたましいの事を考える時、心の内は燃え上がる。恵まれた事にぶつかれば、それらの恵みをも一つずつ数えて感謝する。天国という目標を目指して走り抜く私たちには、ぼけるひまはないのです。
若くして亡くなった私の親友のお母さんは九十二才のクリスチャンだが、驚くほど若々しい。
(一九九六年一〇月一三日)

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救われて終りではない

神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(第一テサロニケ五・九)

聖書の中には、罪に苦しむ人には実に大きな慰めに富んだ言葉が沢山出てきます。自分自身の罪深さを神の律法に従って深く自覚していくと、自分は神の怒りとのろいの対象のほか、何ものでもないことが分かってきます。「我、救われんために何をなすべきか」(使二・三七)という根本的な悩みに到達します。聖書の答えはこうです。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」(三八)イエス・キリストはその罪を真に解決してくれる力のあるお方です。主イエス・キリストの救いは私たちを神の御怒りから完全に解き放ってくれるものです。しかし、この最初の聖句に続くところをよく注意しなければなりません。「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」とあります。
「主とともに生きる」、これが救われたあとで私たちに課せられた大切な責任です。救われることよりも、この方がずっと大切だと言えます。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ六・四)とあります。
主にあって歩み出すのは、放っておいてできることではありません。生まれたばかりの赤んぼうを放っておけないのと同じです。救いの結果、与えられた聖霊の助けによって、弟子としてのきびしい訓練と十字架への道行きが残されているのです。救われて終りというのではありません。
(一九七九年一〇月一四日)

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主の聖徒たちの死

主の聖徒たちの死は主の目に尊い。(詩篇一一六・一五)

一粒の麦のたとえ(ヨハネ一二・二四)は、死んで私たちに生命を与えられた主イエスのことであるが、主のご生涯にその道程を学ぶ私たちの場合にも同じことが言えると思う。主にある聖徒たちの死は主の目に尊い。K姉の死に接してなお一層その感を強くした。
K姉はバプテスマを受けた教会員ではなく、私たちに主にある信仰を確認されてから時間もたっていない。いわゆる優等生のクリスチャンだったわけではない。が、その死は主の目に尊く、私たち周囲の者の心に重く響いた。これはおそらく姉の、主にあって持って生まれた性格と、何よりも死を直前にして必死でにぎった主のみ救いを信じるからし種一粒のような信仰によるものであろう。
主のみ救いを信じて召されていくことが、死の準備として最善にして最も必要なことと思わせられる。未信者の方々が「私もあのように死にたい」と口々に洩らしておられたのは単なる儀礼の言葉ではなかろう。信者の私たちもそう思ったのだから。人は一度必ず死ぬから、死出の旅路は必ず通らねばならない。この解決は全人に必要なものなのだ。その上、人が一度死することが確実なように、その人の審きも又必至だと聖書(へブル九・二七)にある。
このことを解決されて天に召されたのだから、あの死に顔の平安さは当然といえる。
それだけではなく実際上の準備もきれいだった。半年程前仏壇の戸を閉め、二度と開かず、その処分を願われた。言いおくこと、他人との関係で処理することは一つ一つなしとげて天におもむいた。
信仰の準備をして天に召されるクリスチャンは多いが、日々の生活を整理する余裕と実行を与えられる人は多くはない。
(一九九〇年一〇月一四日)


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安息日を覚えて聖とせよ

あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし・・・。(出エジプト三一・一三)

神はモーセに与えられた戒めの板をこの言葉でしめくくられて、板を彼に渡された。「わたしの安息」と言われるこの安息日厳守の命令は十戒のしめくくりという意味を持っている。一週に一度神の教会で聖日を守るということは霊的健康度の指標である。何にもまして、喜んで教会に来ることは信仰の祝福を表わしている。安息日を主のものとして覚え、これを他の日と聖く別けている姿勢である。
このことには覚悟がいる。徹底的にこれを守ったユダヤ人には簡単で、現代人には不可能だと思ってはならない。エジプトで奴隷の状態で働いていたユダヤ人に一週一度の完全な休暇は、たとえ宗教的な理由があったとしても考えられないことだし、事実、彼らがこれを守るためにはユダヤ戦役の時などには生命がけであったとも伝えられている。
たしかに現代人が家族共々教会を中心に生活するとなれば大変だ。学校や仕事の上の行事もしばしば日曜日にはみ出す。土曜が休日になったとはいえ、まだまだ余暇の行事の一切は祝日、祭日でもなく日曜日を定期的に用いるのである。クリスチャンにとっては実にこの辺から社会とのふれあいの決別が始まるのである。いろいろなことでどんなに悔しい思いをしたか知れない。
しかし、「これは代々にわたり、わたしとあなた方との間のしるし」と言われる。神を第一とする人に真の祝福があることを信ずるべきである。そして主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれた創造主、一切の存在の根源である方だということを心に銘記しよう。ここに真の信仰の基がある。
(一九八三年一〇月一六日)

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神と人との前に

神と人との前に好意と聡明を得よ。(箴言三・四)

他の人に好かれていると実感出来る事は大きな恵みである。いかなる場合でも、どうもあの人には受け入れられていないようだ、嫌われているかも知れないなどと思いながら付き合う気苦労は容易なものではない。
そこで人は人に好かれるようにとこの世の知恵を使う。
いずれにしても人間の知恵はうすっぺらでわざとらしい。聖書のこの言葉は人の生き方に多くのヒントを与えてくれる。
「神と人との前に」という。大切なことは「神と」ということである。私達のよく知っている聖書の言葉に主イエスの幼年時代を描写したものがある。
「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」(ルカ二・五二)である。知恵や体の大きさの成長のみでなく「神と人とに愛された」ということが言われている。
真に人に愛されるためにはその人に神の豊かな祝福がある事が必要である。
もう一箇所ルカの二章四〇節に「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」という言葉がある。人間の成長と強さと知恵の増加の背後には「神の恵みがその上にある」必要がある。自然で美しい人間の性質は神から来る。神の祝福がその人の上にある人は折りにかなって美しい。
「こんな罪人をあわれんで下さい。」と言って神に祈った取税人もそうであったように、神との間が悔い改めと信仰とによってつながっている人は、神が義と認めて下さるのだ。
(ルカ一八・一四)
神に罪赦された者には言うに言われぬ安らぎと静けさとが周囲にただようものだ。
そういうものは人の誰もが好むものなので多くの友を得る。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」箴言三章五節にこうある。
(一九九四年一〇月一六日)


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皆のための自分

この度、皆さんのご理解をいただき、九日間毎日三時間のハードなスケジュールで日赤の救急法というのを勉強させていただいた。これは大変世の中の役に直接立つものである。一例をあげれば、人工呼吸法を知っていると呼吸が止まって一分以内だと九五%助かるが、四分たつともう五〇%に蘇生率が落ちるという。何らかの理由で意識を失った人に気道の確保をしてやるだけで、又呼吸の止まった人に人工的に呼吸をさせてやることができたらどんなに多くの人が助かるか知れない。
私は実は二〇年も前に同じ勉強をしたことがあって、それでも数回人助けをしたことがある。今回は、改めて最新の方法を学んでみたくなってやってみたのだが、ハードだったけれども実に興味深く学べた。高校生位でも来ていたので、機会があればクリスチャンもどんどんやったらいいと思う。
これは決して難しいものではないばかりか、簡単な常識程度のことをしっかり理解し、身につけていれば家族が助かることが多いのだ。また神と人とに奉仕することをモットーにするクリスチャンには、またとない機会を提供することになろう。大いにお勧めしたい。教会も人が集まる所であるから、これからますますこの必要が痛感されることになろう。
それから最後になるが、日赤のボランティアたちの活動のことである。これらの講義はテキストや資料は別として無料であり、実技指導員らは皆、無償奉仕のようであり、実にへりくだって赤十字の精神にのっとって我々に奉仕をしてくれる。
クリスチャンにとって福音を伝えることが真に人を愛することになることは間違いないのだけれど、よきサマリヤ人のように見知らぬ旅人に積極的に奉仕しようとする具体的な行為には非常に乏しいように思えるが、どうであろうか。
(一九八七年一〇月一八日)

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一つのしるし

・・・そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。(創世記四・一五)

人間が神から離れるとすぐ恐ろしい罪の結果が現われます。アダムとエバにカインという長男とアベルという次男が生まれ、弟の方が捧げた献げ物が神に喜ばれたのをねたんだ兄はアベルを殺してしまいます。原因が宗教行事であったことは不思議ではありますが、まだ彼らは神とよく交わっていたアダム達から二代目で、宗教的な行為の習慣は残っていたのでしょう。しかし、神より離れた者たちがいくら宗教的習慣の中にあっても悲惨な罪の結果をまぬがれることはできなかったといえます。
神さまはその罪のための罰をカインに与えました。彼はさすらう者となるのです。どこの土地も定住できるほどは実を結ばず、のろわれた者となってしまったからです。彼は神の顔を避け、人をも避けなければならない身となるのです。罪の結果はすさまじい孤独です。しかし、彼にさえ悔い改めの機会があったように見えます。
彼は主に言いました。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。・・・私はあなたの御顔から隠れ・・・私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」このように自分の罪を告白するとあわれみをもって神はカインを扱われます。こんな恵みの約束をして下さったのです。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」と。それだけでなく、彼に出会う者が間違ってでも彼を殺すことのないように、カインに一つの「しるし」を下さったのでした。
これは大いなる約束と、守りの確約です。どのような罪深い者も自分の罪とその悲惨さに気づいて神を見上げるならば、あわれみを受けるのです。
(一九八〇年一〇月一九日)

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