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第15回目
しかし、神の人よ。・・・(第一テモテ六・一一)
パウロは後輩のテモテにあの有名な勧めの言葉をこの一一節から一六節でのべています。
これは最後に頌栄で終わる格調の高い勧めとなっていますが、この格調の高さは、「しかし、神の人よ」という冒頭の語りかけにも見られるものです。
いったいこの「神の人」という呼び名は旧約聖書ではダビデやエルサレム、神のみ使いなどもそう呼ばれた名誉ある呼び名です。パウロはテモテから見ると大先輩です。テモテはごく平凡な、経験も少ない、年も若い牧師です。パウロから言えば子供に対するような言葉づかいで語ってもいい関係です。実際そうしている時もある位です。
しかし、ここで伝道者に対して勧めを語る時「神の人よ」と呼びかけているのは何故でしょうか。伝道者であるかぎり召したのは神です。その人がどんなに人の目に欠けだらけに見えたところで、神が召した以上は神はそれに値すると認められたことを意味しています。これはクリスチャンにも言えることですが、救われたのは神なのです。
神の召された「神の人」は、神の助けによって、清い勧め、つまり人生の挑戦に応え得るものとされているのです。いや、挑戦に応え得たことこそが、召命の真の証明となるのです。召されたものは従い得る、これが真理であります。
また「神の人」は召されたものらしく責任をもって生きるべきです。そうしないと召して下さった神の御名をはずかしめることになるからです。
クリスチャンはアメとムチでその生活を送るのではありません。感情に訴えたり、驚かされたりして従うのでない。神の前に召されたものとして自分の責任で従い得る。それでこそ、「神の人」なのです。
(一九八〇年五月一八日)
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。・・・
(詩篇六二・五)^
「信仰」という言葉にはヘブル書一一章の他に定義らしいものはありません。ヘブル書にしてもこれを実例でもって示そうとして章全体をそれに使っている位です。信仰とは聖書で教えられている教理のことを指すことはキリスト教の特異なことですがそのことを忘れられて、もっぱら「信心」のように心のあり方を示すのにより多く使われる言葉となっています。この面での定義は一言でいって非常に難しいものです。
もし今一つ適切な信仰の定義があるとすればこの詩篇六二・五でありましょう。ここには能動的な動きは何もありません。が実にエネルギッシュな内容でもあります。黙っている、待っている。これらは共に人間には難しいものばかりです。人は事が起こると黙っていられない。勇気を失ってモノが言えないことはあっても、そうでなければ他人に訴えて止まない。雄弁である銀にもまさるあの金の沈黙を身につける人はいないのです。そして舌を制しないで自ら破船することが多い。
また「平安」のうちに時が来るまで待つのもこれまたしごく難しいものです。どうしても無駄だと知りつつ行動を起こすのです。黙して神を待つダビデの心は神への信仰というエネルギーに満ちています。続く六〜八節を見ればその内容は豊かに分かるでしょう。彼は静かなるように見えていてそれで素晴らしい動を秘めている。避け所に逃げ込んでいるかのごとく見えて、希望を失わない。神の時が来ると最善の道を力強く、弦をはなれた矢のように飛んでいく。
「私の力の岩と避け所は、神のうちにある」(七)。神を待ち望む者は、神が「ふんばり岩」であられるのである。
(一九八五年五月一九日)
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように・・・
(ヘブル九・二七)
いやな事は絶え間なくあり、その上人間として直面する「死」の不安があります。
文学者が生きる者の本当の姿を一本の大木の上に登った人間に例えたことがあります。
その下には大きく口を開いた井戸があり、木の根元には白と黒のネズミが根のまわりをグルグル回りながら少しづつその根をかじっている。
ネズミは昼と夜をあらわしています。どんなに少しづつでもやがて木は倒れ、人は水の中に落ち込みます。しかし彼は意外とのんびり回りの景色を楽しんだりしているのです。
しかし、やがて人は老い死を目前にして不安が増していく。
昔からこの重荷の解決が最も人間が関心を持ったところでした。では重荷の中の重荷は?
「人は死ぬ。誰もがやがて死ぬ。王も乞食も必ず死に飲み込まれていく。しかしその直面する死を最も恐ろしくするのは、その死のあと何が起こるかということについて、誰も明確な答えを用意してくれる者がいない」ということです。
聖書では「人間は一度死ぬことと死んで後さばきを受けることが定まっている」と書かれています。死後のさばきの確かさと、人間が良心の働きを持っているということが、問題をさらに深刻にします。
これは聖書に聞かなければ分からないところですが、キリストは確かに御自分のお言葉の確かさを「わたしが道であり、真理であり、いのちである」とおっしゃって、さばきが確かに来る事に言及されます。そこはかとなく起こる重荷感を生命なる主にゆだねましょう。
(一九九六年五月一九日)
わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。
(ヨハネ八・一一)
ここに一人の女がいる。。悪いことではあるが姦淫の現場でとらえられ、宗教論争の犠牲となって民衆の前に引き出されて来た。イエスの偉大な知恵で石打ちは避けられた。この後悔してふるえる女をイエスはこの言葉でお赦しになった。「私もあなたを罪に定めない」。
私もと言われるが、誰でも罪のない者がいれば石を打って罰せよと言われて応じ得ず、去って行った民衆とは違う。この方が「私も」と言われた時は、罪を赦す権威のある方が、しかも罪があるのにいいかげんにすますというのではなく、その罪は私が負うから赦してあげよう。つまり十字架にかかる救い主の言葉で言っておられるということである。感謝なことである。
行きなさい。と次に言われる。罪が赦されてほっと一息ではない。罪を主にあって許された者は、そこが人生の新しい第一歩の地点である。何かを新しく始めるために、新しい創造物とされたのだ。私たちの場合だとそれは赦された方のために新しく献身するということではないだろうか。一度死んだ身が新しい生命を得たわけだ。
そして最後の部分。「今からは決して罪を犯してはなりません」である。ああ、やっぱり主は義の方であって罪をいいかげんに思っては居られない。罪はキリストの罪赦す権威と、十字架の死を通して赦されたのだ。
もし何か新しい人として人生の第一歩をふみ出すならば、このことのためでなくてはならない。今からは罪を犯してはならないのである。それも「決して・・・」である。新しい人生といえるものに不可欠なのはこの決心なのである。主の救いは偉大である。
(一九九〇年五月二〇日)
ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
(ローマ一〇・一二)
この聖句には「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです・・・という言葉が続く。しかし主以外の者の名をいくら呼んでも無駄であると知った人はどんなに幸いであるか。
私は小学校上級の頃、頭の良い英子という妹をある夏の日の夜、いく日も病まないで失った。ハダシで家をとび出した私は信頼できると信じていた近所のそば屋のおじさんに知らせた。隣人たちが次々に来てくれたが葬儀の手伝いだけであった。心から嘆く小さな私をなぐさめるためか、ある人が二十四時間以内に生き返ることがあるとポツリと言った。
この気休めの言葉を本当に信じ、これに取りすがって私ははじめて神々を信じ、彼らに祈ったのである。誰にも見られない場所は家の屋根の上であったのでそこに登った私は心を注ぎ出し、涙を流して、翌日まで祈り、叫び、求めたのである。が、結果は何も起こらなかったのである。当然のことだが・・・。
私ははじめて小さな信仰と裏切られた失望感を味わったのだった。それから数年たって主の御名を呼び求める者は・・・の言葉にぶつかり、あの時のことを想い出したのである。
人は誰でも死んでいく。これをとどめることは決して出来ない。が永遠の生命は私共の魂のために用意されているのだ。主の御名を呼び求める者は誰でもこの世の生命をこえた生命を与えられる。この偉大な福音に私は感動したことを憶えている。
もしこの来世への希望について少しでも聞いていたなら、幼い私の悲しみはどんなにか慰められていたことであろう。
(一九八八年五月二二日)
しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
(マタイ一四・一七)
若い頃、ノーマン・ヴァンセント・ピールの「積極的考え方の力」という本を読んでビックリしたことがある。人間は心の姿勢のあり方で可能性がふくらんだり、しぼんだりする。
イエスの奇跡の中にも積極的な姿勢がその土台になっているものが見られる。群衆が飢えて死にそうであるのを見て弟子たちは彼らを返して食物を探させて下さいと言うがキリストは「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言われる。
私たちも何か大仕事をやろうとするにあたって出来ないだろうと最初から思ってしまう人とまずやってみようという場合と二つある。姿勢が消極的な人は何も生み出さないが、積極的な人はやってのける事がある。そして多くの場合、誰が見ても不可能と見えた所に穴をうがつことがあるから驚きである。
人々を養うにあたってイエスが「ここから出て行く必要はない。あなた方で上げなさい」と言われた弟子たちはすぐ自分たちの持っているものを数えて「パン五つと魚二匹しかここにはない」と言った。
イエスは「それを、ここへ持って来なさい」と言って、祝してこれをさき皆は食べて満腹、満足したのであった。ここに二つの姿勢が対比的に見られる。
「これしかない」と「それを持って来なさい」である。
人間には慎重な人とそうでない人がいるので仕方がないが、時々反省してみよう。生き方が慎重でなく性格的にまず否定した言い方をしていないか。そして多くのものを取り逃してはいないか。主イエスのご人格の中にこの大きさを見る。私たちもこれにならおうではないか。私たちには五つのパンと二匹の魚で五千人を養った主がおられる。私たちの可能性はまだまだ大きいのではないか。
(一九九四年五月二二日)
みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます
(詩篇一一九・一三〇)
御言葉に対してこのような姿勢で歩み寄れる者たちは何と幸いなことか。これをごく当たり前のように考えて詩篇一一九篇を毎聖日朝拝になると連講し、またそのメッセージを慕って集まって来る者たちが居るということは当たり前の恵みではない。
この前聖書研究会でたまたまマルコの福音書一一・一二〜一四のイエスさまがイチジクの木を呪う記事について話すことになったが、これはイエスの奇跡の中では唯一、破壊的結果をもたらしたものと言われ、イエスの本当の姿を記録したものであるか疑う研究が多いという事を話して聖書観の現代における多彩さを考えさせられた。
注解書をひもといてみると疑い深い現代人の姿がそのまま浮かび上がって来る。そこには詩篇の記者の冒頭のような期待と姿勢とはない。
まずはあたまっから疑ってかかる態度、伝説に基づいたものが聖書の記事となったと考えるこういう姿勢には詩篇一一九篇は決してなじまない。次は一寸の誤ちがあったと考える。「この出来事が過越の祭り、つまり春のはじめでは
なく秋に起こった」と考えればつじつまがあう。秋の葉が落ちる頃であったので、翌日には葉がみな落ち、枯れていた。遠くからこれを見た弟子達はイエスが木を呪ったので枯れたように見えたのだという。
一寸したミスが聖書を分からせなくさせた。ほらここに直せば・・・と言う。よく考えれば人をジャッジとして聖書に対そうとする姿勢で第一と何ら変わらない。
ではどんな対し方が残っているか。聖書の記事は神の力に守られて今に至る。その通りに受け止めるとそこにメッセージが語り出されるというものだ。
(一九九三年五月二三日)
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記三二・二六)
「わたしはあなたとともにいる」という約束は果たされる。ヤコブは神の陣営(使いたち)を見て大いに励まされたようです(一)。しかし彼には大きな恐れと心配とがありました。兄エサウとの仲たがいです。罪を心におぼえた人間にはいつも心配や恐れがつきまとい、平安がないのです(七)。逃げ仕度をいたします。
しかし彼はついに祈りはじめます。ここに奇跡というか、神の仲介が見られます。逆境で祈れることは神の介入・奇跡と言えないでしょうか。困った時の神だのみで思わず叫び出すうめきのような祈りもあることはあります。しかし、このにげ腰で心づかいをしている彼の祈りの確かさに神の介入を見ることができると思います。
彼は約束の神、父祖の神、導きの神を信じ、それに祈ります(九)。また祈りは自分の足りなさをよく見つめ、何か誇るものがあるとすればそれを主に栄光を帰するという態度を失ないません(一〇)。自分が恐れの中にあることを率直に認め、「エサウの手から自分を救い出して下さい」と懇願します(一一)。約束をたてにとり、約束の神に祈るのです。弱い人間の神に聞かれる祈りの手本があるとするならばこれであります。謙遜で神にのみ信頼する祈りは解決へと私たちを近づける祈りであります。
さてこの章にはもう一つの有名な祈りが書かれています。ヤボクの渡しにおけるヤコブの祈りです。一人きりで神と格闘する必死の祈り・・・。これはまさに問題にぶつかった信仰者の祈りの典型です。九〜一二の祈りを彼はこのヤボクの渡しの祈りへと導いたと言えないでしょうか。この経験は彼を真の信仰者へと変えたのです。
(一九八一年五月二四日
私は以前は、神をけがす者・・・。(第一テモテ一・一三)
牧会書簡と言われるものには人間関係をどう見るかという点でとても面白いところが数多くあります。本書の一・一二〜一七には自分の後輩テモテをみずからの証しで励ますパウロのその証しがのっています。
証しは個人伝道で人を導くよい方法なので学んでみます。
この時テモテは教会の生気を奪う多くの問題で痛めつけられており、すっかり自信を失っていたに違いありません。その時パウロは大変な罪人ながら宣教のため任命され、福音をゆだねられたものとして自分を見るようにと勧めるのです。三つの点に注目してみましょう。
(一)以前の彼彼パウロは以前の自分を明確にとらえています。かつては見えなかったが今は見える。そこに証しの原点と原動力とがあるのです。この点、彼には人に負けないところがあります。彼は押しも押されもせぬ立派な(?)罪人のそれもかしらなのです。
(二)神に認められたそのあわれみの中に入れられているということ。彼は神から忠実なものと認められているのです。普通敵のスパイを捕らえてもなかなか自分の側のスパイとして用いる事は無理です。百パーセントの信頼は友の間にも無理ならば敵との間ならなお無理です。
しかしパウロはペテロらと同様、敵の総大将から味方の総大将とされたのです。主の愛とあわれみがあったからです。
(三)聖書の教えにのっとっていること。立派な人を動かす証しは聖書の真理の証しです。
十五節に「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり・・・、とあります。
最後に頌栄(一七)が出て来ます。証しは個人的なものですが、個人のものではなく、神を崇めるための教会的なものです。
(一九九二年五月二四日)
それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。(第一コリント三・七)
パウロが植えて、アポロが水を注いだ。しかし成長させたのは神である(六)と述べてパウロは神の国の仕事の性質を述べています。人に救いを知らせ、霊的に成長させ、実を結ばせていく働きは実にこの世で一番栄光に富んだ事業ではないでしょうか。
伝道者にとって自分の主への奉仕が実を結んで人が変えられていくのを見るのは何とも言えません。その人もまた自分に救いを伝えてくれた先生をまず忘れることはできないものです。いろいろなことはありますが、主にある師弟の関係は美しくもあり、また人間的な心情に味つけられているものであります。神学者渡辺善太は説教を母親の味噌汁の味にたとえて、自分がそれで育った説教を結局は一番よしとする・・・と述べております。パウロは肉に属する人の特徴がそういうところに出ることを指摘しています。人は肉的であるとすぐ、植えたり水を注いだりする人間に目をとめるが、成長させた神を見る必要があ
る、と教えているわけです。
好き嫌いや好みもありましょう。人はどうしても肉的なものに左右されがちです。が結局は全ての人間的なものを越えて主につながっていくことこそ大切です。説教者、伝道者の願いは自分が消えて主によりたのむ魂がおこされることです。
しかし、パウロのもう一つの心は自分やアポロが植え、水を注いだ、できれば育てたい、引き上げたいと思った。苦労したけど達成感はない。しかし、ふとみると自分たちの力以上に神が育てていて下さったのだなアという驚きがここに見られるのではないでしょうか。
少なくとも私の実感はそれです。
(一九八五年五月二六日)
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ七・二四)
どこの家庭でも子供らの悪癖をなおすために苦労するようです。一人の父親が子供の寝小便にホトホト手をやきました。
何とか、気をつけさせようとして、今度から一度する毎に柱に釘を打つと宣言して実行し始めたそうです。
ある日、子供がその柱の前でシクシク泣いていました。それを見て父親はかわいそうになりました。
なにもあの子はわざとやっているわけじゃない。病気なのだ。そうだ、これは私たちが我慢しよう。そう決心して子供に言いました。「さあ、もう泣くな。釘は抜いてあげる」。
子供は泣きじゃくりながら、「でもお父さん。この釘跡はいつまで残るの?」と言ったのです。
子供にも大人にも良心があり、そのとがめから抜け出せなければ本当に重荷から解放されたとは言えません。
はたして釘を抜き、もうお前の癖についてはとがめないからといって許されただけでなく、その思い出も、悪癖も共にすっかり消し去る様に私たちを扱って下さるお方はいったい誰だというのでありましょうか。
私たちは人生を割り切ってしまい、死でさえも諦めたりすれば何とかなるかも知れません。
しかし良心のとがが去り、清らかな心持ちを回復した時こそ、死も又私たちの征服者ではなくなります。
聖書の使徒は言います。「私のからだの中には異なった律法があって、善悪が戦っています。私は本当にみじめな人間。誰が私を救い出してくれるのか?」。
私たちに罪を知らせた上、私たちのために十字架にかかってくださったのはイエス・キリストです。
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