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私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。(ローマ一・一四)
先日、ある高名な説教者のメッセージを聞く機会を得て、考えさせられるところがあった。その方は説教学の教師でもある方だ。
木下順二の著作から、講演と講義の違いについての所論を引用されて説明されるところによると、講義をしてあがらないが講演ではあがるというくだりがあった。講義は知っていることをならべればいいからあがらないけれども、講演はその人の人格から湧き出てくるものだからあがるという。状況や内容によって違うから何とも言えないがある部分を言い当てている。説教は心の重荷の叫びであって、知識の放出ではないのだ。
パウロにとって福音を語ることは負債のようなものだとここにのべている。返さねばならぬ借金のように、彼の内側から責め立てられるようにして語っていることがよく分かる。
そう思って彼の伝道者生活を見てみるとおざなりで語っているところは一度としてなく、生命がけである。
聖書の言葉が語られる時、ここに分かれ目があろう。質の違いがあろう。説教者がどんなに教えとして語るにしても、弟子たちが権威あるものの如く語ったというように、我々もまた神がこう語っているという気持ちで神に代わって語らねばならない。
だから私にとってはあがるあがらないのことではなく、本当に神が用いようとして居られるように語れない辛さがしばしばある。これはただ知識を伝えてるだけではないか。こう思う時がある。
しかし、神の前にへりくだって御用をする時、不思議に主は私の心を打って重荷を与えて責務を果たさせて下さる。感謝だ。
(一九八九年六月一八日)
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
(マタイ七・一四)
「狭き門」というと大学受験のことなどを思い浮かべます。合格できる数が少ないのに大勢が殺到するので入りにくい。だから道は狭いというわけです。「狭き門」という言葉はもちろん聖書のこの個所からとられたものでしょうが、その意味はずいぶんと違っているのではないでしょうか。
一つは、大学受験の場合では皆がその道の有難さを知っているということです。入りにくいというだけで「そこから入っていく者は多い」というあの広い門と同じ性格を持っているのではないでしょうか。そこには皆がほっておいても入りたいと思っているのです。
しかし、神の門の狭さは、我々の心の狭さにあります。見いだす者はまれです、と書いてあるところを見れば分かるのではないでしょうか。
神は第一ヨハネ二・一〜二に書いてある通り、これでもかといわんばかりの広さで私たちを受け入れようとしているのです。しかしその神の広い愛の招きに真に気づく人は少なくて、皆が歩いていく道をぼんやりついていけば、これは滅びになだれ込んでいくばかりです。
我々があの放蕩息子のようにどん底の生活の中からふと正気にかえり、神の愛に気づいたらそこには誰もがほっといたら入らないという意味では狭い道・・・しかし、入ろうと思えば手を広げて待っておられる父なる神の御恵みが見えてくるのです。
それは決して分かっているのに狭くて難儀で難しくて入れないのではない。見出せないでいるので入りにくい神の救いの道なのです。それがそこにあるのです。その道の狭さはあなたの心にあるのです。神は大きく手をあけてお待ちです。(一九八三年六月一九日)
わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる・・・・。(第二コリ一二・九)
今度の特別伝道会は始まったと思ったトタンに終わった。金〜日の三日間がこんな早いとは思わなかった。皆の祈りの中での期待も大きく、第一夜から人がつめかけた。私が「今日は第一夜だからいつもの例だと出席は一寸悪いかも知れない」と言ったらある姉妹におこられて、「そんなことはありません。しっかり祈りましたから、今日も沢山人は来ます」と言われ、その通りになって、何ともみっともない話であり、又嬉しかった。ただ今回で礼拝出席百名を達成できるかと思いきや、八九名で主はまた私たちを祈りの座に投げ込まれた。
主は重度の身障者伝道者を私たちの所につかわし、語る前から強く迫られる。説教になると障害の重い筈の口もさえて、明瞭なメッセージが語り出される。障害のせいで、ゆっくりと、とつとつと語るかたり口はかえって私たちが注意して聞く姿勢を喚起する。そしてその説教は講壇で自由に聖書を開けない先生のことなので、すでに書き写されてあり、注意深く引用され、考えぬかれているもののようである。すべてのものが善き方向へと働き、私共によく語りかけられている。聖書の言うようにわたしたちの力は、強い者をも主は用いられるが、正直にいって「弱さのうちに、完全に現われる」ということになる。
おそらくパウロのようにこの器も、肉体の一つのとげとして身障者としての体をなげき、これを私の運命から去らせて欲しいと何度も主に願ったことであろう。しかし今日見るごとく、主はそれを栄光のためといって取り去っては下さらないでいる。しかし、そのことが神の栄光であることは衆知の事実である。神は人が人生に願う最高のものをこれ又与えて居られるのだ。
(一九八八年六月一九日)
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。・・・(詩篇一・一)
この頃年をとってきたのか色々と体に変調が起こっている。ボケるのも少々早いと思うのだが血圧の薬をのみつづけているので仕方がないかも知れない。
時々目の前がまっ白になり、失語症に陥る。説教者として致命傷だが、よく祈り、ゆっくり考えて御用をしている。
こんな一寸した不安の中で、「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える・・・」(一・三)が実に懐かしく聞こえて来たことである。
今、詩篇一一九編を朝拝で共に学んでいて御言葉に立ちかえり聖言にすがりつく平安を毎回語るのだが果たして自分を含め幾人の人がそれを実感として味わうのか。
漠とした状態を初めて経験してみて御言葉が錨のごとく確固たるものであることを知るなぞは実に私共の歩みをよく象徴しているではないか。
時が来れば実を実らせ、何を(自由に)しても栄える。これは私共の人生が主に依存して栄える確約の言葉だ。有り難い。平安が来る。
この一節の処に幸いになるヒケツ「三つのない」があるといつも言う。
悪者のはかりごとに歩まナイが最初。人生の原理として計画して犯行に及ばない。次は罪人の道に立たない。岩(キリスト)の言葉に立つ。あざける者の座に着かナイという事、それこそ安住の地だ。
そして主の教えを喜びとし昼も夜もその教えを口ずさみ、キリストより心でその教えの本当の意味を説明して頂く。
その時、自分の身に起こることが時が来ると・・・であり、その人は何をしても・・・である。
主の御前には真の平安がある。
(一九九三年六月二〇日)