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神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さいます。 (ヤコブ4章8節)
本当の霊の戦いとはどんなものか。それは何度も何度もそれを体験したクリスチャンだ
けが知っているものです。 ハアジェス師のお父さんは、農夫から身を起こした優れた牧師でありましたが、よく次のようにおっしゃいました。「経験豊かなクリスチャンほどサタンの存在を信じている。」と。
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく・・・」と、同じく経験豊かなパウロは、エペソの教会のクリスチャンたちに書き送っていますが、この世の暗闇の力ある支配者が、私たちの前途に立ちふさがる敵であります。
中途半端な心構えや武器ではとうてい勝つことはできません。ハアジェス師は、「母親が父を探して来いと命ずれば、そのためどこに行けばよいか、大抵分かった」と述懐しておられました。森に入ってある窮まった場所に行くと、そこに車が止まっていて、ドアを半開きにして地上にひざまずいた父親の姿が見えたといいます。
一人の伝道者の隠れた戦いの場がそこにあります。私もこの先生の説教ノートを最近見せて頂きましたが、この説教の特徴は伝道説教で、力強い悪魔の手から失われた魂をもぎりとる戦いのメッセージがあります。
後にアメリカの神学校にある放送局の局長を務めたアスキュー師は、その前は牧会しておられた人ですが、ハージェス師のお父さまのメッセージに救われました。
教会のアンプ調整室でミキシングの仕事をしていましたが、メッセージに打たれて献身した方です。二心を捨て神に近づく者は、驚くべき神の力を自分のものとし、サタンの支配的な力に
対抗できるのです。
(一九九一年六月一六日)
ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある。
(箴言10章19節)
誰にも弱点はある。三人のクリスチャンがたまの休みに釣りに出かけた。大自然の中でのびのびした彼らは何といってもクリスチャンである。いつになく心を許し合い、一人一人順番に自分の弱点を告白する羽目になった。どれも一寸他人には公表したくない話ばかりであったが、最後の一人が自分の罪を告白し始めると、今までの暖かい友情は一瞬氷のように冷たくなった。彼の告白した罪は、どうしても他人の秘密をだまっていられないというものだったのだ。
静かに黙って一緒にいて、しかもよい交わりというものもあろう。理解し合った良い夫婦の中にたまに見られる。しかし、大方は、仲良きところに言葉数は多いものだ。全てをなるべく深く打ち明けられることが友情のしるしだと思う人は、いくらも居る。が実はそうではないのである。言葉と話題をその支配下において、話していいこと、悪いことを選びながら交われるところに神の知恵がある。人間は弱いものだから言葉も制し切れない。
が、それを話してしまった他人に黙って居れと要求することはもっと酷である。「ことば数が多いところには、そむきの罪がある。」
言葉は主の証しに用いるのに必要であっておしゃべりを楽しむ(?ためのものではない。話した言葉は、それ自体で生きていてイタズラをする。
君子の交わりは淡きこと水の如しで、たとい親しい間柄でも、言葉以上に真実で愛し合うようになる、そうした人生の自信が欲しいように思う。今の時代は言わなくとも分かる・・・という生き方は通じないということになっているが、だからこそ、自由に動きまわるこの言葉という怪物の威力にも、心をとめなければならないのではないか。
(一九八四年七月二二日)
主は羊飼いのように、その群れを飼い・・・。
(イザヤ40章11節)
イスラエルに行くと、今でもベトウインたちが羊の群れを追っている姿を見かける。イスラエル人と羊とは、切っても切れない関係がある。ただ、ジーパンをはいている羊飼いには抵抗を感じるが、生活様式の違いと時代の流れ、これはいたしかたあるまい。
聖書の民は羊の中に自分たちを見、リーダーの姿に羊飼いをかぶせて見る。だから主は私たちの羊飼いなのである。
この霊的な羊飼いは、豊かなみどりの野に私たちを連れて行き、水も豊かに備えてくれる。この豊かさは肉のものではなく、たましいに生命を与える力があり、そういう意味においてのみ、主は私共の羊飼いである。
御名のために生き、義の道をねんごろに歩ませてくださる羊飼いである。 そのためにはこの羊飼いは、本当の羊飼いのようにムチと杖を使う。行ってはならない所に行き、してはならないことをする時にこれが使われる。アメとムチと言うようにこれは決して嬉しいものではないが、私たちを生命がけで守ってくれる羊飼いがそこにいるという証しでもあるので、ムチがふるわれる時にはかえって心強く、慰めとなるわけだ。
この羊飼いは、敵の前でも食事を整えて下さる。危険だからと身をかくす羊飼いなどいない。それが唯一の使命であるからだ。
こうした羊飼いのようなお方を主と仰ぐ時、私たちは霊的な元気に満ち、生涯は力に溢れ、祝福に潤される。
「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」(詩篇二三・六)とダビデが言うがその通り。寄らば大樹の陰・・・という。羊飼いイエスこそ私たちの主である。
(一九九〇年七月二二日)
そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
(第一ペテロ3章15節b)
ここには積極的な信仰告白の姿勢について言われている。クリスチャンであった私の祖父は、ある時「今日は電車の中でクリスチャンだってことを見破られたよ。」と言ってニコニコ笑っている。乗客の一人から「あなたはクリスチャンですか」と聞かれたという。俺もいよいよ見るからに信者らしい香りを放ち始めたのかな、とにやけていると「さっき電車の中でクリスチャン新聞を読んでいらっしゃいました
ね。」と言われてがっかりしたということである。 私たちは努力もしないで自然の香りが出て来る事を待っているが、下手をすれば香りでなく、いやな匂いが出るかも知れない。
積極的に語りかけるというが、日本人にはこれがどうも苦手らしい。 ある統計によると、列車に乗り合わせ、隣同士になった人が最初の三分間で話しかけなかったら、ほとんどの人が終着駅まで無言だそうである。
西洋人はパッと手を出し、「○○です。どちらまで? 失礼します。」というような事
を言って、まず氷を砕いておく。後が話しやすいというものである。 渋い顔をしてだまって座っている乗客を見る度に、この事を思い出す。そして、しばしばその主人公が自分であるから、いやになる。中には聞いてもいない事を語ってくれる人もいるので、少しの間かたくなに沈黙を保っているというところか。
考えてみると、これはとてつもない証しの機会なのではなかろうか。時間はある。手持
ちぶさただ。隣に座っている。「この人どんな人?」などと多少の好奇心もあるだろう。その上、あなたには言うに言われぬ希望がある。無駄にはできない。
(一九九五年七月二三日)
あだから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
(マタイ6章34節)
取り越し苦労という言葉があります。労苦を先取りして、こうなったらどうしようなどと、まだ起こりもしない事を思い悩むことです。馬鹿馬鹿しいようではありますが、人間の思いわずらいというものは、実際そんなものなのであります。
確かに、人間の中には楽天的な人が多くて、「どうにかなるさ」と言ってはばかりません。実際、悩んでも仕方がないからです。あなたがたのうちだれが、心配したからといっ
て、自分の命を少しでも延ばすことができますか、というのは聖書も言う通りです。(二七) が、滅びが突然やって来るから目をさまし、用意して待っていなさい、というのも又聖書であります。本当に大切な事とそうでないことを区別する目が大事なのです。
つまらないことでクヨクヨしはじめると、心配は先へ先へと拡大します。その結果、今日心配しなければならないことがおろそかになるのです。今日、今の問題として考えるべきことは何か。そのことが本当にはっきりすると、取り越し苦労や思いわずらいの堂々巡りから解放されます。
それは何かというと、神の国とその義を求めることです。だから、神の国とその義と
をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(三三) この聖書中第一の原則こそ「その日の労苦」であるべきで、この事を考えれ
ば、労苦はその日その日に十分あると言えます。今日も明日もこのことを考える。すると全て他の事は「そえて」与えられる、という信仰に立つことができるようになり、平安が与えられて、取り越し苦労や堂々巡りから解放されるのです。
(一九八三年七月二四日)
信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
(ローマ5章1節)
神との平和・・・。何とすばらしい言葉でしょう。何という平和な状況でしょうか。
先日、主にある先生方とお交わりを頂く機会がありました。例の「燃え尽き症候群」という言葉に話がいきました。
あちこちに祈りの課題があることに気づきました。年齢がそういう時期にさしかかって
いるせいか、病を訴える働き人も多くなっています。 私もそういう状況の中で、追い詰められた気持ちになった事がありました。「唯今、牧師が危い」と冗談めかして言ってもみましたが、人間である以上、主より離れると私たち
はいつもこの危険にさらされるのです。 その時S牧師が「私は今の瞬間本当に平安です。・・・」と言われて小さな例話を話されました。私は大変感動しました。
困難な、そして自分が悩んでもどうにもならない事を、主におまかせするのだという事でした。この分かりきったことが出来ずクヨクヨし続けることが多い私たちには、反省させられます。
問題の最中にあった時平安だったですか、と突然たずねられてびっくりしました。追い詰められていたので平安でなかったのだろうと勝手に考えていたところだったので、一時返事に困ったのですが、一つの言葉を思い起こし、直ちにお答えしました。「今もその時も同じように平安でしたよ」と。
信仰によって義と認められた私たちは、キリストにより神との平和をすでに与えられているのです。信仰により、この恵みに導き入れられているのです。
これを忘れて目前の問題にクヨクヨする。海の表面は嵐も吹く。しかし、少しもぐればいつも変わらぬ静けさがそこにある。
(一九九三年七月二五日)
と正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう。
(箴言20章7節)
私たち自身の主にある最期は、自分の決断次第である。神と共に永遠に生きるか、その魂が滅びるか。私たち一人一人の責任による。
しかし主にある正しい人は、多くの場合、自分の子孫のことを考える。 自分の場合でも、
結婚し、子が出来、孫が生まれた時、いやもっと前だったか、自分というものがどうして生を受けたのだろうと、人生に悩んだ時、自分の存在が自分一人だけの問題以上に大きな
ものとして迫って来たことがあったことを思い出す。 自分は愚かで価値のない者かもしれぬ。誰も認めてくれないような小さな者であるかも分からない。しかし、めでたく結婚をして子をなしたならば、その下に多くの子らが次々に生まれ育つであろう。そうしたら自分は人間の歴史に深くかかわっていることになる。
厳粛な思いに打たれたことがある。 しかし、アダムの場合がそうであるように、一人の人によって罪が世に入り、それによって人類全体に死が及ぶようなこともまたある。責任は重い。家系というものがどんな意味を持つかを研究したデータを見たことがある。ある二組の人達の数代にわたる職業を調べたところ、犯罪者同士の結婚がもたらしたものは、五百数十人の子孫の内、実に六〇%以上が刑務所経験者となった。
私たち一代が主を畏れて生活する時、それは何と大きな祝福であるか。主は共に歩み給う。しかし、私たちの知らぬところで、子々孫々において、多くの口によって、主があがめられる。これも又すばらしい。私も又、考えてみれば、自分の父に教会を勧められて救われたのであった。
(一九八七年七月二六日)
このとき(家族の不幸の報を聞いて)、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。
(ヨブ1章20-22節)
こんなにショックを受けた聖書の言葉は多くはない。この信仰、この強さ。一つの人生
を十分支えられると思った。 ここには神を知る者の「所有観」が出ていると思う。自分が自分に属するものを持っているのではない。全て「主のもの」なのだ。主より預かっているにすぎない。
一体、クリスチャンの信仰の成長というものは、この所有という考えを中心に起こって来るもののようだ。
昔「神を求めた私の記録」という、女性宣教師イゾベル・クーンの手記を読んで考えさせられたことがあった。神の前における所有とは、両手を開き、その上に置いたようなかたちで持つべきだというのである。
多くの人はギュッと握りしめて持つ。神が捧げよとおっしゃる時、握りしめた手の指一本一本をはがされる思いがして、痛く、苦しい。彼女は献身の意味が本当に分かるまでは苦労したようだ。
神に捧げるということは何も持たないのではない。これは主のもの、主より預けられたものと心に決めて(捧げて)持つことにするのである。
人間は、さまざまなドロドロした世界に住むものである。が、ヨブのこのスッキリとした信仰の生きざまにならえば、嬉しく生きられる気がする。私たちの自己中心な持ち方に問題がある。
(一九九二年七月二六日)
第七日目、つまり土曜を安息日としそれを厳格に守るということが旧約時代の人々のやって来たことですが、今は新約時代に入ったので、律法は廃棄され、福音によって生きる
べきだという考えがあること、そして実際、キリスト教会が使徒の時代以来、土曜にかえて日曜を主の復活を記念し主の日として守るようになったことなどから、聖日を厳守するということがあまり重要視されなくなっているのではないでしょうか。
現に多くの教会では夕拝がなくなり、聖日の活動も一般信徒のためにはほとんどなくなってしまって、朝拝に出席すると後は普通の人と変わらない生活を送る、という現象も起こっているようです。
まず、律法は廃棄されたとはどういうことでしょう。出エジプト記二〇章の、モーセの
十戒を開いて見て下さい。第四戒の安息日の項だけではありません。その他の九つの戒めのうち、新約時代に入ったから破ってよくなったものは一つでもあるでしょうか。ないのです。そうした安息日のことだけが例外ではありません。
また、第七日から第一日(日曜)に変更になったことですが、これは主イエスの復活を
記念するという積極的な意味を持つようになったので、決して単なる変更ではありません。私たちは週の中の一日を旧約時代の人々と同じく、いや恵みによって生きる者に相応しく、彼ら以上の思いを持って、喜んで主のために過ごさなくてはならないはずのものではないでしょうか。
現在、聖日を厳守するには大きな犠牲がいることは確かです。 しかし神様がそのように
お命じになった時、その命令に従う者には守りがあることを知るべきです。それに安息日を守れるというのは、エジプトの奴隷であった経験を持つユダヤ人には歓喜だったのです。
出エジプト一六章二九〜三〇節を見ましょう。
(一九八〇年七月二七日)
悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう。
(箴言17章15節)
ユダヤ人が神の正義を重んじたことは有名である。彼らは、「偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたし(神)は悪者を正しいと宣告することはしないからである。」と言われる神ご自身をいかに畏れたか。(出エジプト二三・七〜八) 賄賂を取って正しい人の言い分がゆがめられ、聡明な人が盲目になることをどんなに恐れたか。その理由の全てが、それを「神が嫌いたもう」というところに根拠をおいて考えたと言えよう。 しかし、他ならぬ神がこれを曲げられたのであった。どれほどユダヤ人がイエス・キリストにつまずいたかが想像できる。何故なら、パウロの言葉を借りると次のようなことになり、実にキリスト教とはこのことに他ならないからだ。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ三・二四) 神が罪人を、ユダヤ人でなく異邦人を、何の代償もなしに赦されるというのである。王の王、主の主、彼らがその言葉を恐れ、そのお方を敬って限りない神が、あのみじめな死に方をされたイエスという人だったなどと彼らに信じられただろうか。 未だにユダヤ人は、メシヤとしてのキリストにはつまずき続けているのである。 しかし、つまずきのあるところに真理がある。価なしに罪人を義として下さるのは事実だが、その価は救い主ご自身が十字架で支払って下さったのである。神の義はやはり曲げられたわけではないのだ。 (一九八四年七月二九日)
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
(使徒2章32節)
ペテロの説教を聞いて人々は心を刺された。その背景にあるものを探ってみようと思います。
人の心に真に訴えるものは、神の聖霊に力づけられた聖書、神の言葉です。こうした神の言葉は、キリストを中心とした集まりによって保たれるものです。聖なる集まりにはキリストが共に居給い、キリストこそ神であることがその場からわかります。
ペテロの説教にとって重要な点は、ただ事実を述べるということではなく、証人として
の意識で語っているということです。確かに使徒らは証人でした。主は、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒一・八)と約束されました。今やそれが起こっているわけです。
使徒の条件は、この証人ということでした。彼らはイスカリオテのユダの欠員を補うにあたり
「だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」と言ってマッテヤを選んだのです。
だから聖霊の助けを得て彼らが皆の前に立った時(二・一四)、彼らにははっきりと証
人としての気構えがあったと言えます。「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(二・三二)
証人とは殉教者のことです。途中で逃げだす証人、言葉をひるがえす証人は、証人とは言えません。最終的には、その証言のために生命を投げ出す決意のある者の言葉が証言としての意味を持つのです。聖霊が臨む時(一・八)、初めてこの力強い、心を刺す証言がでるのです。
(一九八六年六月一五)