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ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。( ルカ一九・六)
誰でも知っているザアカイの話。この話で心を打たれるのはザアカイの喜びである。彼は取税人のかしらで金持ちだったが、喜びとは縁のない人物だ。
人にも憎まれたのだろう。
彼はおぼろげな目標ながら永遠の生命を求めていたものと思われる。
ところが彼のもとに突然喜びがやって来た。彼は自分の生涯に希望の星となる筈のイエスを自分の側から見ようとしていたのに、主が彼の家に泊ろうとされたのである。まず神の側より愛されていたのだ。そこにザアカイの喜びの源がある。
喜びは実を実らす。御霊の実は愛、喜び、平安・・・とパウロがガラテヤ書で述べているように、彼の心にある喜びはあの役人も躊躇した。(一八・二三)財産の放棄をあえて可能にしたのであった。彼は堂々と証しして言った。「
主よ、ごらん下さい。・・・ 」と。
財産の半分を貧しい人たちのために施し、だましとった分は四倍にして返す。これは律法で定められた償い以上のものである。(レビ六・五、民数記五・七によれば五分の一をたして返せばよい)喜びから来る実は律法を行なって余りあるものだ。
これが救いである。「きょう、救いがこの家に来ました。」とイエスが宣言されます。
(ルカ一九・九)救いのしるしは喜びであり、喜びの生涯は律法からの自由を生み出すのだ。
律法に縛られて身動きのとれなかった人が、律法の要求を満たして余りある生涯を送れるとは・・・。あのルカ一八章一八節にある役人は真面目に律法に取り組み人生の究極のギモンに体当たりした。しかし、彼は自分でやろうとしたのだ。神に身を任せない。ザアカイの場合は本当に、神の救いは福音であり、自由に提供されたものであったのだ。
(一九八七年八月二三日)
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ九・一六)
神はまどろむことなく働き給う。 私たちが願っても努力しても、その通りにはなかなかならぬものが、神のご計画は変わることなく、次々に事をなし続けて下さるのである。
竹原先生が泊られた時、「先生の作曲した『献身』という歌を憶えてますか。」
と尋ねられた。「どんなメロディーだったかな。」ときくと口ずさんで下さり、聞いたことのある曲で思い出した。「この讃美歌に心打たれて私は献身の決意を固めたようなものですよ。
忘れてはこまります。」という話であった。先生は私が昔作曲したという曲を次々と歌ってはその想い出をきかせて下さって、こちらはただ目をぱちくりするばかり。
そういえば、私は家内の父が盛んに讃美歌の作詞をしていた頃、それらを含めいろんな詩に作曲をし、中には大切な時に歌われたものや、歌いつがれたものもあったようだが、近頃は全く興味がなくその大部分を忘れてしまった。自分の手を離れたものが、主の御手の中にあってその御計画のうちに何か働きをしたということを考えると、実に不思議な思いがする。
先生は自らアメリカの福音聖歌の翻訳を数多く手がけておられる方なので、特に憶えているということもあろう。しかし、主のみ業はこのように、私たちが全く忘れてしまったところでもなされている。主の召しと選びは変わらない。神の誠実さである。
私たちは自分の好き勝手に、興味がおもむくままに一生を送ろうとし、神はそれを赦して下さる。が、それらの全てを高く越えて、ただ神のみ旨のみが固く立つということをしみじみと感じたところである。願わくば神の意志に積極的に一致した生活が送れたらいい。
(一九八〇年八月二四日)
確かに、 キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、 迫害を受けます。
(第二テモテ三・一二)
この聖句の教えているところは、クリスチャンにとって迫害は必ずあるということです。
あっても不思議でないというのです。しかし、このことくらい、本気でとらえられていないこともないかと思います。この世は、サタンが主権を握るところであり、クリスチャンは神に仕える者です。双方は真っ向から対立している存在であり、私たちは神を喜ばせようとして、サタンと衝突しないわけはないのです。キリストとサタンとに兼ね仕えることはできません。だからむしろ、キリストにあって神をあがめて生き抜こうとすれば、世からの迫害は避けられないのです。
ある若者に年老いたクリスチャンが言っておりました。君がこんど行った所は神を神とも思わぬ者ばかりがいる所なので私はずっと祈っていたよ、と。若者はけげんそうに、いや、迫害なんてありませんでしたよ。私がクリスチャンだってことすら誰も知りませんでしたよ。これは一種の笑い話です。
迫害は必ずあるのです。あなたがクリスチャンであるということを明らかにすればの話です。キリストにあって敬虔に生きようとすれば、間違いなく多くの逆らう力とぶつかります。しかし、そうした戦いのある所に、キリスト者の勝利もまたあるのです。基本的には、神にある者はこの世で迫害にあって普通だということをキモに銘じて居るべきだということです。
その上で、静かで平安な生涯(第一テモテ二・二)を求めるのでなければうそです。人生、逃げの姿勢になってしまうからです。迫害を覚悟でいるところに、神はおそれるものを神以外に持たぬ真の平安が支配する敬虔の生涯を恵んでくださるのではないでしょうか。
(一九八六年八月二四日)
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。・・・
(マタイ六・一)
ここに律法による行為の落とし穴を見ることができます。心の中から湧き上がる、主への奉仕と感謝の業でないかぎり神様に喜ばれませんし、善行は誇りにつながったり、自己満足という何の意味もないものになったりしてしまいます。
善行というものは神様がことのほか喜ばれるものです。善き行ないの伴わない信仰は霊魂なき肉体のようなもの・・・と言われます。信仰という心の内容(なかみ)は、良き行ないという外面の実として結実するのです。だが悪魔という存在は巧妙です。最も神聖な場にノコノコと顔を出すと言われています。熱心な奉仕と従順の時、彼は自己満足や他人を審くパリサイ的な心を生じさせます。祈りの座の真中にそうした心を生じさせるため出て来ます。人は善行をするとき、証しのためとか何とか言って他人に見て貰いたくなるし、ただ見て貰うのみでなく、感謝されたり、評価されたりしたくなって人にナゾをかけたりします。考えれば、みじめなこんなことを私たちは日常しているのです。
そうであればこの善行はすべて報いられてしまっています。一体誰のための善行でしょうか。パウロ先生も、たとえ自分を焼かれるために渡しても、愛がなかったら無に等しいと言っております。神を喜ばせたいとか、他人に幸福であって欲しい。その人に感謝されるなどとは二の次だ。これが本当の善行の基本です。どこに、感謝されることを求めて子どもを愛する親がありましょうか。
全ての善行は隠れた所にいます。他人の入りこまない、私と神様との間の約束事であります。(四〜六、一八)人に報いられたい時、神とあなたの個人的関係は終わりになるのです。
(一九八五年八月二五日)
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは、一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(第二コリント四・一八)
目が見えないということは辛い。生れた時から目が悪く、小学生の時代、一時目の病が進行中は痛みとまぶしさで盲人同様の体験を一年程続けたことがある。だからよくわかる。
家の前のドブにはまったりして、私自身もまた見ていた親も辛くて涙を流したものだ。
まぶしくさえなければ、目はそれほどゴロゴロとした痛みはなく、視力もあったので本当にまだ見えるかどうか確かめるため、眼帯をとって夜空を眺めたことがある。かすかに見える星、そして一寸まぶしい月がとてもきれいであった。
こんな辛い時期の後、私には得難い宝が残されていた。もともと音の出る鳴り物は好きだったが、タンスの前に陣取って、その上の「並四」(ナミヨン)のラジオだけを唯一の友とした期間を通して、私は今まで聞こえなかったものが聞こえるようになっていたのであった。
想像の世界の最上に美しい音楽、楽器の種類や音色、ハーモニーやその狂い、いろいろな音が何声かで動いているオーケストラの様なものを聞くとそれが別々にも同時にも聞こえて、図形のようにも「見える」ことなど。何よりも美しい音楽を愛するものになったと思う。
人は何と多くの物に目をとめて大切なモノが分からずじまいになることだろう。それなのに視力を失うと今まで見えなかった世界が急に見え出す経験はすばらしい。その時、私たちは実に多くのものを見過ごしにしている事に気づく。
過ぎゆく一時的なものにとらわれず、見えない部分が見えてくることの富。心の中や神が見えるのもこんなことなのか。
(一九八九年八月二七日)
神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。
(詩篇六五・一)
この静けさとはなんだろう。賛美と静けさとは相容れないように思える。旧約の詩人は神の前に出る時は時にタンバリンを打ちならし、大きい音を立てて騒いだようだ。
だがこの神の御前の静けさは一体何であろうか。
私がはじめて大病をした時、大変私に影響を及ぼした本があった。アルベルト・シュバイツァーの自伝である。
彼はその中で言っている。自分が全てを捨ててアフリカに宣教する決心をした時の様子はこうである。机の上を見ると宣教関係の新聞があった。その中にアフリカの人々の困っている有り様が書いてあった。病気になっても薬もなければ医者もいない。誰か助けてくれる者はいないかと。もちろんその時、シュバイツァーは医者ではない。その時から医大に行って勉強し、医師になる必要がまずあったのだ。しかし、彼はこう決心したのである。
医者になろう。三〇才までは自分のために時を使い、その後はアフリカの人々のために自分の生涯を神に捧げよう。彼はこう決心すると静かに新聞をたたみ、そこにおいて今までやってきた仕事に手をつけたのである。
彼の生涯を変えた決心は実に静かな中で行われたのである。普通だったらこれだけ自分の生涯を左右する決心をする時には先輩や友人知人に相談しまくり、かなり騒がしくなろう。
決心した後もきっとかなり騒がしい。しかし、神の御前には静けさがある。本当に重大な決心は静けさの中で行われる。
あなたは祈る時は自分の奥まった部屋に入りなさい・・・とマタイは言う。主よ主よと騒がしいばかりが能ではない。静かに考え深く主に対することである。
(一九九四年八月二八日)
涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。(詩篇一二六・五〜六)
中村のおばあさんは、一駅分歩いての教会出席。牧師は、そして知っている人はとても励まされている。天気のよい限り傘を杖にしてがんばって来る。八〇才を超えている。気をつけて、無理しないで記録をのばして欲しい。
これは息子さんの中村兄が召天されてからの事。何回続けておられることか。最初は何回目か数えていたが、天気がよければ来られるということがわかって数えるのをやめた。
ヒケツは何か。召された御子息を通し天への思いが増し、喜びがおありだからだろうか。
勿論それもあろう。ある時、もう一つの事に気づいた。
年老いた姉には、若い頃蒔かれた種があったということ。
一世紀近くも前のこと。キリスト教系のライオン石鹸に勤めていて聖書研究会に出席し、ならった讃美歌がある。讃美歌五〇三(聖歌三二二)がそれ。遠い記憶をたどり口ずさむ歌はまさにそれ。英語だったそうだ。
貸して下さった友人の御好意の歌テープを聞いて私はただ単純に恵まれた。私が入信したばかりの頃、これを歌って皆で祈り家庭訪問をし、伝道したものである。
どういう情景でおばあさんがこれを歌ったのか私には知るよしもない。
しかし、この歌の真理は実現してそこにある。姉の心に蒔かれた種が何十年後、芽を出し実をみのらせたと考えていけないのだろうか。
伝道は、時に無理強いもしかねない。しかし、いつか芽を出すことを信じて種を蒔き続ける事も「もしその人が本気なら」それも主の前に尊いのではないか。
(一九九三年八月二九日)
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、・・・。
(第一ペテロ四・一二)
この聖句は、クリスチャンの間には試みのために「燃えさかる火の」試練が起こることが書いてあります。
信仰生活でしばしばおちいりやすいのは、信仰をもてばただちに何事も解決してしまうという思い込みであります。ご利益主義という程のことではないかも知れませんが、少なくともこんな筈ではなかったのにと、少なからず驚きあわてるのです。
私も信仰初期の頃(神学校卒業の間際)大病をわずらって牧会の現場に出ていくのが大幅に遅れた時、信仰が大変動揺し、カリスマ的信仰に惑わされ、ローマ書八章二八節に目が開かれて、ようやく立ち直り、平安を勝ち得たことを思い出します。
先日キャンプでS先生が話されたところに明白ですが、初代教会の如き恵まれた状態にあって信徒は何故か試みられたのであります。彼らは試みられ、主にある解決を与えられ、更に充実して伸びていったとあります。正に試練は彼らにとって必要不可欠のものなのでしょうか。
試練は思いがけない事ではなく当然の事です。「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい」とも次の個所に書いてあります。「それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」
並でない火の如き試練がおそって来ても驚かず、平常心をもって対応することが出来る信仰を持ちましょう。それによって私たちの信仰の証しが出来、強められ、神の御霊が私たちの上にとどまっていただくことができるからです。
(一九九二年八月三〇日)
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ一・六)
全ての良いものはスタートが如何に切られているかで決まります。「初めよければ終わりよし」という言葉もあります。キリストにあって始められたことは、必ず主がそれを完成させて下さるので、私たちは、先が見えなくても信仰によって勇気をもって歩み出すことができるのです。
ピリピ人への手紙は、喜びという言葉が基調になっていて、他の獄中書簡、例えばエペソ書やコロサイ書が牧会論やキリスト論において深い洞察的理解を持っているのと較べると、個人的な感情があらわであるところが特徴です。驚くのは、獄に捕らえられていながら喜んでいる彼の信仰ですが、これは彼の伝道の最初の経験から同じであったものです。
(使徒一六・二五)
パウロとピリピ教会との良い関係は愛で始まりました。彼らはキリストの愛によって伝道者パウロを物質をもって具体的に助けました。どんな場合にも愛は無欲さと関係があります。
しかし、パウロはたいしたものだと思います。愛にはおぼれず、彼らに対して適切な忠告をするのを忘れていないからです。「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。・・・」(一・九〜一〇)これが彼の祈りです。
どんなによいスタートでも落とし穴はあります。特に愛は全てをおおう。本人も相手も溺れがちで、御旨を行っていると錯覚してしまう。愛は真の知識と識別力によって初めて完成します。主にあるものはこのことも知らされるのであります。
(一九八七年八月三〇日)
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
(第一コリント二・二)
パウロという人は、あのイザヤと同じような経験があったが、ダマスコ城門外で復活のイエスにお目にかかった時以来、基本的なメッセージは生涯変わらなかった、と言ってよい。つまり彼の場合は「十字架につけられたキリスト(十字架の福音)」である。しかし、そうだとするとこの聖句の二章一〜二節は少しおかしい。
彼は結局のところ生涯を通して、ただ一つのことを語り続けたのであろう。しかし、彼を通じて語られたのはキリストである。彼は奴隷に対してはそのように、自由人には自由人に対するように語った人だ。そしてアテネに行った時は彼らがそれを求めているように思えたので「すぐれたことば、すぐれた知恵」で語ったのかも知れない。そこでこんな決心が出てくるのだ。
神の召しと選びは変わらないのであるが、私たちはいつも変わりやすい。アブラハムにもイサクにも、そしてヤコブにも神は契約を何度も更新されている。これは神の忠実さをあらわしていると共に、不完全な人間が時に応じて神の前に新しく契約を確認するには必要なことと思われるのだ。
人生には節目というものがある。振り返って見ると、いくつかの時期に区切ることができる。そういった時、神にあって決意をし直すことが大切だ。新しい決意の動機と目標とに神があり、そのご栄光がある人は実に幸いである。
私たちクリスチャンの決意とは、神がすでに私たちのために計画していらっしゃる不変の道を、つたない心が人生の節目にあって再確認することにすぎない。
(一九八〇年八月三一日)
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 (詩篇二三・四)
ダビデはむちと杖が慰めであるという。同節前半を見ると、死の陰の谷を歩くことがあっても主が共に居られることが分かれば、わざわいも恐れもない、と言っているのを見れば、彼にとってムチは主がそこに居られることの証拠というわけである。
最近、教会も二代目から三代目が居るようになり、だいぶ賑やかになってきた。落ちついて子弟の教育も考えられるようになってきた。二代目がバプテスマを受けるようになり、その証しが聞けるようになって分かることは、彼らが小さいうちから自由気ままに振る舞っているように見えて実は、親や先輩クリスチャンたちの姿を見ているということである。
そしてバプテスマを受け、戦列に自ら加わってくるのである。
しつけは「躾」とも書く。よくしつけられた子は美しい。又、美しくするために礼儀・作法を仕込むのを言う。世の中どこでも子どものしつけには苦労しているので、よくしつけられたクリスチャンの家庭は発言力のある証しの立つ拠点となろう。新しい今からの課題だろうと思う。
辞典によると「仕付ける」とは、「常にそのことをしていて慣れさせること」とある。
子をしつけている親は厳然と同じ姿でそこにいることになる。少々うるさがられるかも知れないが、要所をムチと杖を加えることによって、親の意志をはっきりと示すことになる。
自ら何も分からない子たちの行く先を、はっきりと決めてやるのは親の責任である。最後は勿論、自ら決定するのであるが・・・。聖書には「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」(箴言一三・二四)とあり、似たような教えは不思議と数多くある。
(一九八六年八月三一日)