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だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6:33)
私が今よりももっと信仰が弱かった時、その信仰を育ててくれた聖句である。信仰は大胆なものほど立派にみえて、無理をする人が多い。しかし、神さまは「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」とおっしゃって、信仰もまた育つものだということを教えておられるようだ。
イスラエルに行った時、ガイドさんから教えられた「からし種」はまるで黒っぽい粉のようであった。それが一メートルほどの木についている。目で見るまではわからないその小ささに感動したものだ。
私の恩師は、この聖句を示して小さな実践を通し神に頼ることを教えてくれた。神さまに頼れば、日常茶飯事のことは解決するのですよ、と言って。私たちはそんなに大きなことではなく、何を食べるか飲むかという一回か二回抜いてもどうでもなることのためにえらく心配をする。
天の父はそんなものは私たちに必要だということを百も承知・・・。神の御旨にかなう生き方をしようと心に決めていると、それら一つ一つが次々と与えられてくる。神に頼ることをしないで生活すれば、あまりに小さいことに見える一食の米、一杯の水なので有り難くも何ともないのに、マタイ六章三三節に生きるとなんだか楽しくなってくるのだ。
このようにもっともっと大切な事についても主に頼る喜びを憶えてくる。私の恩師はそのようにして沢山ある聖句の中から一つ一つを選んで私の生活と結びつけ、導き、心の中に植えつけて下さったものである。
年をとってからは、大きな課題を自らに課して、「自分の信仰を試すんだ」と言って笑っておられた。すごいと思う。
(一九九一年九月一日)
あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
(ローマ14:1)
キリストを信ずる信仰の強さには面白いところがあります。信仰が強いというと何か頑固さ、融通のきかなさのことのように感じますが、ここで聖書の言う弱さこそがそれにあたるわけです。「何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。」(一四・二)とあります。
聖書の教えに従ってキチンとやっていきたい人もいます。それはそれで十分意味のあるところですが、それが律法的、機械的になることもあります。信仰が血の通わないものになると私たちは形だけにとらわれ、自己満足におちいるのです。
パウロが言うところによれば、神の律法はモーセが十戒を受けとった時のように「石の板」に刻まれるものではなく、心の肉碑に書かれるものです。主イエスの言われるところによれば、それは「第一の戒めは神を愛すること」だということになります。
人が神を愛する心を持てば、その動機から出る一切の行動は律法を守ることに集中し、しかもそこには生きて働く信仰の自由さと喜びとが満ちています。強制されてではなく、喜んでやることが律法にかなっていると言えば、こんな素晴らしいことはないのではないでしょうか。内側からあふれ出る行動であり、真の信仰者はこれだというのです。
これから見るとビクビクしながら律法と主の道に歩む者が馬鹿に見えるだろうし、またその人たちから言わせれば、大らかな人たちが危なっかしく思われるかも知れません。
昔からアウグスチヌスとペラギウスがいたように、今もこれら両方の傾向を持つ人がいます。人間の性質にもよるもの、お互いにその賜物を尊重し合う必要があります。
(一九八四年九月二日)
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。 (エペソ5:19)
賛美は直き者の口にふさわしい・・・。キリストによって直き者とされた私たちが心から賛美することは、大いに勧められなければならない。特に礼拝の時、賛美が大いに用いられるならば、こんなに主が喜ばれることはないであろう。
賛美する人々は賛美を通して互いに語ることが出来る。万国語である賛美により、国籍を超えて交われることは承知の通り。言葉など翻訳抜きでロック・バンドのあの騒がしさの中で共鳴している若者たちを見ればよく分かる。
私たちは、しかし、酒や雷のようなサウンドに酔うのではない。御霊に満たされるのである。
聖句にあるパウロの言葉は讃美歌を三つに分けている。詩と賛美と霊の歌。詩は旧約の詩篇のことであろう。一五〇篇ある詩篇は旧約の人々にとって礼拝の中心である。そこには力ある神が真ん中にいまし、遠くにキリストを望む信仰者たちの信仰生活のあらゆる局面が感じられ、神がたたえられている。これが音楽と共にあったことは意義深い。
二番目の賛美は新約的な意味での賛美でキリストの救いがたたえられるものであろう。
新約教会が明らかにダビデと違うところはキリストの救いである。
第三の霊の歌とは何だろうか。おそらくは霊に導かれた信者が「いつでも、全てのことについて、主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝できる」(二〇)ということの全てであろう。生活の全範囲に賛美は及ぶ。
(一九九〇年九月二日)
自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。(ダニエル11:32)
ここには「知る」ということの重要性が書かれている。単なる知識の集積にしか過ぎない知識というものもあって、学んでも何の役にも立たないこともある。役に立たないことは知るに値しないと言えば、哲学は知恵を愛することだとした昔の哲学者に怒られよう。
しかし、彼らもまたただ知識を積み重ねたのではなく、真理の探究そのものに目的を持っていたのだとすれば納得がいくであろう。
知るとは元来男女が肉体的に一体となること、男が女を知るなどという意味で使われる言葉だ。だからまず知るとはその対象を愛することだと言える。犠牲的な愛、無条件の愛、目的を持った愛でもって愛し、受け入れ、知るならばその知識は行動を生み出す。そしてその行動は、愛し合った者同士が子を生み、家庭を築き、共に熟しつつ老いていくように結実するものである。知識は本当のものであれば無意味なものではない。
福音について、「あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている・・・」ものとパウロは説明(第一コリント一五・一)しているが、知識は確固とした確信を生むのである。正しい知識が群衆の中にパニックが起こるのを防ぐのはよく知られているが、多くの人が右往左往する中で一人確信を持てるのは真理を知るからである。
最後に、事を行なうということである。真理を行なう者となるよう主は勧めておられるが、真の知恵は行動力の源泉である。真理は汝らに自由を与えるとあるように、固定した観念や制限された枠を取り払って私共に事を行なわせるのは正しい知識である。
しかし、ここで注意したい。何を知るか。それは「自分の神」である。神こそ知るに値する。
(一九八九年九月三日)
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。 (詩篇16:8-9)
ダビデは素晴らしい心の秘訣をうたった。「主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」(一八・一〜三)。主は確固たる礎である。
主が私の右におられる・・・とは大いなる確信を表わす。右手は強い手、右側に居られるのは私の力となって下さるという意味である。だから、私はゆるぐ気配も見せない。大変な確信といえよう。
それはどこからやって来るか。「私はいつも、私の前に主を置いた。」というところにある。私が正しくない時も主に近づける。イエス・キリストの故にである。信仰と悔い改めをもって常に目の前に主を置ける。キリストご自身を永遠のいけにえと信じ、自らの悔いた、砕けた心をいけにえとして神に近づく者はいつでも自分の前に主を置いているのである。その時、主は必ず自分の右側におられる。主を前に置くかぎり、主は右におられ、私たちはゆるがない。
その確信の結果は喜び、楽しみ、平安である。心の喜び、たましいの楽しみ以上に嬉しいものはない。神に赦されず、心の交通を持ち得ない人は憂鬱の中にいる。神を畏れる者は誰をもおそれる必要がない。翼の生えた体のように軽く、天空を駆ける。そんな日々は嬉しい。
そんな時、私共の身もまた災いから救われて平安の中に住まう。全ての祝福は、主を自分の前に置くことより始まる。
(一九八八年九月四日)
いつも祈りのたびごとに・・・願っています。 (ローマ1:10)
この度、森山先生に神学校の入学式に際して、九州で病院のチャプレンとして働き、多くの癌の末期患者に福音を伝える者として看取ってきた経験を通し語っていただいた事は、福音に携わる者にとって新しい経験であった。
私共があまりにも病にある方に無神経に接しているかを痛いほどに感じた。話の途中、先生は私のことも引用されて、長い病院生活を通して同じ患者の経験を持つ者とおっしゃられたようだが、とんでもない。のどもと過ぎれば何とやらで、健康人の側に立ちまた無神経になっていることを痛感させられた次第である。
病気で死に臨んでいる人について話されたのであるが、私には牧会者として接する主にある人々の事が思われてならないのであった。森山先生のあの福音を携えて患者さんの希望となり、キリストの思いをもって寄り添っていく姿勢に深く感銘を憶え、教えられた。
そういえば、自分自身も何度か(少なくとも二回)死に行く自分を予感し、又医師の宣告に世界が変わった思いを禁じ得なかった事がある。五月の青葉が今まで見たこともないさわやかな緑に見え、その上それがよそよそしかったこと、自分の死については何とか心の動揺を押さえられても、泣き悲しむ母や家族の者のことを考えるといてもたってもいられなくなったあの病床のこと。しかし今は少なからず他人事になっていることを気づいてあ然とする。
キリストのハートをもって痛む者と共に痛む思いに欠けている自分に深い悲しみがわいてならない。
飼う者なき羊のような群衆を見てそれを深くあわれまれたキリストの思いを与えてくださいと祈りの度に思うのだ。
(一九九二年九月六日)
求めなさい。そうすれば与えられます。 (マタイ7:7)
求めてみる、捜してみる、たたいてみる・・・そういう人は与えられ、見つけ出し、開かれるのです。人生の可能性を自分から閉ざしている人がいかに多いことでしょうか。やってみればどこかに方法があるのに自分であきらめてしまう。
求めるということは積極的な生活姿勢だと思います。ある人が二つの物事のうちどちらかを選ぶ必要があったときは、難しい方を取れと言いました。これはなかなか良いアドバイスだと言えます。困難な道が良い道とはかぎりません。しかし人間は、良い悪いより先に楽な道を選びがちなので、初めから困難な方を選ぶつもりでいれば、判断力に余裕が出て来て、結局良い方を選ぶ可能性が多くなるからです。求めるという積極的な姿勢に困難に身を投じる前向きの態度が加われば、人は間違いなく動的な人生を送れるでしょう。
まして神は御心にかなう願いは必ず聞いてくださるというのです。単に可能性をすべてあたるというのではなく、全世界を支配し、動かしたもう神の手をわずらわすのです。だから神の言葉としての「求めよ」は最も大きな積極的生活姿勢への勧めでもあります。昔からこの言葉一つで闇に光を投じ、開かない筈の人生のトビラを開いた人は少なくないのです。
神は祈りに応えるに早き方であります。聖書に「しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(マタイ六・三二)とあります。
私たちが必要とするものは求めるより先に必ず与えられるというのです。答えが早いわけです。
では何故祈るのか。求めるのか。それは与えられるのが当り前ではないからです。全てを神に依存し、与えられて感謝する必要があるからであります。
(一九八四年九月九日)
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。(第一コリント1:26)
これは私共を大変慰める言葉です。知者、権力者、この世で身分の高いと言われる者たちが居ないわけではありません。神は、「全ての人」をその御用に召されるからです。
しかし、召された各人が、召された召しの容易ならざる重要性に目覚める時、誰も自分の小ささに気づいてふるえ上がるのです。
モーセも言いました。人を導く者として選ばれた神に、私は口の人ではありません・・・と。しかし、人間に口をつけるのは神なのです。
知者、権力者、身分の高い者は多くはなく・・・。これは実感であります。
しかし二七節を見てみましょう。「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び・・・」です。愚かな者、弱い者を選ばれるのは、知恵ある者、強い者をはずかしめるためなのです。
つまり神は愚かな者、弱い者を召されるが、彼らを知恵ある者とし、強い者より強くして用いられるということではないでしょうか。
それはどのようにしてでしょう。三〇節を見て下さい。
「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」とあります。これは主にあって強かった人、ウェスレーの特別に愛した聖句です。
キリストが私たちの知恵となられました。神を畏れるは知識の初めとも言います。義と聖めと贖い・・・。これ以上の武装はこの世にないのです。
(一九九〇年九月九日)
しかし、あわれみ豊かな神は、・・・この私たちをキリストとともに生かし・・・。
(エペソ2:4-5)
冒頭の「しかし」は偉大な神の愛の存在を示す「しかし」であり、私たちの行くべき運命を逆転させた「しかし」です。聖書には実にこの逆転が満ち溢れています。信仰生活というのはこの「しかし」を実際生活の中で体験するものです。
私たちの生活は、まさに自分の罪過と罪との中で死んだものであります。大なりといえども死んだものは流れに逆らえません。小なりといえども生きていれば上流へと向かうものです。私共は罪の中でサタンの霊に従い、自分の欲の中に生き、自由気ままにやっているように見えながら、自由気ままにしか生きられない不自由さの中で死んだものであります。生まれながら御怒りを受けるべく定められた不動の運命を背負った存在と言えるでしょう。(エペソ二・一〜三)しかし、「しかし」です。キリストと共に私達は生かされ、よみがえらされ、御恵みが明らかに示されたのです。私たちの人生を舞台とし、私たちの体を器として、神の愛は表わされました。神の作品として私たちはとんでもない方向へと向いたのです。それは「自分自身から出たことではなく、神からの賜物である」(八)としか言いようはありません。
一方的な神の愛が私たちの行き先を変えたのです。
信仰を持っているとはいえ、私達の生活はしばしばマンネリにおちいります。恵みにすら慣れてしまいます。一寸不安にもなります。成長が止まり、新鮮さを失います。
しかし神は・・・です。こんな時にも神は私たちを御自身の作品として「良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって(新しく)造られた」(一〇)ことを思い起こすのです。すべての成り行きを逆転し、神の御意志にまかせ生き返るべきです。
(一九八八年九月一一日)
イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4:3)
人はパンだけで生きるものではないと聖書は言う。と同時にパンもなければ生きられない。本当の食べ物、人にとっての性質にあった食物はまことに必要不可欠である。だから御言葉は信者の信仰のための霊的食物と呼ばれる。
いつもこの時期になると思い起こすことがある。私にとっては空気みたいなクリスチャンの友がいた。彼は、シオン幼稚園のイモ掘り遠足の頃、胃ガンで虎ノ門病院というところへ入院していて召されたからだ。この私の信仰の恩人S兄については話すことがいっぱいあるが、ここでは紙面が足りない。見舞いに行った時、彼は質問した。同じ年齢だが病気で遅れて二級下。だが何でも知っていて私は教わる一方だった。その私に向かって必死の思いで聞いたのだった。「牛乳ビン一本位の量で一日生きられるというような食物はないのだろうか」と。彼は病気のため一日その位の量しか体に入らないのだった。今でこそそれに似た食物があるがそれでもその三倍の量が要る。だけど彼は生きるために必死になってそれを求めていたのだった。自分は知らなかったので正直に知らないと答えた。実に残念な一瞬であった。
食物とは私たちを元気づけ、成長させるものを言う。良い食物はおいしくもある。イエスさまの食物は彼を遣わした父のみこころを行ない、その御業を成し遂げることであった。
私の死んだ友のように、この事をひたすら求めなければならない。主のみこころを行ない、御業を成し遂げない者は、霊的には死んだも同然なのである。しばしばその深刻さを失う。
(一九九四年九月一一日)