主の小道

第14回目


神を覚えておられた

神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。
(創世記三〇・二二)

ここには新約聖書において禁ぜられ、しかも旧約聖書中の重要な人物たちがその罪を犯していた一夫多妻の問題について、正しい評価が与えられています。
一夫多妻は神の制定に反する大きな罪です。しかしここでヤコブがラケルとレアの二人をめとり、子供を欲するあまり、彼女らの推薦でしもべビルハとジルパにも通じています。
これは道徳的にも信仰的にも我らの見ならうべきことではありません。
ヤコブの多妻生活がその家庭生活をどんなに暗くしたか、どんなにみにくい争いをその美しかるべき家庭内に持ち込んだか。それを見るならば、神がそのことをその時代には人間の無知さかげんのために彼らに許して居られるとはいえ、決して御心の喜ぶところではなかったということが分かります。
全て信仰生活の向上には訓練が必要であることはアブラハムの生涯をみるまでもありません。ラケルは愛せられていたが子がなく、レアは愛せられていないが神に慰めを受け子を授かります。ただその理由だけでなく、常に大きな祝福を受ける者は試みをうけます。
祝福は信仰より来たり、信仰は試みの中で成長するからです。
ラケルは最後には祝福の子ヨセフを生みますが不妊の恥を長くしのびます。その時、夫につぶやきます(一)。これは、子供が神よりのさずかりものであることを知らないが故です(二)。
こういう時、聖書の女性はまず神に向かいました。ハンナもそうです(第一サムエル一
・一〇、一一)。サラもリベカも結局はそうしました。(二五・二一)。そうしてうまずめが神の恵みを得るのです。そうしないで人間的な方法に走るのは(三)、さらに大きな問題を生み出すもとと知るべきです。
(一九八一年五月一〇日)

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種子は良い地に

・・・ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
(ヤコブの手紙一・二一)

人間を造りかえ、たましいを救うのはみことば(聖書)の力です。聖書を正しく学べば、
健全な教会がそこから生まれます。みことばはあなたがたのたましいを救うことができる・・・とはなんと力強い断言でありましょう。
しかし、いったいみ言葉を読まないクリスチャンがいるでしょうか。説教がなされ、聖書の説かれない教会の礼拝がありましょうか。いや、教会生活を送っていれば(言葉は悪いですが)実にうんざりするほど私たちは聖書の言葉にどっぷりとつかっているのです。
もしこれが本当に聖書に親しんでいるということであるならば、とっくの昔にリバイバルは起こり、世界が変えられてしまうほどにクリスチャンは恵まれ力づけられていることでしょうが現実はきびしいのです。
問題はどこにあるのでしょうか。「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい」とありますが、みことばに対する心の姿勢でしょう。本当に神の言葉だと思えばあだやおろそかに聞くことはできません。これは週刊誌もまたそうであるような「印刷物」の一つだと思ったり、伝道者が雑用に用いると同じ舌で語るからそれがつまづきとなるほどの考えが頭をかすめたらそれは愚かしいことです。野の草のような一つの被造物が体一杯神をたたえているのです。神の言葉として「すなおに受け入れる」のです。
そのためには汚れや溢れる悪を捨て去って、心をみことばの良き種を実らす、よき地にする心がけが私たちクリスチャンにいつも必要ではなかろうか。
(一九八〇年五月一一日)

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御言葉への「確信」

主は仰せられる。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」
主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。
(詩篇一二・五、六)

口先だけの「舌」の時代に詩人ダビデはつくづくいや気がさす。「主よ。(こんな時代から)お救い下さい」と叫び出すのである。真実がなく、舌先三寸に自信を持つこの世の人は、神を認めようともしない。
詩篇一二篇はこうした背景の中に冒頭の五、六節が出て来ます。私はこの五節に強いダビデの信仰を感じます。それ故この目立たない詩篇は「賛歌」と呼ばれるのでしょうけど。
考えて見れば神は「光あれと言い給えば光ありき」と記されている通り、ご自身が意志され、御言葉を口から出すだけで無から秩序ある有を生み出させる力と創造の主であります。
その主がおっしゃる五節の言葉は何と力強い慰めに満ちていることか。「その求める救いに入れよう」とあるから私たちはこのような神の約束の前に、招きに応じて「求める」べきではないか。
六節を見るとダビデの信仰は神の御約束の固さに対する信頼であることに気づきます。
この時彼はこの世の人々が口先だけで真実がない姿に対応して神の御言葉と約束の真実さに感動しているのでしょう。
「神がきよいようにあなた方も聖であれ」と言われる神の思いを今一度反省してみれば私たちは「ことばや口先だけで愛し合うのではなく、行ないと真実とをもって互いに愛し合う」必要があります(第一ヨハネ三・一八)。そのことこそへつらいの舌の横行するまがった時代より救われた聖徒たちの目指すところではないでしょうか。ここに御約束を率直に受けとめる者の幸せがあります。
(一九八五年五月一二日)

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キリストの赦し

わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。
(エレミヤ三一・三四)

人と人との関係ほど難しいものはない。うまくいっている時にはいいが、一度こじれるとあとを引く。紙の折れ目のようにいくらのばしても跡が消えない。
問題の当事者同志でも、被害を与えた方は容易に早く忘れるが、被害をこうむった側はそう簡単にはいかぬ。足を踏んだ人より踏まれた人は痛さを忘れられないものなのだ。
日本語に「これで帳消しにしよう」という表現がある。これを英語では「このことは忘れよう」という。最初聞いた時は何と大げさな言い方かと思ったがなかなか意味が深い。
他人に何かしてやっても「やったやった」といつまでも言い、帳消しになっていることでも、あいつは恩を知らない奴だとかいってことあるごとに思い出すものだ。
他方被害者だった人も許すといいながら許してやったという思いが消えない。本来赦しや帳消しは、忘れてしまってはじめて許しであり、帳消しなのである。
これを忘れぬところにながながと問題は続き、最後は破滅があるだけ。敵打ちの思想などがそれである。
主の支配される時代には、神さまと私たちとのなかをこわすものは何もない。咎は赦され、罪は二度と思い出されないからである。
神の奇跡により私たちは生まれ変わり、律法が私たちの心の肉弾に書き記され、その上で神は私共の神となり、私共は神の民となる。
主の民のみがこのような許し合いを経験することが出来る。赦しを知るキリスト者の特権とも言える。
(一九九一年五月一二日)

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重荷からの解放

キリストは、あなたの疲れと重荷を軽くします。キリストの言葉に「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」というのがあります。
これは面倒なキリスト教の教理など私に何の関係があるのか、という人々の心に直接訴えかけるものとして昔から有名です。
私たちは、どうせこの世に生を受けたからには、力のかぎり働いてやろうと考えます。
多少の苦労はいといません。ただ心安らかにいられればの話ですが。今日は私たちの重荷について考えてみましょう。
いろいろとある私たちの重荷。およそ人間であるかぎり不幸に会わないで過ごすことはできません。ギリシャの哲人は「人はその棺のふたがしまる時まで、その人が本当に幸福であったか不幸であったかははっきり言えない」と申しましたが、どんなに幸福そうに見えても、その人生に涙の日があるのが普通です。
ある男が息子を連れて狩りに出かけました。男の弓のウデは大したもので目指す獲物は一矢で射止めるのを自慢していました。妻も息子も幸福でした。
しかし、その日狙いたがわず射止めたものは彼の息子でした。木の茂みから飛び出した彼を父は動物と間違えたのです。一遍にその家族は悲しみのどん底に落ちました。
涙にくれる妻を賢人のところに連れて行くと彼が言うのには、「悲しみのない家庭のナベで肉を煮て食べれば楽になろう」ということでした。そんな家は一軒もありませんでした。
いや世の中にはもっと不幸な家庭はいくらもあったのです。
キリストも「人はこの世にあって悩みが多い」と指摘しておられます。
キリストの元には、言い知れぬ喜びと平和があります。心を開いて重荷をまかせませんか。
(一九九六年五月一二日)

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ザアカイの話

驚くべきは「ルカの福音書」である。実は絵に画いたようにあざやかな福音挿話を少なくも三つ以上、独自のものとして記録している。取り上げ方は別としてこの三つ(放とう息子、ザアカイ、義とされた取税人)のどれかが一度も出てこない伝道メッセージはない。
とすると、ルカは勝れた、本当の福音の話者であった筈である。
先週の特伝もザアカイが話された。不思議なのは、またもやザアカイでありながら、それでもザアカイ。私などは知りつくしていて、人にも話す者でありながら、ホーッ、そうなのかと言いながら、それでも感心して聞いている。おそらく教会員の皆もそうであろう。
そうでない人はその度に味わわないからであろう。ステーキは毎食ではウンザリするが、間をおくとそのたびに味わえておいしいものなのだ。
料理人のうでの違いもあろうし、料理法もつけあわせも違う。料理屋の雰囲気が違えば、その味わいもまた変わるであろう。
何よりも私たちはともかくも新しい人にとってこんなに分かりやすい、福音を語りやすい材料はない。考えてみれば、伝道メッセージに与えられている時間は多くて一回五十分。
強引にそれ以上使う説教者もいるが、沢山話せる割に、長い分だけマイナスになるから正味、やはり五十分しかない。この一時間足らずの中で聞き手の人生が一変するという大事を期待するのである。アグリッパ王でなくても、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」(使徒二六・二八)と叫ぶだろう。これを記録しているルカは短い時間での福音伝道の難しさを自ら、よく知っていたわけで、それがこれらいくつかの事件を独自のものとして記録させたカゲの力となったのであろう。
そうして新しい人が御言葉と神の力とで救われる姿を見て私たちも思わず嬉しくなるのだ。(一九八九年五月一四日)

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イエスの宣教

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で数え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。(マタイ九・三五)

宣教師の手本は主である。天より神の御旨を伝えるため、人となり、この世に来られ、悔い改めを説き、人を漁ることがその食物でもあられるイエスの宣教は力強いものだった。
町や村を巡り、教えたり、福音を伝えたりし、全ての病気やわずらいをいやして、皆の恵みとなり給う。まさに主の大命令をみずから実践しておられるようであった。このような主の伝道の背景に三つの重要なことがある。
その一は宣教者のあわれみの心である。「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」とある。今の時代の人の富んだ姿の中に、真のまずしさが見える目、そしてそれをあわれみ同情する心がなければ宣教はできない。
第二は、神の業への信頼である。主は弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。伝えれば必ず収穫があるという神の業への信頼。これが、「働き手が居てくれたら」という言葉の原因である。宣べ伝えても実りのないことはいくらもあろう。しかし、困難な中での宣教者への励ましは失われたものを見出した達成感である。死んでいたものが生き返ったという神の業への信頼がなければ宣教はできない。
第三は献身である。収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさいという主の命令。真面目にこの通り祈ったクリスチャンで、かつて自分が献身して出て行かなかった例はないのであろう。誰かが行かなければならない、と思って祈る人は、私でもよければと必ず言うのである。これが宣教師の心である。
(一九八八年五月一五日)

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求めるものは受ける

だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
(マタイ七・八)

この契約は実に力強い約束と言うべきでありましょう。得ることが神の子イエス・キリストによって確認されているのですから・・・。
ここでは「どうすれば」与えられるかということの方法が記されています。前の節に求めなさい、捜しなさい、たたきなさいの三行動が分離されて、しかも体の総合運動のように書かれていることに注意して下さい。
主に求めることは全身運動です。驚いたことに小さな子供は親に何かねだる時、他に方法がないのでその願いを全身でもって表現しようとします。あの姿勢の中に主の御言葉の真理を見出すのです。
彼らは母の姿を求め、大声をあげ名を呼び、追い求めます。そして遂に開かれた母の愛の手の中に飛び込むことが出来るのです。
彼らは全身で迫って与えられるのです。小声で呼んだり、手でチョコチョコッとたたいて見たりしません。相手が居たら開けてもらえると信じ、開けて貰うのだという意志がはっきりして居ります。
求めなさい、捜しなさい、たたきなさいという七節の命令形の右肩には*印がついていて、それぞれ求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさい、とも訳せる原意を持っている・・・と欄外注に書いてあります。
求め続ける信仰の大切さであります。私たちはこの祈りの中で神さまに教えらえることが沢山あります。与えるまでに「この機会にこれを教えておかなければ・・・」との神さまのお計らいでなかなか祈りの解答が得られないことがあります。
求め続けるのです。そうすれば与えられます。
(一九九四年五月一五日)

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神の御手の確かさ

主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」(創世記三一・三)

「神はさらによいものを与え給うのでなければ、あなたのよいものを取り去られない」。
一つの道が閉ざされた時は、神が新しい道を開いていなさると考えていい。そういう時に、心をひそめて神の導きを願う者のみがまことの摂理の道を確かに見出すのです。道が閉ざされたのを見てあわてふためき、人間的な考えで手当てをし、逃れ道を考えようとする時、人は迷路にまよいこんでいきます。
ヤコブの家庭に対する神の祝福はまさに明白であった。彼がどのように不利な道を選んでも神はその道を祝福の道へと変えて下さったことは前章で見る通りです。彼は「大いに富み」栄えることになりました(三〇・四三)。
それなのにここでは彼のまわりの様子がおかしくなっていることに気づかされます(一、二)。私たちクリスチャンの生涯は主に信頼するかぎり祝福の連続であります。そこで問題が起こった時は不信仰な生き方をしたからだ、と結論するのはどうでしょう。しょせん、私たちがどんなに正しい生活を送ったとしてもそれが祝福の理由となるほどの正しさは決して望めもせず、祝福はあくまで主の一方的な恵みの御意志を土台としているのです。足りない人間もあわれまれるが、祝福の中にいる者もこの世の生活では大きな困難にぶつかることもあるのです。
彼は場所を変えなければならないことになります。転居です。慣れた所を離れてです。
どうしてこうなるのか。それはアブラハムに対する約束がまだ厳然として生きているからです。彼は「先祖の国」に帰るべき神の御心を、どんなに安住の地にあっても思い起こす必要があるということです。
(一九八一年五月一七日)

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神の御力によって

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、(第一ペテロ一・五)

使徒ペテロは迫害の火のような困難と試練の中にいる信徒たちを励ましてこう言います。
「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られている」のだと・・・。これこそ生きた望みであります(三)。
のんびりと暮らしている時もそれは神の恵みによるのどかさであります。しかし、私たちが真に神の力によりしっかりと守られていることを実感するのは試練の中にある時です。信仰が働いてくれるのです。
ああ神さまの力によって守られているのだなあ。感謝だなあと言えるのはこういう時です。
だから主にあってその事を知るクリスチャンは苦難をも、苦難をこそ喜ぶのであります。
信仰の試練は火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊い・・・(七)とあります。信仰は試練にあえばあうほど精練されて純粋なものとなり、その本来の力を発揮するわけです。金も又白熱する火の中でまじり気のないものへと清められるがこれは朽ちるものです。しかし、信仰が純粋になっていく場合は、ただそれによって信仰の試練にたえられるばかりか、信仰の純粋さそのものが「イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るもの」として、二重に益あるものとなるわけであります。
それは朽ちていくことも汚れることもなければ、消えていくこともない資産でありました。信仰の試練に会う時はこの資産にいやでも気づかせられるのです。
それも喜びのうちにです。信仰の結果である、たましいの救いを得ているもの(九)にとって試練の中においてもなお「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜び」があるのです。ハレルヤ。(一九九二年五月一七日)

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