主の小道
10月1日〜10月10日


パウロの弟子

私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。(第二テモテ一・三)

よくテモテはパウロの弟子と言われるけれども、たとえ彼にしてもイエスの十二弟子たちのように弟子であったことはない。テモテ前・後書で分かるようにテモテはパウロ先生から多くを学んだし、パウロにしても語るべきさらに多くの事が心の中を去来していたことであろう。しかしテモテは、いばった先生のみじめな生徒であったことはない。
彼は「愛する子」(二)であった。パウロにとっては、彼のことを思う時には祈り、神に感謝し、会いたいと思い、テモテの純粋な信仰からは、自ら教えられることも多い仲であった。キリストの前では、この世にある師と弟子の関係は成立しないようだ。私もかつては学問の世界で師に仕えたことがあるが、年を少しとって、また他人から先生と呼ばれる立場に慣れきっている自分には辛い面が多かった。師について行けなければ捨てられる。しばらくは我慢してくれても、自分にとってよい者を結局選んで本当の自分の弟子にしてしまう。こちらの事情にあわせて引き上げてくれるということはない。ましてこの第二テモテ一章一〜一四節のような温かい言い方などは決して聞くことは出来ないのである。
テモテはパウロにとって、弟子というより愛する同労者なのである。すべてを教えられるのだから形の上では弟子なのだが、基本的には同信の友、同じ求道者、同労者である。
同じ主を主と呼ぶ兄弟、同じ交わりにあずかる者として、苦しみも悲しみも喜びも共にする者である。
教会で昔の教え子が恩師を何々兄弟と呼んでいるのを見て、不思議と思い、興味深くも思っている。
(一九八八年一〇月二日)

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砕けた魂と共に

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
(詩篇三四・一八)

まことの慰めは主と共にある。主の言葉の内にある。
サタンは逆に私達の気落ちするような事を神様にも申し上げるし、私達の心にも語りかける。ヨブの試練はそこから始まった。
私たちが試練に会う時、主に平安を祈り、試練を切り抜けられるようにひたすら祈る。
しかし、なかなか平安に至ることはない。サタンの働きでありまた信仰のせいであるが、私共のおかした数々の罪や足りなさが思い出されて深く首をたれるのである。
こんな者が赦されるなんて、何と虫のよい事だと考える。
そう思う方がまともなクリスチャンの考える事だと思ってしまい、どうどうめぐりして、深い不信の穴に下っていってしまう。
その時、電撃のごとき御言葉が私の胸をよぎる。あの何千回も読んだはずの聖句が・・・。
不信仰のドン底で光を放って見える。
「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」・・・と。
こんな罪深き者だから様々な起こり来る苦しみに値するのではないかと、いい加減な処で妥協しようとするその時に、福音がひらめく。ローマ五章二〇節である。
もし罪を犯さぬ人が祝されるだけだったら福音でもなんでもない。恵みでもない。
主は心の打ち砕かれた者と共におられる。この真理が私達を決定的に励ます。本当にありがたい。
ある伝道師が言った。「どうせ主はこのように赦されるのだ、と言わないうちは赦される。」アーメンである。恵みが増し加わるために罪の中にとどまるべきではない。(ローマ六・一〜二)
(一九九三年一〇月三日)

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本当の牧者

あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(第一ペテロ二・二五)

大きなキャンプなどで気づくことがある。何と信徒がその牧師に似ることか。これは信徒の姿勢はもちろんのこと祈りの言葉や面白さのとらえ方、交わりの仕方までである。反発しながら成長しているのであろうが、特にその教会の神学生が師事する牧師先生に似ていること、ほほえましいかぎりである。これは信徒が牧者をひたすら見つめているからである。牧師たるもの、このことに怖さを感じ、心をひきしめねばなるまい。
信徒の模範となれとパウロは弟子のテモテに勧めているが、牧者がまず心掛けねばならぬことは信徒が自分を見つめてつまずかず、健全に成長することである。が、これがなかなか難しい。パウロでもそうであったというが、人のつまずきになることは牧者にいくらもある。彼らがつまずきを与えないですむのは、欠陥がないからではなく、信徒の一人一人が福音の恵みをもって彼らの牧者を見ていてくれるからに他ならない。信徒は弱さを持つ牧者の向こう側に、その牧者をも牧したもう大牧者を見る訓練をする必要がある。これが信徒の霊的自立である。
昔の話だが、救われたばかりのS姉は主の道をひたすら歩み始めたが、最初は仕方がないもののあらゆる点で牧師の指導を求めた。ついに我慢し切れなくなって、自分で祈って考えるようにときびしく指導した。S姉は悲しんだ。後に、成長した彼女は、「あれが自分に目を開かせてくれた・・・」と語った。牧師につき放されて、たましいの大牧者にお会いしたのである。アメリカで苦労しながらご主人の勉学を支えた。この牧師は信徒に、本当の牧会の「されかた」を教えたのだと思う。
(一九八七年一〇月四日)

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人、責められる時

知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。(箴言九・八b)

コリント人への第二の手紙などを見ますと、我らのパウロ先生も激動の生涯を送ったかに見えます。(一一・二三〜三〇)決して彼はその苦難を誇ったわけではなく、こんな大変な事々も、あえて耐え忍ぶ価値あるものを私は頂いているのだ、と言っているわけですが、それにしても連日連夜、内に外に彼は心労が絶えなかったようであります。彼はこの事を通して、弱さの実感の中で真に神の力を体験できる喜びを味わったのです。「艱難汝を玉にす」と昔の人は言いましたが、この人の場合まさにその通りで、逆境の中でキリストの恵みに進んだわけで、まさに冒頭の聖句のごとくです。
しかし、これは真に神を畏れる本当の知恵に恵まれた人、つまり救われて新しく生まれ変わった人の場合であります。救われていない人はもちろんのこと、救われていても、聖書に導かれていない肉的な人は、苦しみや逆境の中にあって神を崇めるにいたらないのです。
「あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。」(箴言九・八a)とあるが、責められる時、まるで神の御前にあるかのごとく自分を反省せず、表面だけのこ
とを考えて責任をとらず、すぐ他人のせいにし、自分が追いつめられると追いつめた人を憎んだりする。こういう人は知恵のない人です。知恵がないとは神を知らぬことで、神を知らないから自分の真の姿が分からず、悔い改めてへりくだり、その後神に引き上げられるキリストの福音の恵みも分からない。
こういう人は責められる時、自爆するのみか順境の中にあってはなお一層自分を見失い、そっくりかえって転倒する。何はともあれ、人間は責められる時、その真価を発揮するものらしい。主の救いとはすばらしいものだ。
(一九八五年一〇月六日)

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人生の知恵

神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言三・四〜六)

水が地面の上を自由気ままに流れる時は、くねくね曲がる。人もまた勝手な生き方をするとその行く先は定まらない。
神に尋ねつつ歩む道は、示されるまま行くのでどこへ導かれるか分らない不安が、不信仰な者にはあるであろうが、不思議とあとを振り返ればその道はまっすぐである。
神は永遠から永遠までを見通して導いて居られるからだ。自分の悟りに頼らず、心を尽くして主により頼むことは、それ故最も賢いことなのである。
主により頼むことは、浮き世離れしたことと思ってはならない。「神と人との前に好意と聡明を得よ。」神に喜ばれる歩み方というものは、心ある人にも喜ばれるものである。
それは人は神にさからって生きるものだから、神に従うか人に従うかという場面はいくつかある。しかし、そう思うことでこの世で生きることに深い配慮が要ることをなおざりにすべきではない。
この世に降りられ、両親に仕え給うた主イエスは「ますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」(ルカ二・五二)とある。人の前に好意と聡明を得ることをそんなに早く諦めてはならない。
証し人として賢く生きることは主を信ずる者のターゲットの中にあることなのだ。主はそれを恵んで下さる。
自分の悟りに頼らず、行く先々において主を認めるならば主は私たちの道をまっすぐにされる。主を畏れるは知識の初めだ。
(一九九一年一〇月六日)


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断言と明言

きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり・・・。
(申命記二六・一七〜一八)

今、イスラエルの民は四〇年間の荒野の放浪の旅を終えようとしている。その辛い日々は、彼ら自身が不信仰の故に招来したものであった。しかし、今はその苦しい旅が彼らに自分たちの主は、こんなに大勢の主の民をも守り、導き、養うことのできるお方であることを分からせ、約束の地を目前にして、彼らは新しい期待の中で、主の命令に応えてまごころから、おきてと定めとを守り行なおうとしているのである。この決意は、しばしばもろくも崩れ去るのであるが。
私たちは、希望が見える時は主にさえも断言する。主は、自ら天と地をさして誓っても、己れの力ではその誓いを守ることすらできぬ者の断言をも、正しい決意として受けとめて下さり、すばらしい約束を与えて下さるのだ。「あなたは主の宝の民である」と。
それは、私たちには断言したことを守る力は決してないが、主御自身を信頼する信仰が私たちのうちにあるのなら、必ずその断言がなる、と御自身の確かさと約束にかけておられるからである。(第一ヨハネ五・五)
私たちはこの世の小さな希望に不遜になる。だが主は、神の力を信頼して、神の業のために、大胆になることを求めておられる。なぜならば主の御前に歩む者はこのように固い決意をもって立たなければならないからである。そうでなければ、カナンでの戦いには勝利できなかったのだ。モーセはそのことをよく知り、イスラエルの決意を確認したのである。
(一九七九年一〇月七日)

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主のへりくだり

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ一一・二九)

ルターであったか「悪魔は大変な奴だ。最も聖なる場所にのこのことやってくる・・・」と言った。聖なる祈りの場に、そしてへりくだりを学ぶ場に傲慢を持ち込むのだ。主のご性質の中でもっとも素晴らしいことの一つ、へりくだりを何としても私たちは学びたい。
へりくだりとは奴隷の心で自分には誇り得るものは何もないと確信することだと言う。
キリストは愛と十字架の生涯を通してご自分を捧げつくされ、神であるのに奴隷の姿をとられた。だから・・・わたしのくびきを負い、わたし(キリスト)から学べ。いや学べるのだとおっしゃる。ここには神が聖なればあなたがたも聖でありなさい、という高い基準とそれを学べなかった時には十字架にかかられるところまでへりくだられたキリストの身代わりがあるよ、という主の捧げつくされたへりくだりを見ることができる。
だからこそ聖なる神の前に無力な自分の存在を見つめることができる。たましいの安らぎがあるのだ。私たちに安らぎを与え給うた主のみ業の根底にあるのは、こうした主のへりくだりである。私たちはこのようにして、他人を安らかにする主のへりくだりを持ち合わせてはいない。
しかし、主を見上げてこの主のへりくだりに近づきたい。こんな句が偶然目にとまる。「自らを高くは置かず秋暑し翔」とある。残暑きびしき中に、それでも真夏とは一寸違う秋の気配を感じとっている句で、なかなかいい。苦闘してがんばっている私たちの姿の中にさわやかなキリストのへりくだりを見る。そんな人になりたい。
(一九九〇年一〇月七日)

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問題が多いとき

牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。
(箴言一四・四)

私にとってこの聖句は慰めだ。人生は決してなめらかな平地をゆっくり楽しみながら歩くようなものではないとようやくわかりかけてきた。山もあれば谷もある。そして人生の楽しみとは、苦労して登り切った山のてっぺんで素晴らしい眺望が開けたところにでくわす時なのだ。考えてみれば、その向こうにまた越えなければならない新しい山があるというわけだ。しかし、戦いのない所に勝利はない。霊的に疲れていると、その辛さが先に見えるが、主にあるときは、この聖句のように考えることができるのだ。
確かに飼葉おけをきれいにしておくのは難しい。私の書斎にはやり残した仕事が山のように積んである。そして新しい仕事があとからあとから追いかけてくる。時々ぼう然と立ちつくすことがある。物心ついてから四〇何年、私のひそかな願いは、きれいに整頓された部屋でゆっくりと読みたい本を心ゆくまで読むということなので、これは全く本意ではないわけだ。これは私にとって飼葉おけみたいなものだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。整理能力のないことをたなに上げて言うのは変だけれど、これは生きて戦って走っている証拠だと思うのだ。
教会が本当に主のための仕事をやりはじめたら実に問題が多くなるだろう。その意味で「今日も無事で感謝します」という祈りは言ってはいけないことかもしれない。いろいろな問題に積極的に取り組んでいくことこそ教会の戦いであろう。オートメーション化され慣れ切った事務処理は、教会の戦いを助けることになってもその戦いの肩がわりはできない。求道者の名前はコンピューターで出ては来ても、訪問や伝道は機械にはできない。
(一九八三年一〇月九日)

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私たちの霊的現実

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラテヤ五・一六)

敵をよく知ること。これが戦いに勝つ秘訣です。私たちはこの世にあっては悪と戦っているものです。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」とあるように、この戦いの敵はなかなかしぶといものでもあります。なおさら私たちはどんな種類の戦さをするのか熟知しなければなりません。
パウロは自らそういう戦いをした人ですから(ローマ七・二四)よく分かっています。
彼は冒頭の聖句で言っていますように、クリスチャンがただちに罪と悪の力から自由だとは決して言っておりません。御霊によって歩まなければただちに肉の欲望を満足させようとする存在であると教えているのです。
ガラテヤの人はパウロから愚かだと言われました。(ガラテヤ三・一)しかし、信仰を持って福音を聞き救われて御霊を受けた人、そうです。クリスチャンであったのです。
(ガラテヤ三・二、一・二)
ここで分かることは、クリスチャンも霊によって生きなければ残存する罪の性質が自由に私たちを占拠して肉の行ないに走るものだというのです。肉が完全に贖われるのは、天において主にまみえる時、完全な聖化の日だけであります。
しかし、この肉なるものもいざ霊に導かれると違います。救いの福音を聞き、それを信じて救われたとき、約束の聖霊が証印を押されます。その聖霊は私たちが御国を受けつぐことの保証であります。(エペソ一・一三、一四)この聖霊なるお方が真に自由を得ると、私たちの人格は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制などという素晴らしい実を結びます。真の贖いと神の栄光が実現するのです。
(一九八八年一〇月九日)

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悪魔の手口

蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記三・一bc)

創世記第三章は人間堕落の章です。そこには、人が罪に堕ちる時のパターン、罪の結果、神の救いのご計画が十分に書かれています。
この際、蛇は悪魔をあらわしていると言えます。彼が女性を狙い、しかも神の律法を直撃したことは実に有効だったと思います。園の中央にある木の実について神のみ旨は実にはっきりしていた(二・一七)にもかかわらず、「本当か?」と正面きって大胆に切りこまれると、エバはぐらついて一歩譲ります。それに追い討ちをかけるように、悪魔は神の意志を完全に否定するのです。(三・四、五)
人間は神の意志によって生きるか、悪魔の意向にそって生きるか、二つに一つです。その中間はありません。妥協はすでに悪魔の軍門に降ったことを意味しているのです。それ故に、人は聖書の主旨にそって生きるのでなければその人の魂は悪魔のものとなっているのです。彼はしばしば本体をあらわさず、ものごとの良い面だけを強調して見せて、結局人間を神の意志にそわない生き方にさせます。もうそれで十分です。
三章を読んでみて下さい。彼ら(アダムたち)は罪を知ることをもって善悪の知識を得ることになり、神との交わりを絶たれ、罰を受ける身となって、しかも、それぞれが罪をなすりつけ合い、果ては「あなたが私のそばに置かれたこの女・・・」と言って、神ご自身を非難するまでにいたるのです。神のみ言葉を無視する時の結果は実に悲惨であります。
しかし、神はいつもあわれみに富むお方で、審判のまっただ中に「救いのご計画」を示されたのでした。(一五)原福音と言われるものです。
(一九八〇年一〇月一二日)

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