主の小道
8月1日〜8月10日



放蕩息子の裏話

すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。(ルカ15章28節a)

ルカの福音書で有名な中間段落には、いくつかの、絵に描いたような例話がある。放蕩息子の話はその一つだ。神様と人間との間の関係を示す絶品の一つ。
アメリカのある教会の講壇の上には「放蕩息子の話はもう結構です。」と書いてあるそうだ。牧師はもとより、他より招かれて説教する先生方に手軽に選ばれる説教聖句だ。特にアメリカでは一回だけの話なら伝道説教ということになり、どうしてもこのテキストが選ばれがちということになる。
ただ、つまらないというのは表面だけのことで、ここからの名説教は数え切れないほどあり、個人でもその度に新鮮な見方で説教されうると思う。 あまりに知られているものは、分かりすぎているのでキチンと考えなおして語られない。つまり話し手にとってすでに新
鮮でないと言うのが、話(説教)をつまらなくする一番大きな原因であろう。
さてこの放蕩息子の話には裏話がある。 この兄貴の話である。二四節で終わってしまい、二五節で「ところで・・・」と始まる部分が語られない。
帰って来た弟息子の劇的な様子にまどわされて、それに対応した父親の態度に機嫌を悪くした兄の姿にまで心がまわらないのである。
このルカの中間段落の主旨は、入門者としての弟子のための入学テストではなく、弟子となった者のチェック・リストと言われているところからして、この兄息子に目を留めることはとても大切だということがわかる。
彼は怒って父がなだめなくてはならない程であった。父の心を理解し、父の仕事に関与すべき立場の者が、喜んでその任に当たれなかったのである。
真に失われていたのは果たして弟か、兄か。
(一九九二年八月二日)

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働きは祈りに支えられて

義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。
(ヤコブ5章16節c−17節)

確かに私たちは、あらゆる機会に祈っている。だが本当に大切な教会の働きは祈りに支えられているであろうか。
先週の聖日、夜まで大泉で天幕特伝の奉仕をさせて頂いた。三日間、最初の二日は一人ずつの再献身の人を与えられ、それでも大きな祝福を受けた。出席者は、近隣の教会の伝道者、信徒、未信者あわせ、毎日増えて、最終夜は八〇名程となる。 この日の決心は六名、バプテスマ希望一名、信徒の再献身三名の結果が与えられて祝福された。罪、神、救いの三大テーマを旧約聖書から語るみ言葉の奉仕に、この夜は特に自由が感じられた。
喜びと共に集会後伝道者達と交わっていた時、あることを耳にして「なるほど」と思い当る節があった。説教の最中、天幕の外で草の中にひざまずいて祈り続ける二人の兄弟がいたというのだ。私たちもよく知っているT兄とY兄とである。知らぬ所でのことなのだが結果は明らか、私は祈りの支えを実際に感じたのであった。私は母教会もその祈り手であったことを信じて話していた。
その朝の礼拝で、 牧師はスポルジョンの恵まれた牧会の秘密について話したそうである。
その秘密は一体なんですかと聞いた人に、彼は説教壇の下の小さな穴から中をのぞかせたそうだ。そこにはスポルジョンの説教中、交替で祈り続ける彼の教会の執事の姿があったと言う。二人の兄弟はこれを実践したのである。
決心者たちの所へ涙と共に近づいて来た人たちがいる。 この二人は再献身した人たちで、今日の決心者たちを強力にさそったのだった。
(一九八〇年八月三日)

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不足を知る者

イエスは・・・言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。・・・わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
(マタイ9章12-13節)

イエスのもとに来た人々は、この世の区別とは違う方法で明確に二種類に分かれたと思う。本当にイエスを必要とした人とそうでない人である。この世で正しいと思われる部類に入る人が必ずしも正しいわけではない。かえってそういう人には、医者を必要とする病人のように主イエスを求める気持ちがないのが普通である。いけにえが安易に心をいやしてくれる。代替になるものがある人はいい。病人とはあらゆるものを積んでもいやされない者のことである。そういう人は自分の無力を心底より確認しているといえる。そういう人が心を動かされてイエスに頼るというわけである。
「医者を必要とする者」とは、単に病気である者という意味ではないようだ。 イエスは、目が見えないのに見えると言いはるパリサイ人の罪を指摘しておられるが、病気であるのに病気を自覚しない人はいくらでもいる。パリサイ人には、罪を犯せばいけにえがあり、普通の人と違ってすぐにいけにえがささげられるその行為の中に、自己義認が根づいてしまうことがあろう。犯し続ける罪に「悩む」こともなくなってしまう。
しかし、そんな手段を持たぬ罪人たちこそ、幸福にも罪を自覚する時はかえって深刻である。 主よ、罪人なる我をあわれみ給えと彼が言えば、それは本当に言っているのである。
その時彼は本当に医者が要ると感じているのだ。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイ一一・二八)とイエスが言えば、その人には福音として聞こえるのである。何と幸いな人よ。心の貧しい者は。彼は義に飢え渇く。そして確かに主が救い主なのである。
(一九八四年八月五日)

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見よ、聞き従うことは・・・

主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。(第一サムエル15章22節b)

もうこの年になると後輩を導く立場になる。 一番苦労することは教える内容ではなくて、お互いの姿勢である。教えることがやりとりされる時に理想的なカタチは何かと言えば、教えられる方が教師のことばを素直に聞きとることだ。これは盲従ではない。何でもご無理ごもっともではいやになる。が、その言葉に全幅の信頼を込めて従うつもりで受けとめる。素直にやってみようとする時、教師はあとを追うように面倒を見る。
老犬、養い難しという言葉があるが、老いた犬のように頑固に自分の考えを持っていては、とても教師の言葉が入っていかない。外国語を学ぶ場合も、間違いを恥ずかしく思う年になるともう習えない。聞いたことが受け入れられるまでには、こうしていくつもの障害があるのである。
すでにある考えを持っていて、柔軟に受けとめられなかったり、失敗することを考えて尻込みをする。言われた言葉に対する信頼がない。それは語った人に対する信頼のことだから、教える方の身を正す必要については言うまでもない。
ある女の子がいた。 後に有名になったこの人は、幼なかった時のある想い出を忘れない。
ある時、湖のそばでキャンプをした。娘は水際に近寄り、岸に打ち上げられたきれいな石に魅せられ、思わずそれを拾ってしまう。父の所に持っていって「お父さん、こんなにきれいな石。大好きなお父さんにこれをあげる」と言った。父は受けとると悲しそうな顔をして、その石を思い切り水の中に投げた。そして言った。「分かるね。」父は、「水のそばに近寄るな」と固く言いきかせていたのだった。娘は冒頭の聖句を見るといつもこの事件を想い出すそうだ。
(一九八九年八月六日)

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イエスを支えたもの

群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。(マタイ14章23節)

この他、主が群衆から離れて祈られ、力を受けられた話は、マルコ六章四六節、ルカ六章一二節などにある。イエス様の日毎の務めは全く真剣勝負であり、人としての体を持つイエス様の、疲れを知らぬ働きぶりの秘訣は何だろうかと思わせられる。
それは群衆を離れ、山に行き、祈った生活にある。
大きな仕事のあと天の父と交わり、ひたすら祈るイエスのもう一つの面の生活に、秘訣があったのである。
詩篇のダビデをはじめ、多くの聖い人々の生活は、夜毎ベットの上に泣きくずれる祈りによって支えられたものだ。
夜毎の祈りをさまたげる者はいない。神と二人きりのやりとりである。時間は我らが生涯の一日の半分はある。我らの思いの全てを吐き出す時、天の父はその恵みの力を満たして下さるのだ。ごはんをいつ食べるのか。そういうことは書いてないが、福音書にあるイエスの「父の御心を行なうのが我が食物・・・」を思い起こすのである。
ルカ六章一二節は、イエス様の祈りが、祈りながら夜を明かしたものだと記している。
イエスの夜は昼の働きの一切が支えられたのだ。
霊の食物は、少なくとも肉体の食物に勝るもののようだ。
祈りの多くは昼でなく夜に関係する。大勢より二、三人がよく、しばしば一人が望ましい。
神は祈りの時、私たち自身とお話したいもののようで、それも雑念のない私たちとである。そしてそれは一人でいる時、特に夜、得られる。
こういう祈りは過ぎ去った日を真に反省させ、新しい一日への活力源としてくださる。
主のみわざには秘訣があったのだ。
(一九九五年八月六日)

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避けどころ

主に私は身を避ける。・・・拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。
(詩篇11篇1a―3節)

「主に私は身を避ける。」この言葉で自分と主との関係の一切が示されている。
感激的な光景。ある人のニワトリ小屋が焼けた。その焼け跡からピヨピヨとヒナ鳥の鳴き声が・・・。よく見ると黒こげになった母親鳥の羽のカゲから彼らが元気に飛び出してきたというのだ。
言うまでもなくヒナ鳥は、猛火の中で母親の翼のカゲをその避け所としたのである。
この世にあって心の直ぐな人も、ただそれだけのことで安全ではない。悪者どもはサタンをはじめとしてあらゆる機会をとらえて彼らをおとし入れようとしてはかりごとをめぐらしている。
まさに「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか」である。
拠り所というものは理屈は分からなくていい。その場に逃れれば守られる、という知識と確信とがあればいい。
私たちが「主に私は身を避ける」と言う時、私たちは十字架にかかられた主のことを頼りとする。無条件で、私共が無知で、弱く敵対すらしている時、受け入れて下さり、そのために命すら投げ出して下さったお方をである。
「十字架のかげに泉わきて」という賛美(聖歌三九六)が私は大好きだ。 特別伝道会に招きの時よくこの賛美を選ぶのは、それが私の安心感、主を信頼する時の心の原点であるからだ。
私たちは人生の荒波に会って、時にどうしていいか分からなくなる時がある。 そんな時、港のように嵐を避ける所があるのはよい。
ただ逃げていればいいのではない。「主よ、立ち上がって下さい」と自分の生きる道への介入を神に願って戦うべきだ。だが時に、ただ避け所を探る時もある。

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人の顔色をうかがう

若い人たちには兄弟に対するように、・・・。(第一テモテ五・一〜二)

人の顔色をうかがうと言えば、何か、なかば上目使いで人を見る卑屈な行動のように思われるが、なかなか大切なことのようです。
犬を飼っている人は愛犬の鼻のぬれ具合で身体の調子を知るのだそうですが、本当に愛する者はその相手の一寸した変化を見落としません。
この頃、そんな方も少なくなったようですが、お医者さんの診察にはあらゆるアンテナがはりめぐらされております。今では、触ってみもしないで薬をくれたり注射したりでおしまい。何か昔のお医者さんが胸をトントンとやってくれたあの有様がなつかしく思えるのは年のせいでしょうか。
名医と言われる人は、今でもこの患者とのスキンシップを大切にされているようです。
そしてこう言います。 「患者は診察室へ入ってくる様子でその悪いところが分かります。」姿勢や歩き方、声のはり・・・。そして顔色も欠かせないものです。
冒頭の短い二節ばかりの聖句に、パウロが弟子テモテに人を見るように教えていることが出て来ます。
年寄りの男性には父親に対するように、若い人には兄弟に対するように、年とった婦人には母親に対するように、若い女たちには姉妹に対するようにと、これではカメレオンのようではないかと思われるでしょう。
ここには相手を判断して適切な態度で対応するように、若い牧師テモテは勧められているのです。 ずるがしこさや卑屈さをもってではなく、深い配慮と適切な対し方で牧会する、羊たちに対する牧師の心得が出ています。
ユダヤ人にはユダヤ人のようにと言ったパウロは、神の子なのに人となられたキリストの精神が見事にあったのでしょうか。
(一九九二年八月九日)

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主が共に居るということ

この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。
(第二歴代誌二〇・一七)

「主が共に居られる」ということは最大の祝福である。かつてモーセは、彼の導くイスラエル人の罪があまりに重く、神はもうお前たちの先頭に立って荒野を旅しないと言われた時、必死になって訴えた。私たちのように野育ちの者に何かとるべきものがあるとすれば、主よ、あなたが共に居られるということではありませんか。異国人が我々を恐れる理由はそれだけですと。主が共に居られるだけで神の民はあらゆる戦いに勝つのである。
その条件は勿論、神との間が正しく整えられてあることだ。モーセの場合も、神はお前たちのように罪深い者と共に居ると、その罪の故に滅ぼすかも知れないからという理由であった。神は我々をなすにまかせられる。それは、滅びの時までは自由にさせる神のあわれみではないか。
今私たちは、イエス・キリストによって神との間は正しくされているので、信仰をもって神に近づく者は誰でも、主が共に居て下さると確信できるのである。特に主の働きを喜んでしようとする時には、間違いなく主は共に居られる。
例えばあらゆる国々の人を弟子とし、彼らにバプテスマをほどこし、彼らを教える場合、主の約束が文字通りあるわけだ。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ二八・二〇)祈る時(一八・二〇)も伝道の時(使一八・九〜一〇)も、主は共にいて、私たちに勝利をもたらす。
(一九八七年八月九日)

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偉人の報いも一デナリ

最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。(マタイ二〇・一〇)

私たちの人生においては、何よりもまず神を見つめるべきである。ペテロが、自分と一緒に復活のイエス・キリストについて行こうとしたヨハネを指して、彼はどうですかと尋ねた時、主は「あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ二一・二二)と言われた。信仰生活は徹頭徹尾、イエスと自分との関係において生きていくべきである。
そうしないとどういうことになるか。高慢やねたみが起こるのだ。自分より怠けている者と自分を比較して自己満足に陥る。神の前に自分を義とすることはもっとも恥ずかしいことであり、神はこれを低く見たもうのだ。
また同じことをしていても、自分より恵まれている人を見ると、あるいはねたましくなり、不満が心をよぎる。ここマタイ伝の二〇章一〜一六節の話を見るとそうだ。天の御国の主人である神は労務者を一日一デナリの約束で働かせた。一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱して働いたが、最後の賃金は約束通り一デナリである。約束通りだから何も悪いことはないはずであるが、そこには夕方五時ごろに雇われて、たった一時間しか働かない者もいたのだ。しかも彼らにも一デナリが支払われたのである。これでは心がおさまらないはずである。
ここで私たちは、人を見ず神を見よ、と言いたい。神は、不当なことは何一つなさらない。全ての起こることについて神をよしとするのが真の神信仰である。もう一つのことは神の恵みを感謝せよということだ。一デナリ貰えない筈の者に、特別な恩寵の故に一デナリ払われたのは、私たちにではないか。偉人の報いも一デナリ、価値なき者にも一デナリである。
(一九八〇年八月一〇日)

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「つまずき」の意味

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラテヤ五・一六)


信仰生活は農夫の忍耐をもって続けるところに勝利があります。走るべき行程を忍耐して走りゆく・・・。ここに信仰の尊さがあります。途中、多くの挫折の機会に見まわれます。平凡な生活を馬鹿にしてはいけません。花も実も平凡に見える外面とは程遠い、内面の充実によって生ずるものだからです。忍耐をもって忠実にクリスチャンであり得るということ。これは尊いことであり、よき努力目標でもあります。
サタンはこれをよく知っていて平凡な毎日をつまらないもののように思わせ、または小さな出来事に一喜一憂させ、つまずきを感じさせて、クリスチャン生涯の歩みから私たちを遠のけようとするのであります。
さて「つまずき」とは何でしょうか。これらの小さき者をつまずかせない者は幸いだ・・・と主がおっしゃるように、つまずきを置く者の立場から考えることもできるが、今日はつまずく側から見てみよう。
パウロのこの言葉にあるように、クリスチャンは御霊によって導かれて歩むように命ぜられています。不注意にデボーションをおこたり、霊的管理をおこたると、人は肉的思いにさらされて、肉的行為、つまり不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興などにさらされます。何事もつまずきの材料になります。ところが霊に導かれれば、御霊の実、つまり愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制ができます。つまずきは解毒されてしまうのです。

つまずきはそれ自体あるのでなく、つまずくその人にとってあるものなのです。
(一九八六年八月一〇日)

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