主の小道

第13回目


かたくなということ

「あなたがたはわたしにかたくななことを言う。」と主は仰せられる。・・・あなたがたは言う「神に仕えることはむなしいことだ・・・。」(マラキ三・一三、一四)

神さまのもとに来てその重荷がおろせるのは、人にとって最上のことだ。素直になってゴメンナサイとあやまれた時、その心はどんなに平安であろう。悔い改めて、砕けた心というものは美しい。そこには罪人が持ち得る唯一の真実というものがある。
ましてや羊がその羊飼いに帰るように、真に自分の創造主は誰であるかを知って天の父なる神に「アバ、父よ」と心から呼びかけることができれば最高である。御子イエスが十字架にかかって、その道を開いて下さったのだから、それができると聖書は何回も何回も語りかけてくる。
そうなれたらいいということを知っていながら折れることができないでつっぱっている者の哀しさよ。これを人の心のかたくなさと言う。首のかたさといったらいいだろうか。
不信仰とはこれである。
それで言い続けるのだ。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。今、私たちは、高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる・・・」と。ふてくされて、つっぱってこのように生きると、祝福のない心はあらゆる悪を経験する。地獄の炎に身をあぶってしまう。重くて苦しい荷は自分を開放しない。あらゆるものは自分から遠く、良いものをも冷たくしか見られない。
しかし、かたくなさをとりのぞかれ、神の前に心を開くとき、何と大きな平安が来るのか。主が言われるようにこの平安をあなた方から取り去る者はいない。
(一九八三年五月一日)

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宣教と教会成長

マタイ二十八章には世界宣教の大命令が明確に書かれています。出て行って(宣教の拡大)、弟子とし(救霊)、バプテスマを授け(教会形成)、彼らを教えなさい(信徒訓練)とありますが、これはまことに総合的な宣教理解であると思います。
宣教の拡大というとどうしても出ていくということが強調されがちですが、我らの神学校の校章にも書かれてあるごとく、「出て行って福音をのべ伝えよ。入って学べ」とあります。学べば出て行けるというわけではない。出て行くという第一目標が固く重荷としてあるからこそ、それが動機づけとなって学びに成果が期待され得るのです。
宣教学的に見れば、教会成長には、四つの方面があることが知られています。「ポスト・ローザンヌ」(矢島徹郎)。
クリスチャンの質的成長や教会の内面的成長を意味する「内的成長」、未信者が救われ、教会員が増加する「拡張的成長」、地域に教会が増える「拡大成長」、文化的にも地理的にも異った文化圈に住む人々に福音が伝えられ、教会を生み出す働きで、「海外宣教」はこの成長の中に含まれる「架橋的成長」などです。
真の意味の教会成長には、以上の四つがお互いにシゲキしあってバランスよく成長するということが必要です。理屈から言えば、自然発生的には(一)〜(四)に行くと考えられます。が、聖書の印象によればどうも(四)〜(一)のようでもあります。
「出ていく」、「出来るだけ遠くに福音を運ぶ」、つまり滅び行く魂による愛の宣教こそが教会の総合的成長の原動力となるもののようです。
時はせまっています。考えてから歩くのが賢明のようですが、歩きながら考える、迫られた思いが宣教には必要のようです。聖書の原則はまた独自ですから、私たちは主が「まず出て行け」とおっしゃったらそうしてみる必要があります。祝福がきます。
(一九八八年五月一日)

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信仰生活の中のうるおい

・・・そうしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。(創世記二九・十一)

神はヤコブに向かって「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」と約束されますした(二八・一五)。ベテルの野でのもっとも淋しい時に勇気づけられたこの言葉は事実であることが、すぐに分かってくるのです。
神は約束の通りいつもヤコブと一緒にいたまい、旅の途中を守って無事、目的地ハランに着かせ給うたばかりではない。摂理の御手でもって、親類のラバンに会うことができるようにもして下さった。
たとえ異郷の地にあって何事が起こってくるか予想がつかない境遇にあっても、なつかしい家庭を離れたこの地の生活がいかに淋しくても、このように共にいまし、ねんごろに導いた神が在りますということを実際に体験をもって知る時、彼はこれからの生活に耐え得るわけです。
御言葉を信じて従い、しかもそのことを通して正しい歩みを行なうことができた経験は、新しい歩みの力です。ですから、信仰生活には恵みから恵みへ、信仰より信仰へと進んでいけるという原理があるのです。ヤコブはこの訓練を通し「神は生き給う」の感を強くし、いかなる時にも神に頼るべきだとの確信を持ったに違いありません。それがラケルを得るために七年間労し、苦しむことができた理由でもあります。
しかもその七年間は愛の七年間でもあった。「ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた」(二〇)とあります。
神への信頼の生活は味けないものではなく、清いうるおいにも満ちているものなのです。
(一九八一年五月三日)

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散らされた人々は
他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
(使徒の働き八・四)

初代教会は当初から大きな試練にあった。主がなくなっての失望・落胆は一転して復活の喜びに変わる。復活の証人としての伝道はほっておくことの出来ないインパクトを持っていた。
「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた・・・」(八・一)。
これは主を十字架においてもぎとられた弟子達にとってダブルパンチかと思われたが、そうではなかった。散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩く結果となるのである。
散らされていくことは主の御心なのである。生めよ、増えよ、地に満てよ・・・。散らされずば地に満ちるほどには増えない。
人はしばしば団結し、かたまって自分の力を発起しようとする。バベルの塔を見よ。
しかし、自ら生命力のある例えば福音的信仰のようなものは飛ばされ、間引きされて大いに増えていくものである。
神さまは主の民に宣教の命令を出される。出ていかない時は散らされると言おうか。それで結果的には神のみ国は拡張するのだ。
百名教会を目指している私たちの教会である。出席されるべき人が全部来られれば百名の教会だが、現実は入れ代り、たち代り休み、現実はきびしい。
こういう時、出来るだけ数をとり込んで百名教会を達成しようとするのはおろかである。
五千名の人にパンが与えられた例ではないが、分け与える意志と主の祝福とがなければモノは増えない。
我々は散らすようで集める者でなくてはならない。
(一九九二年五月三日)

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教会の祈りの義務

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。(ヤコブ五・一三)

聖徒は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」と教えました。キリスト・イエスにあって神が私たちに切に望んで居られることだからです(第一テサ五・一六〜一八)。苦しんでいる時に祈り、喜んでいる時に神を賛美する言葉を申し上げる。祈りは生活の全てであるとヤコブの書は教えます。
誰でも病気になります。健康は一大関心事であります。生活の基本的な条件の一つです
から・・・。こんな大事な時にすぐ教会の伝道者を思い起こし、祈って貰う(一四)ところに、生活の基本がしっかり生活に根づいていることが分かります。罪は赦されるし病いはいやされ、神のみこころのままに病いのままにしておかれようとする場合でもその御旨を理解するので、病いのままで彼の全体は健康であり得るというわけです(一四〜一五)。
病いに始まり人生のあらゆる問題のもとは人間の罪であります。人間はその罪を言いあらわせる時、一番霊的に健全であります。神はそれを教会に望んで居られます。クリスチャン夫婦に望んで居られます。これを喜んで行なえる最高の場だからです。そしてあざやかにこの祈りが聞かれる時に、神の賜物としての喜びがその教会や家庭に満たされるのです。ヤコブは義人の祈りは聞かれると申してエリヤという偉大な人物の名をあげておりますが、エリヤも我らと同じ人であるとして、この祈りが聞かれるという驚くべきことが、神の教会においてはごくあたり前のことでなければならないことを教えています。
教会が祈りによって救霊に心を傾けるなら最高の仕事をしていることになるのです。
(一九八六年五月四日)

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救いのもう一つの面

実に聖書は折りにふれ真理をあらわしつづけ、限りない深さを持つものである。
あの恐ろしい章である第二サムエル十一章の背景は又詩篇五一篇でもあるのだが、その説教の準備をすすめるうちに今まで気づかなかった一つのことに気づかされた。それは救いの喜びのことである。
それはこの世の普通の喜びとは次元を異(こと)にするものである。悲しみつつ喜ばしいことであるということである。
キリストにある本当に深い喜びの底には悲しみがある。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」とパウロも言っている(第二コリ七・一〇)。その悲しみがどれほどの熱心さをコリントの人々にもたらしたかについて彼ら自身も気づかなかったことを適切に指摘している。
よく救われた喜びについて有頂天になったような、ウキウキした喜びのみがそれであるかの如く錯覚するのである。しかしそうとばかりは言えまい。
ダビデの場合、立派なクリスチャンであったし、第二サムエル十一章以降もそうであり続けたのだ。しかし一方この章を境にして彼の生涯には暗黒と悲哀と審判とがその特質となったとも言える。
詩篇五一篇の悲しみがたえず彼の悲しみであり、また詩篇五一篇の救いがたえず彼のものであったのだ。彼は自分の犯した罪のために一生悲哀の中にあり続けたところに五一の一四〜一七の告白もあると言える。
この真理に気づいた時、その福音の喜びと平安の深さに、今一度、驚きを禁じ得ないのであった。
その人が罪を深く悲しむのでなければ、本当に神に一途により頼む信仰も又ないと言えるのである。フランシスコはいつも泣いていたという。
(一九九〇年五月六日)

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心配は無用です

だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ六・三三)

アメリカには日本のデパートのような店は少ない。高級品はそれぞれ専門店で買うのでしょう。
その中でどこの町にもあるといっていい程の店にペニーズがあります。全国に何百店もあります。
この店ははじめ田舎の雑貨屋であった店主がクリスチャンで聖書にのっとって商売をやろうと考えた。その時、「あなたが他人にしてもらいたいように、そのように他人にしてあげなさい。」という句に魅せられ、それをモットーとしました。
それだけ入りやすくなったのであろうか。店の数は増えました。聖書の言葉がいきていて面白く暖かくいかにもアメリカらしい話です。こういうのを聖書の黄金律と言います。
それに較べて冒頭の聖句も又大きく私たちを支えてこれも又黄金律であります。
この言葉は人生、日常生活の心配事にどう対処するかが書いてあります。
明日は何を食べようか。どこに住もうか。何を着ようかと心配します。衣食住の心配から始まって、自分の生き方は正しいのだろうか。この様な状態ではよい死に方が出来るの
か。死ぬのが確かなように、裁きも必ず来る、というがそれは大丈夫だろうか。人間、心配しはじめたらキリがないのです。
これらの心配は無用です、とこの聖句は言っています。「神の国とその義とを第一に求めなさい」とあります。くだらないといっても心配事がとり去られるわけではありません。
そういう時「まず求めるべきものは何?」を教えようとしているのです。
どんな時にでも「まず何をするか?」を教える言葉です。
(一九九五年五月七日)

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生命の水

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ四・一三〜一四)
「渇き」というものは深刻なものです。手術をした後、どんなにのどがかわいて苦しいことでしょう。これはただガマンすればすむものではありません。人間の体はある一定以上の水分がないと正常に保たれません。悪いものは尿となって排せつされ、血液が濃くなれば水を飲んでうすめるのです。
今度の金沢伝道で一日余分にとったのはIさんという人に会うためでした。十年も前に腎臓の機能がなくなり三日に一度位人工的に血液をきれいにして貰ってやっと生きてきた人です。私もまかり間違えばその人のようになった筈がこうして元気で伝道しているというのでぜひ会いたいとのことでした。何とか慰めになったと信じています。
この方の場合、飲んだものはそのまま体にたまります。透析をするとその水分と老廃物をとるので何キロか体重が増えたり減ったりします。機械でそれを抜かなければ、飲んだり食べたりしたものは皆たまるとすれば、その分量しか口に入らないのです。水は極度に制限されてますし、水を欲するような塩辛いものは食べられずに十年もガマンし続けて来たのです。話しながら、まがりなりにも働き続けている我が腎臓を神に感謝しました。思いきって飲みたいだけ水を飲める自分がどんなに幸せか。水のおいしさを改めて思うのです。
しかし、この水を飲む者は又渇きます。イエスが与えて下さる生命の水をのめば、この水以上に渇きをいやされ、二度と渇かないとの約束があるのです。
(一九八三年五月八日)

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悔い改めと信仰

悔い改めこそは聖書的説教の中心に位置するものです。キリストの第一声はそれでした(マタイ四・一七)。バプテスマのヨハネも(同三・二)、使徒たちも(マルコ六・一二)
これを説き、ペンテコステの日のペテロのメッセージもしめくくりはこれであります(使徒二・三八)。
教会が「世」に語りかける際に悔い改めを説かないならば何も語らないのと同じです。
しかし現実には人が罪人であり、それ故に失われているから、救い主がどうしても必要だということを示さないまま、信じよ、クリスチャンになれと勧め続けて愚かさを犯すのです。確かにこのことはクリスチャンにとって最も勇気のある接し方で、スポルジョンの言う決して慣れることのない仕事であるのですが、これ以外に救いの道はないのであります。
その意味で救いを説くとは、狭き門より入ることを勧めることでありましょう。しかし私たち自身の怠慢さと臆病さから安易な方法をとりがちです。よかったら信じて下さい、などと言いかねないのです。この狭い門は私どもにも狭くて、時々は見えなくなってしまいます。現代人のキリスト教のイビツさの現実がここにあります。
信条にあるように「悔い改めと信仰はおごそかな義務である」と信じ、説き、勧め、かつまた懇願する必要があります。これまた信条の言葉ですが、「どんなに小さな罪も悔い改めないで救われることはなく、どんなに大きな罪も悔い改めて救われないものはない。
これが、我らが悔い改めを説きつづける理由である」とあります。
悔い改めと信仰は分離することの出来ない「恵み」であり、悔い改めて、主を信じ、受け入れるならば、いのちを与える聖霊が、私たちの魂のうちに新生をもたらすのです。新しい創造の奇跡に私たちも一役になう光栄にあずかれるわけです。
(一九八八年五月八日)

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創造と復活の神

信仰によって、アブラハムは、試みられた時イサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。(ヘブル一一・一七)

神を信じて生涯を歩く時、時にはムジュンしているとしか思えないことを受け入れる必要のあることが生じる。
アブラハムの場合そうであった。彼は約束を与えられていたので、散々信仰の戦いのあったあとイサク(息子)を与えられたのであった。
そこまではよかった。約束を信じぬいて勝利するというパターンが彼にものみ込めたはずである。
しかし、その子供を捧げるという命令があるにおよんで彼は信仰のジレンマに陥る。その命令に従えば神が与えられた最初の約束は無に帰してしまうのだ。
この時必要だったのは一九節の復活の信仰であった。創造者には新しい復活の生命を与える力もあるということ。これである。
彼はムジュンとは見えたが、それに従った。彼は信仰の人として神を信じぬき、結果、息子も帰ったのであった。
この事を通して彼は神が真に約束に忠実である事を悟るのであった。復活の力、それによって死者の中からイサクをとりもどしたのだ。「これは型です」(一九)。
ただ単に約束を成就して下さるばかりかさらにそれを豊かに成就してくださる方であると知らせるのである。
この様に各段階で信仰の柔順を学びながら、彼はまだ聞いたこともなかった福音の事実を啓示されていった。
父なる神が御子を与えなさったこと。御子キリストははん祭の捧げ物となり十字架についた事、そして三日目によみがえる事。これらを受け入れ彼は我らの信仰の父とされたのである。
(一九九三年五月九日)

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