主の小道
 
 
6月7日〜6月16日


「道」あり

主よ。いつまでですか。(詩篇一三・一)

人が解決され得ない問題の渦中にいる時は「死の陰の谷」にいるようだ。山はおおいかぶさり、道は遠く、早く抜け出そうとあせってもすでに希望のない身には足にも力が入らない。だから「主よ。いつまでですか」と思わず叫び出すのである。
ダビデの詩篇にはこんな絶望的なものが多い。それなのにそれがたまらなく魅力があるのは信仰者の生活にもかかる絶望的な側面があるという事実を避けて通らないダビデの姿勢にもよることであろう。
肉の持つ底深い悪魔的な力はいつも霊的な生活に戦いをいどんでくる。油断して御霊に導かれることに失敗するとたちまち信仰を失い、ペテロが海上で主を見つめなくなった時、にまわりの荒れ狂う水や吹きすさぶ風が見えてきて沈みかけたようになる。
またあの正しい義なるイエスが父の御心を行なわれるがために人間よりの反逆に出会われ、十字架にかかられたように、又それが神のご計画であり絶対必要であったように、信仰による義人も正しいまま苦難のうちにあることもある。
その時彼はこのように叫ぶ。「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか」と。まさに義人も絶望の淵に沈むことがあるのだ。主もまた十字架の上で「父よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたことを想い見よう。
しかし、一度ダビデが神の恵みによりたのんだ時その心は救いの喜びに満ちたのであった。やはりあのペテロの例の様に、主のまなざしにその言葉を思い起こして彼が涙したように、主の目を感じれば我らの目も輝く。恵みにより頼むと絶えず注がれる主のまなざしを見出すのだ。
(一九八五年六月二日)

 
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真の戦いとその武器

主にあって、その大能の力によって強められなさい。
(エペソ六・一〇)

本当のクリスチャンであれば信仰をもって歩むということは喜びと平安の道であると同時に戦いの連続であることもよく承知の筈です。戦いのないところに勝利はありません。
戦いに勝つには敵を知り、その戦いの性質について熟知していなければなりません。そして戦いにふさわしい武器が用意されるべきです。
パウロという人はこの点本当の闘士です。こう言っています。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
敵は相当なものです。多くの場合、クリスチャンが苦い目を見るのは、この敵の真の恐ろしさを知らず、甘く見ているからです。パウロは敵を知っているので「神のすべての武具」について十分な指示を与えることが出来るわけです。
この戦いはいわば特殊戦でありますから、武器もまた特殊と言えます。一四〜一八節にはこのことがよく書いてあります。
しかし、ここに注意すべきことばがあります。主にあって、その大能の力によって強められる・・・・ということです。どんな武器もこれなくしては、役に立たないのです。
よく考えて見れば当たり前の話ではあります。どんな立派な武器も扱い方を知らぬ兵士にとっては宝の持ちぐされです。よく訓練され、武器の使い方を知る者のみが強い兵士と言えるのではないでしょうか。
主にあって強められることが第一に必要です。主と離れては何も出来ないからです。戦いの本当の部分は主によって戦われます。その大能の力が私たちを強め、私たちを主の兵卒たり得るのです。
(一九九一年六月二日)
 
 

 

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涙にぬれたパン

涙ながらにパンを食べたことの無い者苦悩に満ちた幾夜をベッドの上に泣きながら座ったことのない者よ。
その人は天の力を知らない。・・・ゲーテ

第二サムエル一五章はアブシャロムにそむかれ、そしてそのわが子の悲惨な死に直面したダビデ王について語った。
詩篇の三、四一、五五篇など、このことに関連して歌ったらしいダビデの詩篇で立体的に光をあてると彼の苦しみの性格がよく分かる。
この苦しみは彼の罪や、人間そのものの弱さに原因があるとしてももっとはっきりとしていることは、彼の生涯の中で、また神のみ心の中においては積極的な意味を持つのである。
これは預言であった。主の受難の預言であった。彼にとりこれは光栄ある役目だ。それに彼はこの苦労によって真に造りあげられていく(へブル一二・一〇〜一一、ヤコブ一・二〜四)。
その時に思い出したのは、ある有名な画家が座右に銘記したゲーテのこの詩だ。言葉というべきか。やはりキリスト者の背景を持つ文化の中にいたゲーテのこの言葉はダビデの苦しみと慰めを立体的にする、もう一条の光である。
一言で言えば現代人は過保護である。過去の歴史において人は自分に対して過保護であった。現代においてあらゆる者がヒューマニズムの名の故に過保護である。それが現代人を神より遠くしているのかも知れない。これを甘ったれているというのかも知れない。
パンを涙にひたし、ベッドを幾夜も涙にぬらした者は、神の力を知るであろう。神の御心にそった悲しみは大いなる祝福と喜びをもたらす。あなたはデボーションで何度泣いたか。
(一九九〇年六月三日)
 
 

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信仰と道理

農夫を指図する神は、彼に正しく教えておられる。
(イザヤ二八・二六)

世にはいろいろな知識があります。信仰の知識ともいうように私たちの信仰生活も教えられ、学ばねばなりません。が、これは机の上で学ぶ種類のものではないのです。体験的学習と言えましょう。農夫の知恵がそうです。彼は農業を高校や大学で学ぶこともできますが、一番大切なことは、実際に土地を耕し、空を眺め、土地をおこし、馬鍬でならし、きまった場所、適当な時と場所にそれぞれの種を蒔くわけであります。このためにはしばしば大学の先生でなく、やはり同じことを畑の上でやってきた古老の知恵がもっとも適切である事がほとんどであります。
私たちはこの農夫から信仰について多くのことを教えられます。信仰は農夫の忍耐に例えられることが多いですが、なすべきことを正しく成し遂げてから天候について神の配分をじっと時が来るまで待つというのは実に信仰そのものだと言えはしませんでしょうか。
またその待ち方についても教訓に富んでいます。彼は見る目と聞く耳とを持って注意して一切を見ている必要があります。「あなたがたは、私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを、注意して聞け」(二八・二三)。一切の指図はじっと期待を持って信仰の目と耳を持って待つ者以外の者の前を空しく通り過ぎて行きます。農夫への指図は実に聞く耳ある者のみ聞き取れる教えであります。
誰かが神は正しく教えておられない。信仰は分かりにくいと訴えるならば、そのことは悟りのにぶさから来るのでしょう。神はみ言葉をもって語られるがそれを農夫に指図するように教えておられることに注目すべきです。言葉の上のこととして油断して聞いてはいけません。
(一九八四年六月三日)
 

 

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神をためす

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。−万軍の主は仰せられる。−わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
(マラキ書三・一〇)

神をためすということは恐るべき犯罪です。不信仰きわまりないことですが、ここには神御自身がそれを赦しておいでになる不思議な聖句といえます。このマラキ書には人間が神に帰すべきものを帰さないでいることは「盗み」の罪に等しいと告げられているのです。わざわざ泥棒するのではない。もともと自分のものでないものを自分のものと主張することも盗みだというのです。人が神を知らないとき、自分に与
えられたものは人生も健康も金も才能も何でもかんでも自分のものだとし、それでも足りず、他人のものまで欲しがる始末です。ここでは自分のものも実はどこから与えられているか、自分は一体何に依存して生きているかをはっきりと教えているといってよいのではないでしょうか。
クリスチャンが主の日を守り、十分の一を捧げる。ここに実は大きな戦いがあります。
世の人と同じく、自分で使ってしまえば、使ってしまえない事はない。全ては私たちの心にまかせられているのです。しかし、その当然の義務であることも神が勧められるとこのマラキの三・一〇のようになるのです。
神のものは神のものとするはっきりした態度で聖なる神の前に歩みはじめるとき、主はそれに倍する恵みで報いられる。天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注ぐ・・・と言われるのです。
わたしが神学生の貧しい時代に最初に十分の一献金にふみ切った月の事を忘れない。この聖句の通りだったからです。
(一九八三年六月五日)

 

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むちとつえ

あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
(詩篇二三・四)

子供を育てる時に彼らをどう扱うか、難しい問題です。
我らの目標として家族で一緒に神の言葉を聞くという事があります。これが実現した家族はそうでなければ起こってくる多くの問題から解放されるというわけです。父も子も同じ求道者として御言葉が聞けるし、子はあらゆる事に対して聞く耳を持つ事に慣れるからです。
こういう家族になるには、その子が一人歩きを始めたごく初期の頃から大変大きな苦労が要るのです。そうです。報いられる苦労がです。
安易に礼拝の場所から外に出すのもいけません。子供は泣けば、さわげば外に出られると思ってしまう。ここにムチとツエの必要が起こって来ます。
今、教育において子供の意志を大切にして放任することがはやっていますがわれらの聖書はどういうでしょう。
ムチとツエが慰めとなるという真理を知る必要があります。この点で箴言の存在は見逃せません。子育ての名著箴言の中には七つのムチという言葉が出て来、その中の五つは子育てにはムチが必要と言っています。
「子を愛するものはつとめてこれを懲らしめる」、「むちで打っても、彼は死ぬことはない。彼のいのちをよみから救うことができる」「わがままにさせた子は母に恥を見させる」とも書かれている。
小さい時には叱る事によってやっていい事と悪いことのケジメを知る事になります。これを実際生活の中でいつ、どの様に与えるかが大変な苦労なのです。
むちを与え、叱り、あやまらせることで福音的な効果がある事に気づきました。本当にあやまれるということは福音の根本であります。これの出来る人は危機管理も出来るのであります。
(一九九三年六月六日)

 
 

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大いなる御業のあとで

あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とぺリジ人の憎まれ者にしてしまった。
(創世記三四・三〇)

心にかかっていたエサウとの和解という大きな神の御業のあとでヤコブの家には大きな問題が起こった。ヤコブは大きな悲しみを味わった。彼はカナンの地のシェケムの町の手前で宿営したところ、彼の娘ディナが土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムに好かれ、恥ずかしめられてしまうのです。
彼らは異教徒だったので割礼を条件に娘をやるとヤコブの息子たちは約束し、彼らはよろこんで割礼を受けたところ、傷もいえぬ彼らを皆殺しにするのです。その心情も状況も分からないではないが、そのことにより彼らに大きな危険がせまり、又ディナのことでは大きな悲しみが家庭にあったことはよく理解できます。どうしてこんなことになったのでしょう。
前章にはヤコブの信仰の歩みの失敗を見ることが出来る。彼らは本来まっすぐにベテルに帰って誓いを果たすべきでした(二八・一五、三一・一三)。しかし家畜のためにスコテに家を建て(三三・一七)、シェケムに住むのでした(三三・一八)。産業のために第一にすべきことを第一にしなかったと言うことは、あの神の大きな御業のあとで安心して、信仰の歩みが一時停滞したのかもしれません。マタイ六・三三を決して忘れてはなりません。彼はシェケムで礼拝はしますが、彼はまずべテルへ行くべきだったのでしょう。イスラエルと呼ばれるべきヤコブが元の名で呼ばれ続けているのは印象的です。
悪魔は最も神聖な場所にあつかましくも入り込んでくる・・・と言われる。大きな経験をした人は高ぶる。又は安心して神に頼ることを忘れる。常に目をさまし続けていなければなりません。
(一九八一年六月七日)
 
 

 
 

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ヴィジョンの必要

ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。・・・」と言われた。
(使徒一八・九)

私たちの間では使徒パウロといえば宣教の大先生である。しかし、彼にも困難はあったものと見える。コリントの教会に語って曰く、「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました」という言葉が見える。
ある夜の事、考えれば考える程おそろしくなったのであろうことが冒頭の聖句に見える。
この恐れの理由は何か。
(一)まず幻の不足であろう。目に見えるところは表面上困難がある。ユダヤ人が福音を宣べ伝える彼に危害を加えようとしているのだ。少なくとも彼にはそう見えた。
主はおっしゃる。わたしがあなたと共にいる。宣教にあたり主は常にそうおっしゃる(マタイ二八・二〇)。だれもあなたをおそって危害を加える者はいない。
神が共に居ますこと。安全だということ。この町にはあなたの味方は沢山いるということ。こうした事は主の幻のうちに教えられる。
疑心暗鬼というか、不信仰な思いでながめれば、風にゆらぐススキも怖いものに見えるというわけだ。
(二)現実はきびしい。この時パウロは堕落したコリントの町は、福音の前に壁が厚いとしみじみ感じていた。こんな町に教会が建つものか。キリストを信じる者など起こるものか。
しかし幻の結果はどうだったか。「そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」(一一)のである。
そして忍耐は報いられ、福音は根づいたのだ。大切な事は主の幻を見る事だ。恐れやおののきは誰にもある。しかし主にあっては期待できる。
(一九九二年六月七日)
 

 

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信仰生活の原点

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
(ルカ五・八)

これはペテロの信仰の原点であります。彼は他の弟子たちと一緒にこの後すぐに「舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った」のでした(一一)。
ここにいたるまでの段階が興味深いところです。ペテロは自分の持ち舟を主に用いられてみそば近くで主を見、その群衆を教えられる声に接したのでした。自分の守備範囲というか、生活圏に主が入って来られたのです。私たちはこのように注意してみると神の御働きが身近かにあることを知るのです。
話の次は実践的信仰の応答です。それも信仰的な宗教的な何かではないようです。四節のように深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取れということです。しかし全ての私達の行動の背後に信仰が活きて働くものであることが分かります。ペテロにとっては「夜通し働いたが何もとれなかった」という事実がありました。自分の経験からすればこれはもうこれ以上何も出来ないという十分な理由になる事実です。それに主はその道の専門家ではない。
この人生の壁のようなものをつき抜ける力が「でもおことばどおり網をおろす」ということでした。神の言葉に聞き従うことがどんな大きな結果をもたらすことでしょうか。そのとおりにするとたくさんの魚がはいり、網は破れそうになるのです(六)。人生の恵みは神の御言葉に聞き従うことにより満ち溢れるのです。
その時冒頭の聖句がくるのです。御言葉に従う時、神がこたえられる。そこに現実生活の中に神の臨在をみたのです。神を見たペテロは自分の罪をさとり、主に従う決心をしたのです。
(一九八五年六月九日)

 
 
 
 

 

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本当の勇気

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
(第二コリント四・一六)

私は自分のことを勇気ある人間だと思ったことは一度もありません。人生の旅路に足をとめて不安に心を乱したことも何度かあります。
自分の経験や技術によってカバーすることができる恐れというものはいくつかありますが、「見えるもの」に目を注げばこわいものはいくらもあります。
いくつか大手術を経験したことがあります。肺の一部や腎臓の片一方を取り去ったこともあります。手術前の不安はおおうべくもありませんでした。
そんな経験をしているくせに驚いたことに足の裏や指先の魚の目を取ってもらった時も同じようにビクビクしたものです。何と気の小さい男かと自分であきれました。
でも、この聖句を見ると本当の勇気とは何かが分かるような気がします。肉の世界で不安を感ずることが多くあっても、決してそれで勇気がないのではないと。
そういえば大手術の前に非常な不安があったが、主に結果をまかせてこれもまた非常に大きな平安につつまれた経験を想い起こした。
昔、敵の捕虜の首を切っておれば何もこわくないとうそぶいていたある日本兵の勇気を、
私は神以外の何も畏れないと言ったキリスト教国の軍人と比較して不思議な思いにさそわれたことがある。神を畏れる者は真の知識に支配されているので神以外に畏れるものはないのです。これが本当の勇気です。
この世の肉体を着ている私共は悲しいこと、辛いことが人並みにあり、その事は決して恥じることはありません。内なる人が神との交わりを保っていれば、真の勇気が今日も湧きます。
(一九九一年六月九日)

 
 
 

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