キリストの御名によること
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。(ヨハネ一四・一四)
私たちは祈る時の定まった形を持っています。天にまします我らの父よ・・・と呼びかけます。聖霊の御助けによって神の栄光があらわれ、御心がなるところの祈りをのべます、そして最後にキリストの御名によって(あるいは、通して)祈るという形です。ここには三位一体の神さまが祈る私たちの信仰の中でとらえられ、受け入れられていることが分かります。正しく祈る人は正しい信仰によってまことの神のお姿(三位一体の)に到達するのです。
三位一体ということがどのようにあらわれているか。特にこの場合、キリストの御名によってお祈りするということの中にそれがどのようにあらわれているでしょうか。
冒頭の聖句の中には主の御名によって求めるなら「わたしは」それをしましょうとあり、一五の一六においては何でも「父が」あなた方にお与えになる・・・と言われています。
父と子とは一つであります。
一四章ではさらに主はこう言って居られます。「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい」(一〇〜一一)。
これはトマスがキリストと長く一緒にいたのに信仰の真の理解ができず、ピリポが父を見せて下さいと願った時に言われた言葉です。キリストを見ることは父を見ること。そこにキリストの名によって祈ることの本当の意味があるようです。
(一九八六年四月一三日)
何を残すか
一粒の麦が・・・。もし死ねば、豊かな実を結びます・・・。(ヨハネ一二・二四)
バプテスト教会の教会政治のあり方は一寸特別かと思う。すべてのことを教会会議で決めていく。その会議には新しい、生まれたばかりのクリスチャンもいれば、経験豊かな者もいて、教会会議の話し合いが健全であれば、ここは大変すばらしい教会訓練の場となるのである。
後の世代に教会が伝えていくものは、有形無形のものがあって、無形の部分に多くバプテスト的なものがある。
バプテストの本質は「聖書的・歴史的な」という言葉で表現されるようだが、前者はともかく後者は代々のクリスチャンが教会生活の中で悟ってきたものなので、一寸見ただけでは分かりにくい内面的で無形の伝承といえる。
ほとんど体質ともいえるこの性質が受け継がれていく私たちバプテスト教会のあり方にとって民主主義的な教会政治の形は両刃の剣のようなものである。
伝統のよく分からない者が常に半数はいると考えてよく、訓練機能が十分でない時は、注意しないと大勢に流される。また指導者の考えが必要以上に影響して本来のバプテスト的なものが失われていくことがままある。
次の世代はどういうものになるのか。一粒の麦が地に落ちて死ぬ時には麦以外のものは出て来ない。良くも悪くも次の世代の実は前の世代のままとなるのだ。リンゴの実もリンゴ以外のものではあり得ない。
物の考え方、決定の仕方、進め方・・・。この全てが次の時代のものとなっていく。とすれば私たちもイージーな生き方は許されまい。
いつの時代も主は御言葉で導かれるが、よき伝統を残す課題もないわけではない。
(一九九四年四月一四日)
全ては御旨のままに
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。
・・・」イエスは答えられた。「・・・神のわざがこの人に現われるためです。」
(ヨハネ九・二〜三)
この世の中で不幸な目にあうと人はすぐ、いったい何がわるかったのかと問います。どんなに長生きしてもやがてすべての人が死んでいきます。王さまも乞食も、です。およそ人間には雨の日もあり晴れ間もある。幸も不幸も一様にふりかかって来ます。そうすると、どうして自分だけが、あの人だけがとうらんだり、ひがんだりすることになりかねません。
すべてのことの背後に神が居られることを知らなければ、不幸は不幸にしかすぎないのです。
自分の境遇について誰かのせいにする。よくあることですが、これほど非生産的なことはありません。すべてが人まかせ、こんな人はよい事があってもきっと感謝しないでしょう。それに反して自分が悪いと思う人はどうか。絶望は人を死に至らせる病いであり、罪であると言った人がいます。自分を責め、内にこもって落ち込んでいくのも困ります。自分に絶望して、神に目を開かせられる人こそ幸いではないでしょうか。
この場合、むしろ自分の悪いといわれる境遇が踏み台となって幸福を見出しているのです。この世には人のうらやむすべてのものを持っていてなお感謝なく、満足もなく、意味もなくこの世を終わっていく人はいくらもあります。
幸と不幸とをめちゃめちゃにして、それを投げつけられたのだから不幸にあたったものは災難だと思う考えほど実りのない考えはありません。全知全能の神がどんな小さな小鳥一羽にも目をとめて居られる。自分の今日は神の栄光のためにあると信じ神を仰ごうではないですか。
(一九八三年四月一七日)
キリストは神の知恵
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
(第一コリント一・三〇)
前にも一度取り上げた聖句でウエスレーが特に愛した聖句です。ウエスレーがどういう部分をどのように心に感じたのかその時は分からなかったが、この度コリント書を説教する前後関係の中で考えてみると分かるような気がしてきます。
パウロは、神はこの世の知恵を滅ぼし、この世の取るに足りない人の言葉をあえて取り上げなさるのだ。それは神の前では誰にも誇らせないためだと言います。
知恵の言葉が人を動かしますと表側だけのことではありますが、語る方も聞く方もそれだけで満足してしまい、終わってしまいます。
しかしこのことを忘れてはいけなかったのです。私たちは『神によってキリスト・イエスのうちにある』ということです。どのようにこの世の知恵においては知者・賢者におとるとはいえ、キリストを知る知識というものはそれらすべてに勝ってあまりあるものです。
この世の知恵・知識によって武装しないと恐ろしくなることがあります。しかし神の武具は神ご自身の備えられるものです(エペソ六・一〇〜二一)。
それは人間がいくらあがいても持ち得ない、キリストの十字架のみ業によってのみ与えられた魂の贖いのことなのです。
どんなにこの世の知恵の言葉を語れなくても私たちの義と聖と贖いとになられたキリストの事を語る時、それこそ神の知恵ですし、神によってキリスト・イエスにある。私たちにはくめどもくみきれない知恵の泉として溢れるのではないでしょうか。宣教者のメッセージの準備などの事を考えながら記してみました。
(一九九四年四月一七日)
賜物を用いて仕え合え
それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。・・・(第一ペテロ四・一〇〜一一)
この聖句から明確に二つのことが教えられていることがわかります。そしてそれは教会の働きを大いに促進させるものなのです。教会は主にある「召された聖徒」の集まりであり、その人々が主の業に励むところです。
一つは「それぞれが賜物を受けている」ということ。全員がです。(第一コリ一二章参照)。私は賜物がないから奉仕できないという言い訳は聖徒の集まりである教会には通用しません。必ず「神のさまざまな恵み」として何かが与えられているのです。その様に約束されているので、教会で何一つ役立つことをしていないというのは罪なのです。大切なことは一人一人が自分に与えられた恵みと賜物をよく管理し、神のため、教会のため、自分のよき一生のため用いるべきです。
賜物は、最も重んじられるべき神の言葉の説教をはじめ、その他もろもろの奉仕をする力にまで至ります。どれ一つとして軽んじられるものではなく、上下はありません。それぞれにふさわしくありさえすればよい、とペテロは言います。そのふさわしさとは、「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられる」という目的が目指されている、ということであります。
もう一つのことがここに出てきます。教会は「互いに仕え合う所」です。キリストが手本を示され、極みまで教会を愛されたように、牧師も信徒も必死になって教会に仕える時にイエス・キリストを通して神があがめられるのです。教会で人が互いに仕え合う時、福音は目に見える形で実感され、世に証しとして表わされるのです。
(一九八〇年四月二〇日)
共有財産である真理
私たちがともに受けている救い・・・。(ユダ三)
私たちの受けている魂の救いは、教会の共有財産でもあります。主の祈りが「天にましますわれらの父よ」とありますように、また祝祷が「あなたがたとともにありますように」で終わるように、私たちの信仰もその宝も公同の(共有の)ものであります。個人でも受けているが、ともに受けているものです。
ここには責任があり、又励ましがあります。自分が倒れることはある意味では皆が倒れることにもなります。しっかり立って、逆らうものに驚かされない姿は多くの人に証しとなり、福音の力の証明ともなります。でもその逆の場合は心を痛めるものです。
パウロはエペソの教会の聖徒たちに向かって「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」と命じました。
その中にはパウロも入っていて、彼には福音を語る義務があり、それも身は鎖につながれている中での奉仕であります。祈りなくしては勝てません。倒れても仕方がない程です。
しかし自分が倒れれば、われらの信仰の証しはどうなる・・・この気持がお互いを祈りによって結びつけ、又励まし合うものとなっていったのであります。
弱さの中にあっても福音のために立つ責任を感じ合う時、それが励ましとなり、強め合うことが出来るのです。
ヨハネは言いました。「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように・・・」と。
お互い最も祈るべきはそのたましいの状態です。例え外なる人は破れても内なる人は日々に新たなり・・・。この内なる部分が幸いを得、栄え(甘く行くの意だとか)る時、福音は一人一人を強め、群れを強めるのです。ここに目をとめよう。
(一九九一年四月二一日)
聞くこと、聞いて頂くこと
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。・・・そうすれば・・・あなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ六・六)
能力開発研究家のウエイトリーの詩。「子供の話に耳を傾けよう」。我らの天の父は実にこれに勝るお方ではありませんか。
きょう少しあなたの子どもが言おうとしていることに耳を傾けよう。
きょう聞いてあげよう、あなたがどんなに忙しくても。
さもないと、いつか子どもはあなたの話を聞こうとしなくなる。
子どもの悩みや要求を聞いてあげよう。
どんなに些細な勝利の話も、どんなにささやかな行ないもほめてあげよう。
おしゃべりを我慢して聞き、一緒に大笑いしてあげよう。
子どもに何があったのか、何を求めているかを見つけてあげよう。愛していると。
毎晩毎晩。
叱ったあとは必ず抱きしめてやり、「大丈夫だ」と言ってやろう。
子どもの悪い点ばかりをあげつらっていると、そうなってほしくないような人間になってしまう。
だが同じ家族なのが誇らしいと言ってやれば子どもは自分を成功者だと思って育つ。
きょう、少しあなたの子どもが言おうとしていることに耳を傾けよう。
きょう聞いてあげよう。あなたがどんなに忙しくても。
そうすれば、子どももあなたの話を聞きに戻ってくるだろう。
(一九九六年四月二一日)
静の中の動
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
(詩篇六二・五)
信仰とは偉大なものだと思う。このダビデの音楽のように、神を信じぬけるということは、その人の生涯においては大いなるエネルギーである。「黙って、ただ神を待ち望む」などとは素晴らしいことではないか。人間は居直ってしまえば「どうとでもなれ!」と言える。しかし、これは実に排他的で、自分勝手で、非生産的だ。同じようなことでも神を待ち望む人は暖かい。おそらく、そんな人は生活そのものが安心感に溢れていて、本当に疲れきった人をその陰で休ませてくれるだろう。たとえ、彼自身がどんなに望みがないような時にでも、である。
ダビデは続けて言う。
「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である・・・。」
どんな時にも神に信頼せよ、である。人生、最悪の状態にあって四方、八方がふさがっている時に、上を見る。上だけは開いている。神には祈れるのだ。出口を探してウロウロと右を見たり、左を見たり、かがんでみたりして探しまわる。しかし、上なのだ。
神こそは、岩、救い、やぐらである。実は自分はゆるぐ筈がなかったわけだ。私の救いと栄光とは神にかかっているから。
この世界にせんかた尽きて行き悩んだ時、自分の心をそこに注ぎ出せる方を見つけられるなんて素晴らしい。たましいが黙って神を待ち望む。これは単なる静かさではないのだ。待ち望んでいると力がみなぎってくる。そういう静けさだ。
(一九八三年四月二四日)
何処に目をとめる?
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(使徒七・五五〜五六)
何事においても目のつけ所というものは大切である。困難にぶつかった場合でもそれによって助けられるということもある。
話によると空飛ぶ翼を持っているスズメも地上で蛇ににらまれるとすくんでしまい、逃げるどころかすい込まれるように近づいて行き、食われてしまうことがあるという。その目が、自分をねらってユラユラ揺れ動く蛇の目を見つめるからだという。
試練にぶつかって人はしばしばハダカの試練そのものに目がいってしまう。そして恐ろしくなり、すくんでしまい、信仰と平安とを失う。
神様を見つめ、その栄光と力、全知全能であるお方の摂理の御手を想い出す事をしない。
初代教会の初の殉教者ステパノの場合、彼は最後の瞬間に神を見上げ、栄光の御姿を見つめて勝利をしたように思う。
彼は信徒として精一杯最後のメッセージをした。勝れていると言えないまでも正統派のメッセージであった。的を得た適切な説教であった。人々は歯ぎしりした。彼は真正面から主を見つめていたのである。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(第二テモテ三・十二)。
人々はくやしがり、彼に殺到して石で打ち殺した。しかし彼は主を見ていた。だからいまわのきわの主と同じ言葉が最後に言えた。そのあかしの故に敵将パウロの心を打って彼をキリストに得たのである。
今、私たちの目は何処に向き何に止まっているか。もう一度考えて見たいものだ。
(一九九三年四月二五日)
孤独の中のなぐさめ
見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。(創世記二八・一五)
ヤコブは犯した罪のために住みなれた家にいられなくなり、なつかしい母親と家庭を離れてまだ見たこともない国へと旅立ったのです。彼は兄エサウと違い、家に居て母を助けていたような内気な者(創二五・二七)であったようでその心細さは察するにあまりあるところです。
孤独の中にあって、過去の犯した罪の重さをしみじみと味わい、将来の不安も感じないわけにはいかなかったでしょう。しかし、人生このような時に私たちの霊性は豊かに成長をとげる時であります。それは自己主張をする基盤を失った人間が神を見上げる以外にすべはなく、弱いけれども神にあって最も強くされる機会でもあります。こんな時に約束の民の一員である強さが発揮されるのです。彼は父祖の信仰に立ち、その中で自覚的・独立的信仰へと脱皮するのであります。
その夜神は彼にあらわれて罪ある彼も神の御許につながりを持ち得る者であることを示し、祝福の約束を与えて彼を励まし給いました(二八・一一〜一五)。天使が上り下りする天へのはしごは神の保護をあらわすものです。(詩三四・七、一二一・三、四、八)。
石を枕にして寝なければならないような人里離れた荒野の孤独の中に、神はそこにも居られ、なぐさめを与え、彼を支えられるのであります。
キリストは道であり、キリスト以外の方法で誰も父の許に行くことは出来ません(ヨハ一四・六)。神への道は人が築くものではなく、ここに示されるように神の御心により、神の側から開かれてくる愛の道なのです。
(一九八一年四月二六日)
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