主の小道
9月11日〜9月20日



クリスチャンの自由

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷なりました。 (第一コリント九・一九)

キリストの福音を信じ救われて、最も感じる事は解放感、自由ということではないか。
キリストの福音は私たちを律法の縄目から解き放つ。
神の存在を知らされた私たちは眠れる獣が突如起き上がったように律法にさいなまれ、苦しめられる。神の聖さ、その義の尊さを思いっきり知らされるのである。
ああ滅びるばかりだとの思いの前にキリストの十字架を示されて、「真理は汝らに自由を得さすべし」の御言葉のように平安と喜びとを感じる。
「誰もキリストを求めて救われない者はいないのだ。キリストへは逃れていくばかりである」とのロイド・ジョーンズの言葉は名言である。神の言葉の厳しさにいたたまれず、私たちはキリストの福音に逃げ込み、救われたのである。
この自由があまりに素晴らしいので、ある人はその解放感と放縦とをとり違える。そして品性を落とし、キリストにある生活から脱落していく。
パウロが、自分は自由だが全ての人々のために奴隷となったと言っている言葉に注目しよう。
何に対して自由なのであろうか。彼は愛によって動かされているのであって、律法にがんじがらめにされて歩いているのではない。しかし、彼の手は二本揃えて前に差し出され、より多くの人々の代償として自分を拘束して下さいと言っているのである。
人々は律法により縛り上げられている時、実はサタンにも縛られているのである。悪いことをするにも良いことをするにも自由がない。
パウロは喜んで他人のため不自由になれる「自由」を福音によって頂いたのである。
(一九九二年九月一三日)

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祈りと言葉

彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 (マタイ六・七)

異邦人はどうして無意味な言葉のむだな繰り返しをして祈るのだろう。信者もまたこの異邦人のように言葉や口先だけで祈るようになるのであろうか。くどくど祈るのは実在の神を意識しない者の特徴であろう。バアルの預言者たちは半日も「バアルよ。私たちに答えてください。」と叫んでいるし(第一列王記一八・二六)、またエペソの群衆は「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ。」と二時間も叫び続けた(使徒一九・三四)という。無意味な繰り返しは異邦人宗教の特徴である。
同じ言葉で繰り返すことには何か意味があろうか。異邦人的に言えば大ありだと思う。
念仏を唱える仏教徒を見るがよい。拍子木をたたいて祈る天理教徒・・・同じことを単純に繰り返していると他のことを忘れて一心になれる。これが神への熱心さと間違われる。
真の神は恍惚状態にいる魂と会話を求めておられるのではありません。正気に帰った人間と語り合いたいのです。ひたすら神に祈り、しかも思いのたけを言葉に言い表わし得ないで聖霊の執りなしを必要とするローマ書八章二六節のあのパウロの経験は別です。自らを催眠にかけて恍惚状態におちいり、偽りの祈りをする宗教家は正しい人格を持って神と向き合わないのです。神はこれをお嫌いになります。神は私たちの魂の真実の声を発する口と神の声を正気で聞き取る耳をお求めになっておられます。「だから、こう祈りなさい。」(九)は実に理性的ではありませんか。また簡潔ではありませんか。心から確信して祈る祈りは短くても十分に神に届きます。いや私たちは異邦人のまねをする必要はないのです。神はお願いするより先に、必要なものをご存知だからです。(八)
(一九八五年九月一五日)

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人が神を信じる一瞬

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(第一コリント一・一八)

自分にも神を信じ受け入れた一瞬がありました。それ以来、四七年間クリスチャンです。そればかりか伝道者、牧師であり続けています。
どうしてあの日に牧師の招きに応じて、恥ずかしさをこらえ、誰かの二番目にではあり
ますが前に出て行ったのでしょうか。
他人と話すことも恥ずかしく、小さな教会の外ばかり窓から見ていたような自分が・・・。十字架の言葉は愚かである・・・。たしかにパウロ先生の言う通り、大抵の宗教が持つあの密儀的な魅力はなく、見栄えのよいところはない。知恵が納得させてくれるわけではない。教会の中心であり基礎であられるお方は、みにくくも十字架の上で亡くなられたのです。
しかし、あの時、あまり考え深げでもない私の頭で価値の転換が起こったのです。
自分の罪を示された時、「これしかない・・・」と気がついてキリストの福音に手をのばしました。そしてそれから約半世紀の間、「これしか頼るものがない・・・」から、「このために生きる」に変わり、歩んで来たのです。
まさに、「(しかし)救いを受ける私たちには、神の力です。」という言葉は正直で正しい。神の愚かさは人よりも賢い(二五)のです。
一人の女子大生が、クリスチャンになって、その友達を自分のように信者にしたいと思って私の所に連れて来ました。私だって人間で、万能ではありません。彼女をクリスチャンにしてくれと言われても・・・・。しかし隣の部屋で祈り続けて待っているので仕方なく(?)個人伝道を続けました。その人はその夜救われ、変わり、今は牧師夫人です。そんな時もあるものです。
(一九九一年九月一五日)

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妻たちよ。夫たちよ。

それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。 (エペソ五・三三)

クリスチャンではない方だが、最近夫を亡くされて本当に苦しみのドン底を歩かれた経験のある方が言った言葉で、「結婚式の時によく読まれるこの聖書の言葉を思い起こした。
今度一緒になるようなことがあったら、たとえ一年でも二年でも心から愛し合おう・・・」と。悲痛な心の願いだと思った。
結婚に失敗したら一生の不作であると言われる。結婚して家庭ができ、次の世代を作りあげていく・・・。その全ての基礎が結婚した二人の関係にある。だから人生において建設的な問題にぶつかれば、必ず自分たちのことに思いは及ぶのではないでしょうか。
結婚した二人は双方の親を離れて一心同体となる。キリスト者の結婚は一+一=一だと
よく言われるのはこのこと。しかし何もかも異なる二人の過去はそれを許さず、二心二体となりがち。そうするとせっかく離れたそれぞれの親たちと妙に癒着して、新婚家庭にもヒビが入り、親もまた子離れが出来ずにいつまでたっても次の世代に移行しないことになる。妻たちや夫たちの課題は何か。古い妻たちも新しい妻たちも、又夫たちも同じである。
妻は主にあって夫に従順、夫はキリストが教会を愛するごとくに妻を愛すること。夫が妻を愛し、妻が夫を敬う・・・この課題に新しく直面していくことこそ大切なのではないか。
現実には敬うに値しない(と思われる)夫、又妻に対して新鮮な愛も冷えることもあろう。しかし、キリストにある私たちの生活は日々これ創造である。きっと出来よう。でなければこの世はすぐさま地獄となる。主はそれを意図しておられない。
(一九九〇年九月一六日)

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賛美の言葉を読もう

当教会の賛美は元気でまことに喜びに溢れている。時々早く歌い過ぎるのであわただしいが、心が入ってなくてはだらけるからこれもよいと思う。ただ賛美はその時々の作者の意図があるから注意しなければならない。特に歌詞に注意しよう。
曲が美しい、又楽しんで歌詞の意味をよく考えずに歌うことがある。米国の教会などでは沢山歌うので長すぎる歌詞は飛ばして歌うことが多い。受難の二節と三節と言えよう。
作者の意図や賛美の性質から考えるととんでもないことであろう。独唱などで声はよく出ているのにそのため言葉をうまく発音出来ないことがある。私など言葉にまず注目しているので、これは全く幻滅である。よい歌い手さんは歌詞をよく語っていると思う。曲はそれについてくる。私たちも歌詞を考えながら礼拝の心をもって歌おうではないか。
夕拝に新しく入ってきた聖歌六四六番は一寸聴いた所、曲は落ち着きがなく歌詞の意味も見えてこない。がひとたび歌詞をよく読み(英語の原詩で読めればなおよい)それをのせるように曲を歌うとガゼン変わってくる。珍しい歌である。
作曲者のファニー・クロスビーは盲目の詩人であり、何千かの賛美を作った人であるという。この世の歩みを終えて天に行くと笑って主は迎えてくださる。いまだかつて実際にお会いしたことのないその主を私は見間違えることはない。なぜなら主のその御手には十字架の傷があるからである。この「おりかえし」の部分が圧巻である。
その十字架の主にまみえる時いかばかりの恵みにあふれることであろうか。天に行ったら親しい者たちが沢山待っている。アブラハム、ヤコブにペテロ、そしてパウロ。いや自分を導いてくれたあの人、クリスチャンの父や母。しかし何よりも最初に主に会おうというのだ。(一九八九年九月一七日)

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新しいということ

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント五・一七)
「病は気から・・・」と言います。全くその通りです。
自分のかかっている病院の先生は北村先生といいますが、具合が悪いと言いますと様子を聞いてから大抵の場合スパッと否定してくれるのです。勿論データに照らして言って下さるのですが、普通話を聞いてから悪い方面を中心に話す先生も居られますからこれは大変助かります。
ウキウキして一度で治ってしまったように感ずることすらあります。病気には「気から」という部分があるものです。
この聖句には、キリストにある者の新しさが書かれております。キリストを信じた者の眼で何かを見るとどのように見えるのか。
「古いものは過ぎ去って」とあります。キリストにあってものを見るということは見方が違うのであって、古いものは過ぎ去ってしまうのです。なくなるのです。新しいものが私たちの心を占領して新しい眼でものを見、判断して喜ぶのです。
だから「見よ」という言葉が出ます。人にその結果を伝えたくなるようなことです。パウロの福音にはこの新しさがあったのです。
そうです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」
似た者から似た者が生じたのではありません。キリストによってものを判断するようになった人は、全く新しく造られた者なのです。「すべてが新しくなった」のであります。
新しくされた心の人は、魂の自由を得ます。私たちを打ちのめす悪魔のマインド・コントロールから解き放たれて、平安と確信の中を歩むことができるのです。
(一九九五年九月一七日)

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異邦人の祈り

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。(詩篇三七・七)

神を知らぬ異邦人の祈りはうるさい。隠れた主と心がつながっていないので、神様がどのようにお考えになり、どのように事を処理なさるかが分からない。
ところが神の人の祈りは違う。「主の前に静まり、耐え忍んで主を待つ」のである。
主の前に行ったらまず静まるのである。静まって何をするか。まず聞くのである。祈る時、勝手に自分の希望ばかりを述べるのではない。
本当の祈りに必要なことは、悔い改め、感謝、賛美そして願いである。祈りをする自分が神の前にあってどういうものかをはっきり知る、いや知らされるのである。まず聞かねばならない。
次は感謝である。不満や、また物の欠乏を訴えて騒ぐのではない。本当に自分が今置かれた立場を下さった神に感謝できること。こんなに素晴らしいことはない。自然と賛美が湧きおこる。
祈るべきことがはっきり分かるのはそれからである。その時まで主の前に静まるのだ。
耐え忍んで主を待つというのはいい加減なことでは出来ないのである。
ただ主がいかに祈ればよいかを示して下さるまで、ボケーッと待っているのではない。
耐え忍んで主を待てと言われている。
耐え忍ぶということは生易しいことではない。神が私どもの心の内を点検し、主の前に横たわり、私たちの祈りが主に聞かれることを妨げているものを一つ一つ取り除いて頂くのを待つのである。
祈りの準備がそこまで出来ると、あとはあわてず騒がず「待つ」ばかりである。キリスト者にとって祈りは自己吟味だ。
(一九九四年九月一八日)

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あなたとその家族

ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。(使徒一六・三一)

何と簡単な言葉で書いてあるか。奇跡にびっくりした牢屋番は思わずこう叫んだ。救われるためには何をなすべきか・・・と。これはまた何と大きな質問か。それに比べると答えはシンプルなのである。
救われるために必要なこと。この大それた質問に対する答えが「主イエス・キリストを信ずること」である。
キリストに全てが集結されている。キリストを見つめると救いが分かる。ヨハネは言う。キリストにより愛を知る。私共もその友のために死のうではないかと。(第一ヨハネ三・一六)
救いの道は単純で、その及ぶ範囲は大だ。「そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる」とある。
家族とは、共に住む者、愛する者、身近な者である。
キリストに救われるということは共に住む者と共有する恵みである。家族で良きものを分かち持つほど幸福な事はない。
共に住む者と恵みを共有すること。これはヨブの家族の幸福に通ずるものである。
また、キリストの救いは愛する者を必ず巻き込む。バプテストの女性で初めての受浸者は内田はまさんと言う。この方の血縁者でクリスチャンになった者は四十数名。牧師あるいは牧師の妻となった者は実に四名。明治のその頃としては珍しい例だが、これが本当の姿。聖書は隣人への愛を教える。家族は最も近い隣人だ。
家族は身近な者である。身近な者は全てを知っているので伝道は難しい。
真のクリスチャンは、この最も身近な批判者を前にして励み、そして家族を救いに導きつつ、成長を遂げるのだ。
(一九九三年九月一九日)

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宣教しない理由

十一人の弟子たちは・・・イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。・・・イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた・・。
(マタイ二八・一六〜一八)

宣教の大命令はこのあと続くのだが、右記のそれまでの弟子たちの行動の順序を見てみると興味深い。まず裏切り者を除いた十一人は指示通り山に登り、イエスに会い、礼拝をするのだ。
復活された主との関係においてまず大切なことは礼拝の確立であろう。弟子たちの中にも疑う者がいたとあり、礼拝とは容易ならざるものだという気がする。本当の礼拝には試みがあるのだ。
しかし、多くの場合、礼拝を守ることが出来ればそれでよしとする風潮がある。たしかにクリスチャンにとって聖日ごとの礼拝を聖別すること自体戦いであるし、大変なことでもある。これは恵みであり、第一の目標でもある。しかし、それで終わりではない。
主は礼拝において信徒と対面されるとおごそかにおっしゃるのだ。「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と。礼拝において主は宣教の大命令を発し給う。
礼拝の意義は自己犠牲であり、それを通して主に仕え、主の悦び給う道に進む決意をすることである。主は何を求め給うかといえば「宣教」なのである。礼拝の時に宣教が命じられ、真の主の民が宣教に励むのはいとも当然のことと言わねばならない。だとすれば「宣教しない理由」は礼拝もしていないということになるのではないか。
礼拝において私たちは、イエスの言葉を権威をもって聞く。天においても、地においても、一切の権威が与えられている方が、「宣教」を命じられる。今このことの意味を十分かみしめていきたい。
(一九八七年九月二〇日)

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富んでいる人たちよ

この世で富んでいる人たちに命じなさい。 (第一テモテ六・一七)

第一テモテの最後にパウロ大先生は弟子テモテに向かって、この世で富んでいる人々に命じる言葉を与えています。この世の富がその人物の身分の上下を決定するものではないことは百も承知の上で、若い伝道者がそうした人々に対する牧会の手がゆるみやすい事を知って注意を与えているのです。
さすが、貧しさにも富むことにも慣れていると自ら自負するパウロらしいところです。
これらの言葉(六・一七〜一九)は私共貧乏人(とは言わずとも普通並みの者)には必要ない注意と言う方もあろうかと思われますが、さにあらず。現在の我が国においては真の貧乏人と金持ちの区別がついていないので注意した方がいいと思う。自分の不足を憶える人は祈りが真剣に出来るし、神さまに喜ばれる生き方が出来ると思う。金を持てば高ぶり、頼りにならないものに望みをおき、神を貴ぶ心がうすらぐので罪を犯します。いくばくの利子さえ払えばカードで金が手に入るし、生活用具もローンでその週から使える。自動車のような高級なものでも欲しがるより先に売り込んでくる時代なのです。本当は大変貧乏なのに外面は誰もが中流意識の中に生きています。何でも手に入るので自分は金持ちだと思ってしまう。真剣に神に頼る必要を憶えないばかりか、それらのものを自由に使わして下さる神に感謝することさえ忘れるのです。
教会もローンで土地を買い、建物を建てる時代だから、こういう社会のそれなりの意義を認めていると言えないわけではないのですが、真の姿は貧乏で、外面金持ちの問題点を数え上げると、クリスチャンは借金しないという意見も分かります。
(一九九二年九月二〇日)

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