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あですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。
(ヘブル6章1節)
キリストに救われるという初歩的な経験も素晴らしく、またそれ自体それからの歩みにおいて決定的な役割を果たす。
しかし、成熟したクリスチャンたちの素晴らしさはまた格別である。主にある旧友と教会において交わる時、大きな喜びを味わうが、又、主の御人格にふれて御名を崇めるものである。
変に大人っぽい子どもだなと感ずる人もいて、人の成熟度というものを考えさせられるが、心理学者によるとその成熟度を計る尺度があるという。「面白いからそれとなく友人に質問してみてくれ」と、これはあるラジオの番組で耳にした事である。
それというのはまず頭に憎たらしい人物を思い浮かべること。その憎たらしい人には良い点もある。その良い点がいくつあげられるかで決まる。一つもないのは幼稚園以下、あと一つ上がるごとに成熟度が上がり、一〇もいけばたいした大人だそうだ。自分にも出来る。
相手や物事を好きか嫌いかで判断し、どうしてもその中間点を認められない人。つまり感情的にしか結論を出せないということはよくある事だが、そのやり方は子どもっぽいと言える。議論も出来ないから、そんな人に対しては「どうぞ御自由に・・・」と言うしかない。
主にあって成熟した人は違う。意見が違っても計るべき尺度に帰る事を知っている。祈れる。出した結論が感情的でない。そればかりか優しさと深い知恵に満ちている。そんな人が慕わしい。交わっていると嬉しくなり、「イエス・キリストを信じていてよかったなア」と思う。そんな人は私たちの最高の友である。
私たちは、時に未成熟のままとどまっている事がある。霊的にも。
(1992年7月12日)
ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。 (ダニエル6章10節)
ダニエルは、その内に宿る霊の故に並の人よりもすぐれていた。クリスチャンは平凡な人であっても、神の霊によって優れた存在となるのである。このことこそクリスチャンの生命であり、存在意義である。
しかし、このことはこの世において我々を成功するものにしてくれると共に、大いなる危険の元ともなるのである。世に用いられ、受け入れられる時、鋭い証しがいつの間にか消え失せるという、サタンの手だてもある。
しかし、神はそれ以上だ。神は一度召した者を決して捨てられることはない。必ず引き戻し、証しの場に立たせて下さる。わたしは、これを「神の保護」と言う。
クリスチャンは、世の光、地の塩であってこそ、本当に存在する意味がある。光をともして、ますの下に置くものはいないし、地の塩とて味が無くなったら道に捨てられるばかりだ。鋭い証しができなくなった時、神はまたその立場から引き戻し、守って下さる。ダニエルは、大臣たちに訴えられるという逆境でそうされた。実に試練は神の愛の保護のしるしである。
彼の悪の口実を作るための「たばかり」である文書に署名(王の)がされた時、彼はそのことを知ってもあわてふためかず、「いつものように」神の前にひざまずく。クリスチャンのこの安定した精神状態を見よ。真の信仰者は「いつもの姿」が戦いなのである。試みの日にいつものようでいられる人は幸いだ。
(1980年7月13日)
主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
(詩篇16篇5節)
ゆずりの地所とは、確保された財産として与えられる分け前です。誰もその人から取り去ることはできないのです。主がこのような財産であるとは、何と素晴らしい信仰の表現でしょう。一切の必要を満たす方、恵みと祝福の源が主、寄りかかって崩れることのない大岩、一切をそこに期待してよい存在です。普通ならそうした喜びは財産に求めるのです
が、私たちにとって主なる神がそれです。
イスラエルの民の中ではレビ族がそれでした。他の部族は実際に産物を生み出す土地を分けて貰ったのに、彼らだけは十二の他の部族のため神に仕え、彼らの産物の十分の一を受けて生活の糧としました。信仰によって生きる者の型です。この世の目に見えるものにでなく、神に全てを期待します。生活の全てが神に関わってくる人々でした。ダビデが「主は私へのゆずりの地所」と言ったとき、こうした信仰を表現したものと思われます。
それに続いて「また私への杯」とも言っています。杯とは運命を表す言葉です。甘くとも苦くとも飲みほすべき運命が主なる神であるということ。主が運命を共にされる方だということは、神が共にいますということの強い告白であると同時に、たとえどんなに苦しい事であっても主の御心として受け止めるという決意でもあります。
順境も逆境も共に受け止め得るのは信仰によります。しかもそれを「ゆずりの地所」と並べて考えられることが素晴らしいと思います。こういう信仰こそ内村鑑三の言ったあの「大いなる遺産」であって、人生何ものにもかえがたい宝だと言わねばなりません。ダビデにはその全てが分かっているのです。
(一九八五年七月一四日)
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
(マタイ5章44節)
この聖句は、「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。・・・」に続いています。
聖書のどこにも自分の敵を憎めとは書いてないと思ったので調べてみると確かにその通りです。
レビ一九・一八の辺りを見てみると、自分の同胞を憎むな、隣人として愛せよ、とあるので異邦人は神の側に立たない人々だから仕方がない(つまり憎んでも神の民としてそれだけのことはあるのだから・・・)という意味かも知れません。
ユダヤ人にとってこの区別は大きいところなのです。
しかし、イエス・キリストはこの大きな壁を乗り越えるようおごそかに命じるのです。
自分の敵を愛せと。それどころか迫害する者のためにも祈れと。
私共は自分の周りの同族をも愛せないところがあります。親子、兄弟、夫婦の間で、無理解どころでない、強い憎しみすら存在する。
これは旧約時代の、あの神に選ばれた民、ユダヤ人にとっても同じことでした。あなたが憎んでいるのは神にあって一つとされた同族なのですよ、という言い方がレビ記のあの引用箇所です。
ですが、キリストはこれをもっと越します。自分と考え方、立場を異にし、神のために立つあなたを迫害する人々のためにもそれを愛し、祈ってあげなさいと言われる。
事実、 主は罪人で敵対する者のために十字架につかれて、その教えを実践されたのです。
(ローマ書五章)
ここで教えておられる主イエス・キリストの教えに真剣に取り組むと、こんなことが分かります。キリストの教えを実行するには本当にキリストが要ると。
(一九九一年七月一四日)
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
(ピリピ1章6節)
完成ということを確信して生きていくパウロの姿勢はうらやましいと思う。一つのことをやり遂げようと思えば「二兎を追う者は一兎をも得ず」で、他のことをあきらめ、一途な気持ちで進めなければならない。ましてや完成の時期にはなおそうで、あれもこれもと思うことの多くなる中で、じっくりと仕事を進めていく。これは大いに精神的なエネルギーの要ることである。これには秘訣があるらしい。
一つは、完成者であるキリストを想うことだ。ワラでも木でもない。燃え尽きることのない永遠に残る仕事こそが、人生を通して完成させていくに相応しいことである。
しかし、人生を通してと言うが、人の一生は短いもので、例えば芸術のような完成度の深いものに直面している人は、人生の短さを直観的に感じると言う。まして神のご栄光のためになる
仕事は一代で考えることはできまい。そこで、キリスト・イエスの日にキリストが幕を引いて下さる仕事に携わっている、という心構えが大切だと思う。自分が倒れた所から、主が又別の人を立てて進めていってくださるわけである。
もう一つは、そのためにこそ仕事の種類を選ぶべきだということだ。というよりも、自分のための仕事、天職としての仕事に目覚めるべきであろう。「あなた方のうちに始められたよい働き」として、自分の仕事を位置づけることである。
自分勝手な仕事ではない。主にあって、その御心の中に決められた自分の仕事に献身する時、その完成はキリストにおまかせしていいのである。こういう人は「完成への確信」を動かされることはないのである。
(一九八四年七月一五日)
あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り 入れるばかりになっています。
(ヨハネ四・三五)
人間の目や耳は、ただ見えたり聞こえたりするのではない。その人の意識活動とつながっている。注意して見たり、聞いたりすると、雑音の中にある意味のある言葉を聞きわけ
ることができる。しかし、それは他のものを自分の視野から外すことでもある。昨日、調布教会の三人の伝道者の按手礼に出席させて頂き、恵まれた。特にその中の一姉妹の証しに、私が冒頭の聖句を引いて宣教の勧めをした青年フェローシップ・キャンプ
で献身をしたと聞いて、心から感謝し、その不思議さにびっくりした。み言葉には確かに間違いなく、御聖霊が働く。
彼女はこう言う。あの時のメッセンジャーは、「人は神を見上げ、自分を見つめる事はする。が、果たして目を上げて畑を見るだろうか。」と言ったという。これは本当に痛烈なメッセージだと思った。人が自分を神の前に引き出した時、その目は自然に、失われていく魂に向かう。主はそのように導かれるに違いない。
神を見つめ、自分を見つめることは、それ自体素晴らしいメッセージである。多くの人はこれで敬虔を学んだ。しかし、自分の中で宗教生活に閉じこもり、何もしない。まるで修道院の敬虔である。人は一つのものにジッと目をとめる。すると他のものが見えなくなる。
宣教の重荷のない、良い(?)クリスチャンが沢山いる、ということになろう。目を上げて畑を見よう。
(一九八九年七月一六日)
ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。
(ヨナ4章1節)
神様から見ると、同じ伝道者の中でもヨナは用いにくい奉仕者だったようだ。神の召しの通りに歩きたがらず、そのみ顔を避けていた。(一・三) 主を礼拝すると公言しながら、(九) その不従順の故にまわりの人を困難に巻き込む。(一四) 苦しみが極まると悔い改め、ガゼン張り切って神のために働く。(三・四) しかし、ヨナの警告を聞いてニネベの民が悔い改め、下すことにしていた災いを神が思いとどまられると、自分のメンツがつぶれたと怒りだす。神はこの預言者の不機嫌を直そうと苦労していらっしゃる。
(四・六) なんともはや、扱いにくい人である。
神はこんな人でも用いられたという事は、実に有り難い。どんなに偏屈な男でも、その心の中に、事ある時に神の前にひれ伏すところがあるならば、一つの町の救いのために用いられるわけである。(二・一〜三・五) 神が人を用いられる条件は能力ではなく、どこかで完全に神の前に屈することができる信仰者かどうかということである。
しかしヨナを見ていると、神の心をよく知らない人間がどんなに神を手こずらすかがわかる。私たちも結局こんなことをしているのではないだろうか。主の僕は柔和な者のはずである。怒るにおそい。ヨナは、事もあろうに不愉快になり、神に対して怒りながら祈るのだ。まあ、だだをこねている様なものではあるが見苦しい。できれば、「主よ私はここにいます。いかようにもお用い下さい」と言うイザヤの様に・・・、また自分の苦しい胸の内を述べながら、「しかし父よ、み心のままに」と言い得たゲッセマネのイエスのように、開け渡した心で主に用いられたい。何故なら、私たちの奉仕の目的は、一切が主の御栄光のため、我らの誉れのためではないからだ。
(一九八三年七月一七日)
それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。 (第一テモテ3章15節)
この聖句でパウロは、自分の弟子テモテに、教会というものについて、いくつか大切なことを教えております。
教会とは生ける神の教会で、それゆえ神の家と呼ばれています。神の宿られるところです。教会は、神が中心で共に住まわれ、神が生活原理であり、礼拝されているところであります。そこにいる聖徒らが息子であり娘であって、その父となり豊かに交わられるのが神であるのです。二、三人がキリストの名によって祈る所には神が居給うのですから、神の御心を行なおうとする人々が共に集う所、教会に神がいまし給わぬはずがありません。
教会は、生ける神の教会で、「神の家」なのであります。
真理の柱であり土台でもあります。ペテロが岩と呼ばれ、ヤコブが初代教会の柱と言われていたことはよく知られています。真理というものは明確なものでありますが、真理がそこにあるだけでは何も意味がありません。しかし、それに気づいた人が受け入れると働いて力が生ずるのであります。真理は人に自由と生命を与えるものです。
教会とは、この真理を具体的に世に示しているものであります。ペテロやヤコブが土台であり、柱であったごとく、主にある聖徒たちが組み合わされた教会もまた、もう一つの意味で真理の土台、柱となるのです。
教会とは、有機体的存在(生き物)であると言われます。キリストを頭とし、あとは手足、体となるのは我々一人一人です。全体でキリストの御意志をあらわしていく生き物です。教会を眺めれば真理が分かります。真理の柱、土台だから言えるのです。
(一九八七年七月一九日)
それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。
(使徒行伝16章34節)
有名なピリピの看守の回心物語の中の一節です。捕らえられたパウロとシラスが神の奇跡で助けられ、責任感の強いこのローマの看守は自殺しようとするのですが、パウロの忠告で思いとどまり、福音を聞いて救われるのです。
神が私たちの人生に介入され神の奇跡が起こる時、その出来事はまわりに大きな波紋を投げかけます。
イエス・キリストにある者は「見よ、新しくなりたり」であります。この衝撃波こそが救いの原動力ではないでしょうか。エルサレムの教会はステパノの殉教の事件から解体し、迫害の中から信徒は散らされていきますが、彼らの道々の伝道でキリスト教が四方に広まっていったのは衆知の通りです。
パウロとシラスが助けられるということは、一人の不幸な人(看守)が出現することです。しかし、主が働いておられるとき、その不幸は神の栄光があらわれるためですので、看守ばかりか、その家族まで救われるという結果をもたらしたのでした。彼は二人と共に自宅に戻り、食事のもてなしを全家族でし、全家族そろって神を信じたことを心から喜ぶのです。
本当に地道に社会生活をする者の幸福は家族ぐるみの幸福です。我らの望みは家族揃って主を拝することです。正しい信仰は、当然の事ながら家族の救いという実を実らせるのです。
この看守の家族にはしかし困難が待っている筈でした。パウロとシラスを逃がした後の看守の処罰であり、彼はそれを覚悟していたらしいのですが、パウロの知恵で見事にそれは解決するのでした。喜ばしい家族の救いの背後には信徒の犠牲とそれに報われる神の愛とがあります。
(一九八八年七月二一日)
あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
(詩篇55篇22節)
第一ペテロ五章七節にそっくりで私たちを慰める偉大な聖句の一つです。神が私たちを
子として下さるということは何と素晴らしいことでしょう。先日、デヴォーションの時、詩篇五三篇を読んでもう一度祝福を頂きました。
この篇と第一四篇とはほとんど全く同文といってよい内容です。人間が神を知らないでいる、そのおろかさを歌う、礼拝の時の詩篇のようです。
よく注意して見ると、五三篇では第五節、一四篇では五〜六節がそっくり違った表現に
なっているのです。その比較が面白いのです。
一四篇の方は、恐れを知らぬ民が神の民を見て、彼らを守り給う神の偉大さを見て恐れると歌われており、五三篇の五節の方は、神が彼らを捨てられるのを見て、恐れる必要のないところで恐れたとあります。
いずれも神なき人々の恐れ、しかも恐れる必要のない時の恐れであり、不思議に神の民のとりでとなられる神と、自分たちをけちらされる神を見ての恐れです。
神のご存在は、神の民にとっては避け所であるのに反して、神に逆らう者には彼らの骨をまき散らされる審きの神であるということです。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。・・・」 この避け所である主が「あなたのことを心配して下さる。」というのです。
心配なのは「正しい者を決してゆるがされるようにはなさらない。」とあるが、自分は正しい者と言えるかということです。
でも、このお方を「主よ、私の父よ。・・・」と呼びかける霊を私たちの内に下さった
のですから、それが神の子たる証拠です。
(一九九一年七月二一日)