イースターを迎えて
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れなものです。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中から、よみがえられました。
(第一コリント一五・一九〜二〇)
イースターは、キリストの復活をお祝いする日です。キリスト教の通常の礼拝日は日曜日ですが、これはキリストが金曜日に十字架につけられて、三日目によみがえられたその日を記念して礼拝日として守っているところのものです。
キリストが十字架につき、私たちの罪の身代わりになって下さったことと、三日目によみがえられ、天にお帰りになったことは、このようにキリスト教にとっては第一に重要な事とされているのです。
しかし、冒頭の聖書の言葉にあるとおり、これほど馬鹿らしく、また信じにくいこともありませんし、それについてはクリスチャン自身もよく知っています。もしもこの事柄がウソならばクリスチャンはもっとも哀れなものであるし、またそれが本当ならば、こんな素晴らしい勝利者はいない。言葉を換えて言えば、この復活の勝利はクリスチャンだけが知っているものだというわけです。
私たちが哀れなものか、そうでないか。これは証明できることではありません。自らの「信仰」によって確認するしかないのです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」と聖書は書いています。
多くの人々はこのキリストの贖いの死と復活を信仰によって受け止め、立派な生き方をし、その生き方が逆にキリストの復活を証明したのです。
(一九九二年四月一九日)
イエスだとわかった
彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。(ルカ二四・三一)
このエマオ途上の弟子たちの経験ほど読むたびに私を喜ばせるものはない。
見ずして信じる者は幸いであるとは言うが、彼らほど主の復活の現場近くにいてなお、そのことを信じられなかった者もいまい。ふたりともこの一切の出来事について話し合い、論じあったりしている。そのショックの真実性と強さを表わしている。
イエスご自身が近づき、彼らと共に歩んでおられたのに、それがイエスと気づかないのは不思議な位。目がさえぎられていたのだ。私共が主を信じられるのは神の業で目が開かれたことによる。
彼らには聖書はあっても、そうである「はず」(二一、二六)としか結論づけることは出来ない。
でも、御言葉の説き明かしが彼らの目を開く。聖書が語られる時には啓明の霊、御聖霊が働かれることがよく分かる。使徒の働き八・三五のエチオピアの高官の場合もそう。御言葉は両刃の剣のようで、それについて語られ、特に御言葉の中心であるほふられた羊、イエス・キリストについて語られる時、不思議と人の目が開くのである。
その時、我らの目が開くばかりか、御聖霊は啓明の霊であると共に、真理の証明者でもあられる。
感激するのは三三節である。
「すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみる・・」とある。時は夕刻(二九)、十一キロ以上の道(一三)を戻ったのだ。失望と落胆の日は長い。しかし、主の復活の真の姿を知った者にとっては(リバイバルされた)何ともないのかも知れない。
更に興味深いのは三一節である。彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。「するとイエスは、彼らには見えなくなった」。もはや目に見える証拠は要らぬ。
(一九九一年三月三一日)
天国の平和を地上で待つ
私たちの力のある者は、・・・(ロマ一五・一)
力のない人たちの弱さをになうべきだとパウロは言っています。自分は力がある。逆境にめげない、これは大変な自信であると言えましょう。しかし、これは威張って言うのではなく、福音によって強められているからこそ言えることです。キリストがのべ伝える言葉を受け入れ、それによって立ち、それをしっかりと保っていれば救われるという福音があるからこそ、彼は自分には力があるときっぱり言い切れるのでしょう。自分を誇らず、神を誇るのですからこそ堂々とこう言えるわけです(第一コリ一五・一)。
このように強者と弱者が混在する事実を認め、持てるものをば持たない者に惜しみなく分け与えるところにキリストにある交わりの特徴があります。この世では強い、弱いが優劣と見なされ、差別へとつながりますが、主にあっては神の助けなくして真の強者は居らず、弱い者でもその弱さを自覚して神に頼れば強くされる。こうして弱い、強いということが絶対的な差異ではなく、その状態にある人たちの一様相にしかすぎないことになります。キリストにある人々の群れは人間の体の手足のように、強弱全てが一体となって一つ
の仕事をする、それぞれが補い合って生きるわけです。
このことはキリストのモハンからきて居り、キリストにあって生きる者の性質となっているものであります。
「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」とも彼は言っています(一五・三)。忍耐と励ましの神が私たちをキリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにして下されば、ここに強い者、弱い者が混在しながらも心を一つにし、共に主が賛美でき天国の喜びと交わりが実現することになるのです。
(一九八九年四月二日)
主の道
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言三・四〜六)
神が条件的祝福を与えて下さるということで「そうすれば」という言葉にひきいられる御言葉が箴言にある。
そこには私たちの生活の中で従うべきまっすぐな主の道がある。私たちがこのことを「首に結び」つけ、「心の板に書きしるす」ならば、その最後は恵みの中にある。その条件を見てみよう。
第一に神と人との前に好意と聡明とを得る、という事。私たちは人間的な知恵をもって人の人気をかちとったりするわけだが、たとえ自分の身があやうくなってもひたすら全てをご存じの神の御手にすがり、人の目にではなく神の御目にかなう道を選ぶ必要がある。
これは人生航路、どこまで行っても有効な大原則である。
次は「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」である。
信仰とは計り得ぬところに期待し、特に主の御働きに期待するものである。自分の力にではなく、神の力の範囲(無限)の中ではばたける人は幸いと言わざるを得ない。
最後は「あなたの行く所どこにおいても、主はあなたの道をまっすぐにされる。」である。このお約束は恵みに満ちている。
この世界は神が支配する部分と人の支配している(ように見える)部分とがある。
私たちは主に救われた者として主の導かれる道を歩むことが一番大切でロスがないということを知っている。
人の道をとって遠回りして、失敗したなと思ったならば止まって考え、主を認める道を選ぶならばそこから後は目的までまっすぐだ。遅すぎないようにしなければならない。自分を見ず主を仰ぎたい。
(一九九五年四月二日)
神のご計画
イサクはエサウを愛していた。(創世記二五・二八)
アブラハムはさらに長生きし、自分の民のためにいろいろな配慮をしてから(六)平安な老年を迎え、長寿を全うして自分の民に加えられました。その子イサクも子供が生まれず、試みられたが祈ったところ主はこたえられて二人の子を生みます。ふたご、しかも男のふたごでした。
長男は赤くて毛ぶかくて、それでエサウと名づけられました。弟は長男と較べるとうんとおとなしくて、兄が野原をかけまわる元気な青年に育っていくのに対し、天幕にこもって母親の手助けをするといった性質の子でした。当然、父親の期待は長男にかけられたでしょう。「イサクはエサウを愛していた」と聖書は記しています。
神の計画はしかし少し違います。遠大で深い、私共には計りがたい面を持っています。
そして永遠の深慮です。母リベカに神は「兄が弟に仕える」(二三)と予告します。その証拠として弟は後から生まれたが、生まれた時エサウのかかとをつかんで出て来たのです。
母はこういうことに心と目をとめていましたから後にいろいろな配慮をしますが、イサクにはよく分かりません。人には外側しか見る目がないのでしょうか。
長男が家督をつぐのが当然、元気で野を飛び回る子がいかにもそれにふさわしく見えるのでしょう。しかし神はご主権をもって永遠の知恵で人を選びとられます。「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです・・・」(ロマ九・一一〜一二)。
エサウが長子の権利を軽蔑する人であることはすぐにはっきりしました。神のご計画は常に正しいのです。
(一九八一年四月五日)
彼は主を信じた
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記一五・六)
信ずるという言葉は内容が深い。聖書でも信仰の定義というのはほとんどなくて、ただ人物の行動としての信じ方がよく出ているので、私たちはそうした人々について学んで深く感銘するところがあるのである。
そのよい例はヘブル書の十一章であって、あの「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる・・・」というくだりが唯一の信仰の定義と言われ、その残りの章全体が信仰者列伝であるところにこの事情がよくあらわれている。
信仰とはただ単にある内容をそうであるかないかを認め、受け入れることだけではない。
聖書の中で語られている信仰は、そうしたいわしの頭も信心的なものではなく、神さまの人格に対する信頼が深くかかわっている。
冒頭の聖句に「彼(アブラハム)は主を信じた」とあるところにこれがよくあらわれていると思われる。この信じたという言葉はヘブル語の「アーメン」と同じ語根をもっている。アーメンとは真実の意味で、新約聖書で主が何か大切なことを言われる時「まことに、まことに汝らに言う」とあれば、あれはアーメン、アーメンをもってあなた方に語る・・という意味である。この場合アブラハムは、主の言葉を確実なものにしたのであった。つまりそれを語った主を信頼したのである。これが信仰というものの本当の意味ではなかろうか。信仰とは主への信頼である。しかもこの場合、動詞の形が特に信頼の継続性を示し
ているところを見ると、真の信仰は信じたり、信じなかったりするものではなく、信じ抜くものであることが分かる。
実際、信仰が主というお方とその言葉を信じることなら、これは当然のことと言える。
(一九八六年四月六日)
感謝する時は気をつけよ
主に感謝のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。(レビ二二・二九)
「主に感謝するのは、良いことです」(詩篇九二・一)と旧約の詩人も言うように、私たちの生活で最も証しとなる情景は感謝している姿です。
主は私たちに新しい歌をお与えになりました。神の御名をほめ、朝な夕なに恵みと真実を言い表わすのは、直き者の口にふさわしいのです。
贖われた者だけができることだからです。日本の演歌は逆境を受け入れる現状同調型であるとすれば、賛美は新しい次元を発見した喜びに飛び上がる思いで思わず口から出てくるものです。だから直き者の口にふさわしいのです。
パウロとシラスが牢獄で歌ったように、人生のあらゆる場面にあり得るもの、これが喜びと感謝つまり賛美なのです。苦しい逆境の時にも歌えます。
パウロの例でも分かるようにその気持ちは困難を打開する力を持つと同時に、他人をも神の前に整える力を持つもの。実に私たちが一番求めたいものの一つであります。全く主に感謝するのは良いことです。
でも注意しなければならないことがあります。主に感謝のいけにえを捧げるときは、自分自身が受け入れられるようにそれを捧げなければならないのです。
人間の常として霊的に言えば、私たちは喜びの中にいる時よりも、むしろ困難の中にいる時の方が安全という事もあります。
喜びで有頂天になって油断したり、品格をくずしたり、神さまに栄光を帰したりすることを忘れることもあります。
苦痛の中に居る時は、ひたすら神の御顔を仰ぎ望む。その時は辛くてそうするのに後で考えると神と共に歩いたその時は忘れ難い思いのする時です。
(一九九一年四月七日)
小さな声の威力
主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(ヘブル一二・五〜六)
第一列王一九章の記事は、伝道者としての自分の心を見つめる上で思い出深いものがある。
「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」(三)というところなど前章での彼の強さと較べてみれば、神に用いられる預言者としての強さと、用いられる生身の人間の弱さなど実感をもって思わされる。
神さまのいやしは肉体への思いやりに至り、彼はすっかりいやされて神の前に出る。
「主の前に立て」(十一)との命令で彼は山に登る。
こういう時、人は大げさなことを期待するものである。絶望の淵より起き上がり、神の強めを経験し、今や神の命令に聞こうというのである。勇み立つのも無理からぬことではないか。
しかし、神は山々を裂く大風の中にも居られず、地震の中にも居られなかった。火の中にも居られず、火のあとにかすかな細い声があってそこで語られたのである。
主の御声は注意深く聞くものなのか。
大げさに来る波よりも人はそよ風に身をまかせるものである。
ここ数週間、詩篇一一九篇は苦難の中に身をまかせ、その中から信仰と希望とをもって主を見上げる詩人の姿を歌いつづけている。毎聖日朝拝にこれを語りつつ、私たちの想いは苦難のドン底にあってなお罪を犯さず、神にグチをこぼさなかったヨブの信仰に行きあたったのである。
その時、八六節にサタンのささやきの影響力を見て驚くのであった。
クリスチャンは苦難に強い性質を持っている。がしかし、サタンが耳もとでささやく偽りごとのいざないに弱いのである。
(一九九三年四月一一日)
祝福がなければ・・・
あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。(ヨシュア記一・三)
もう一度この同じ聖句を瞑想している。
神の約束は何と輝かしいものであろうか。今日はたまたまこの原稿をペンで書いているのだが、時々はワープロを使う。ローマ字で慣れているのでそれで打ち込み、きりのよいところにきてボタンを押すとアッという間に漢字への変換ができて、コンピューターでも頭のいいやつだとほとんど前後関係から読み取って正しい漢字を選んでくる。
そのボタンの一押しと結果との関係、あたり前だと思うのだがいつもびっくり。
私たちはいつでも自分の生活の中でよかれと思いつつなかなかそうはならないことを経験する。ところが物事が裏目に裏目にと出てくることだっていくらでもあるのだ。そんな事を考えるとこの言葉の約束はどんなに恵み深いことか計り知れない。
神はどんな人にこの祝福を与えているのか。
「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。
そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたの
することで繁栄し、また栄えることができるからである。」(七、八)。
このあざやかな御業の原理はコンピューターのそれに似て単純明快。神はその御心を尊ぶ者を悦ばれるのである。
私たちはいやな事が起こったその時、神の祝福がなくては恵まれぬことを銘記すべきである。
(一九九二年四月一二日)
信仰生活の中の困難
先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。
(創世記二六・一)
アブラハムの時代にも、イサクの時代にも、つまりいかに約束の地であってもききんがあったことがわかります。信仰生活には信者が安易に期待するようにいつも幸福ばかりあるとはかぎりません。霊的にはとにかく物質的には試みられることもあります。そのような時には神が特にその人に臨んで下さる時でもあるのではないでしょうか。イサクに対して神は(二〜四)そうでした。
私たちには困難を安易に解決しようという誘惑が働きます。こんな時こそ本当に大切な訓練の時であるのにそれを回避するのです。神はどんなことがあってもエジプトへは下るな、とおっしゃいます。これは深い意味があるようで、全く肉に頼るようなことはするなということです。イサクはエジプトには下らなかったもののカナンの隣りゲラルのペリシテ人のところまで行くのです。
肉の思いに完全に打ちまかされたわけではないが、約束により頼む信仰から離れて解決と助けを得ようとしたことは確かです。その時、彼は父アブラハムがエジプトやゲラルで演じたと同じ失敗を繰り返すことになるのです。(六〜七、一二・一三、二〇・二)。
人は信仰生活の中で困難に出合う時、ひたすら神を見上げなければなりません。神こそは死んだ者をよみがえらす力のある方です。希望のない時に希望を与える方です。もし神を見上げなければ誰でも心に思いわずらいや恐れが生じ、人間的になり罪を犯すものです。
そこにみにくいうそが出ます。(七)
神は約束の血統が保たれる必要のあることを誰よりもよくご存じです。リベカを守り(一〇〜十一)、産物に恵みを給う(一二〜一三)のです。困難の時はひたすら主を見上げるのです。
(一九八一年四月一二日)
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