主の小道

第8回目



クリスチャンの自覚

そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
(エペソ五・一五〜一六)

機会を生かす。これはよい言葉だと思います。人生全てのことに「時」というものがあって、機が熟さない時には何をやっても非常に努力がいるか、または努力の甲斐がないものです。そのかわり流れがそのように向いていることもまたあるわけです。
この機会というものは何人にも公平に訪れてくるものではないでしょうか。しかし、見る人だけがそれを見、しかもその中の何人かがその機会をつかみます。昔からチャンスには前髪しかないと言われて、過ぎてしまった機会とは人が口悔しがらせる役目の他何もできないものです。
機会を生かせる人はある意気ごみをもち、その気になって機会をうかがっている人でなければならない。釣り人が浮きをつけていてもそれを見、しかも、その魚の引き具合に「合わせて」つりあげなければ失敗するように、機会が生かせるも生かせないも、こちら側の積極的な姿勢にまたねばならないのは言うまでもありません。
この世はほっておけばわれわれを愚か者にし、あらゆる機会を失なわしめ、知らずして地獄へとおとし入れるのです。賢い人は目をしっかりと見開いてクリスチャンとしての自覚をいつもとぎすまして歩むのです。こんな人には主のみこころが悟れます。見る人が見ると御言葉やそこに働く御聖霊そして我々の人生に走馬燈のようにめぐりくる機会の一つ一つが雄弁に神の御心を示し、悟らせてくれるわけです。
クリスチャンならクリスチャンとして歩くこと、そこに祝福が伴うわけです。
(一九八五年三月一〇日)

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一書の人、万巻の人

わが子よ。・・・多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道の書一二・一二〜一三)

イギリスの文豪のチャールス・デイケンズはリンカーンと同様に「彼の蔵書の少なさは、その生涯の富となった」と言われた人物だ。
彼が熱心に読んだ何冊かの書物の中の一つは聖書である。彼は自分の子供に、次のように書き送ったことがある。
「私はお前の書物の中に新約聖書をおく。これはかつて今までにあった本の中でも、またこれから書かれるであろう本の中でももっともよい本であり、またもっとも有名なものである。それは義務を誠実に行なおうとするすべての人を導くことができるもっともよい教訓をあなたに教えるからだ」と。
デイケンズにしろリンカーンにしろ持っている本の数はその人物の人生の価値を減らすことはなかったのだ。
今は本が氾濫している時代である。その割りには内容のあるものが読まれているというわけでなく、マンガやいかがわしい写真というものが多いのが実情である。沢山の本を読んだおかげで立派な人になれるわけではない。むしろ人間の心を手玉にとって、行き先の方向を狂わせることが多い。それが人間といってしまえばそれまでであるが。
その他にある有名なキリスト者で一書の人と呼ばれていた人物がいる。彼はしかし万巻の書を読む一書の人である。彼にとって聖書は数の上では一書ではなかったが、その中で第一の位置にあるものだったのである。
本の洪水の中にある私どもにとって、今日も聖書が最終の一書でありたいものだ。
(一九九一年三月一〇日)

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主が心配してくださる

あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(詩篇五五・二二)

ローマ書の八・二八のように、この聖句も大いに私たちクリスチャンを慰めるものです。
人間、明日のことは正直いって誰にも分かりません。だから明日のことなど考えずに、今日一日の苦労を今日して進みなさいということもよくわかります。が、なかなかそうもいきません。人間には明日、明後日、そして未来を考えて今日やらなければならないということがあります。ただ、つい取り越し苦労をするというところが人間の弱さでありましょう。
ただひとたびその人生の重荷を主にゆだねるということになると違ってまいりましょう。
人間の弱さはそのままに、明日のことは明日、みずから思いわずらわんという気持ちになれます。なにしろ全てをご存じの主が私たちのことを心配してくださるというのですから。
もちろんのこと、これは決して未信者に持てる安心感ではありません。世界はその創造主の正しい審判にかかっていることを確信している人の言葉です。「主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」というところが、その確信の基盤であります。信仰が日常生活の中で生きている部分です。
主は言われました。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
あなたがたは心を騒がしてはなりません・・・。
重荷を主にゆだねることは、このような神を信ずることです。重荷から逃げ出すことではありません。主を確信し、ぶつかっていく勇気を持てる心です。
(一九八四年三月一一日)

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誘惑に会う事、陥る事

四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。(ルカ四・二)

新しく主を信じ、受け入れ、クリスチャンとしての歩みをはじめられたばかりの人が、試練と誘惑に悩まれることがあると思う。
クリスチャンとして正直であればあるほど悩みの度合いは強い。パウロの例でもわかる通り、信仰が進む程に「ああ、我、悩めるかな」という声が内側より起って来るのだ。
自分でもこの間、ふと気づいた事であるが、「誘惑に会うことと、それに陥ることとは全く違う」ということである。
およそ人間である限り、罪を犯す誘惑にかられる事はあると思う。実際、どんなに誘惑してもそれに陥る可能性のない人などはいない。
イエスさまの場合、空腹になることもないお方であるならば誘惑も又、意味がなかったかもしれない。イエスさまは食べ物を口に入れず、空腹になられてパンの誘惑にあわれたのである。
私共弱い人間にとり、この場合盗んでも食べたい・・・と思う。
こう思うことはこの場合、罪を犯しているのではない。少なくとも死に至る罪ではないと思う。
悪魔は巧みだからこうした、人間にあたり前な誘惑をとりあげ、私たちの弱さをなじる。
しかし、それにだまされてはいけない。悪魔はなじる者、主は弁護する方である。「弱いなあ。ダメだなあ。神よ、こいつは弱い。弱いから立ち上がれませんよ。」と耳元でなじる。それに対し、主は慰め給う。
「疲れた人。重荷を負った人は私のところに来れば休ませてあげよう。罪を犯した人がいたら、ほら、私が全世界のために十字架にかかったのだよ」と言ってかがんて下さる。
不思議に罪に落ちないよう守られるのだ。(一九九五年三月一二日)

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神はわれらの避け所

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。(詩篇四六・一〜二)

すばらしいみ言葉である。この言葉自体を避け所として今まで何度、魂に平安を得たことであろう。伸びながら活動し、活動しながら模索する時代。精神的に戦いの多い時代に、私は体が弱く、ほとばしる鋭気を支えきれなかった。自分自身、求めながら迷っている魂は、多くの同様の魂を迷わしもし、なお苦悩したものだ。ただ忍耐して時の過ぎ行くのを待ったことがいく度か。その時、神は私の「避け所」であった。
親の両腕の中で自分の心をもてあましながら泣き止まない子どものように、この避け所もまたただ静かな場所ではない。それ自体がまた避け所を要するような戦いの場所でもあった。神がはたして私の避け所となってくださるのか。こんな罪深く、弱くいいかげんな者を神は顧みてくださるのか。考えれば考えるほど悩みは深くなる。
しかし、そこには確実なものが少なくともいつも二つはあった。一つは詩篇の記者の姿からヒントを得たものである。どんなに身もだえしても疑っても悩んでも今自分は自問自答しているのではなく、神の胸を打ちたたきながら神と語っているのだということ。苦しむ時「そこ」にある方である。これに気づいた時は本当に助けを感じ、力を得、恐れもとんだ。悩み自体が神との格闘であった。格闘すればするほど固く主にしがみついている。
今一つ、この腕の中で格闘に終止符を打つものがある。それは主の十字架だ。イエスが私の罪を負って下さった事を想う時、主が避け所なりと知るのである。
(一九八九年三月一二日)

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愛とは何か

愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。(第二ヨハネ六)

愛とは御父の命令に従って歩むこととは、さすが愛の使徒と呼ばれるヨハネにふさわしい言葉です。愛という言葉ほど多くの人の口にのぼり、人の胸をよぎったものはないでしょう。それが氾濫すればする程にむなしく、現実は愛からほど遠く、愛だと思っていたものが、限りなく他人を傷つけ、混乱を起こし、自らもまた傷つくのです。一体愛とは何でしょうか。
御父の命令に従って歩むことだとヨハネは言います。愛を知るには実践しかありません。
神を愛する者は、神のいましめを守ります。いましめを守る者はそれを通して神を知るのです。「神は愛なり」とヨハネも呼んだ神を知る時、そこに自ら徹底的に自分を殺して人を愛された神にぶつかるのです。その神が「自分を愛するように汝の敵を愛せよ」と命じられる時、その言葉は大変な重さをもって私たちにせまって来ます。神を愛する者にだけこの言葉がまぎれもない真実の課題となってせまってくるのです。
その命令(課題)は律法的な重荷となって私たちにのしかかってくるのではなく、愛する者がその愛を喜んで実行していくように、そのもののうちで自然なのです。愛のうちを歩むと何ら変わりはないのです。
たとえそこにどんな犠牲が横たわっていようとも、当然のことにようにその犠牲を負います。喜びのうちに愛とは何かをしみじみと悟るにいたるのであります。キリストも第一の戒めは何か、という質問に出会われた時、即座に神を愛せよと言われ、第二の戒めは、自分と同じように人を愛せよとつけ加えられました。真の愛を行うは神を知る近道でもあるのです。
(一九八三年三月一三日)

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新しい時代

そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ・・・。
(出エジプト記一・六)

夏草や兵共がゆめの跡、と言う。かつては絶大な力をふるった王の宮殿もがれきの山と化して静かに虫の声がわずか聞こえるのみということもある。今出エジプト記の冒頭に来て創世記の主人公たちは先祖の列に加えられ、時代も変わったとある。日は移り、時は変わるがしかし新しい時代がまたここにあるのである。特に神の約束の民の歴史は常に新しい息吹をもってそこにあるのである。「イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた」のであった。
出エジプト記の壮大な歴史はここから全く新しい状況の中に展開していく。ヨセフのことを知らない新しい王が出る。イスラエル人たちにとっては事情が変わったのだ。ひどい苦役で苦しめられることになる。これは時代が不幸に展開したのだろうか。いや違う。神は生きて居られる。神はイスラエル人をここにおくことを望まれないのだ。時が来たならば新しい地へと導かなければならない。そのことがこの地に定着するイスラエルの肉の望みには必ずしも合致しないかも知れないが、彼らの将来の光栄のために神は着々と働いていらっしゃる。その証拠の一つがこの迫害なのだ。摂理の聖手である。
私たちの歴史、神のその御自身の民を扱われる仕方は世代により時によりさまざまである。しかし、大きな一本の道を正確にたどっていることは確かである。だから私たちの信仰生活や教会建設は足もとを見つめると共に、次の新しい時代に確実に引き継がれていくように注意して進まねばならない。
だからこそ私たちの目は自分たちの子らをいつくしむのだ。
(一九八二年三月一四日)

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新しい最大の試練

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。(創世記二二・一)

この章に書かれてある試練は信仰の人アブラハムと呼ばれるこの人の生涯の中でもおそらく根本的にして最大の試練の一つでありましょう。
信仰の試練に根本的な性質を帯びないものはない筈ですが、私がそのような言葉を使うには意味があります。それは彼が神様より与えられた約束に真正面から反対する性質をもつ試みだったからです。そういえば彼の生涯の試みは皆そうでした。
彼は子孫が星の数ほどに、砂漠の砂の数ほどに与えられる約束を得ながら長く実子を与えられなかったのです。そして今ここに来ると、折角与えられ、しかも立派に成長し(ということはその年にして再び両親に新しい子が与えられる可能性はますますないということですが)た子を犠牲にして捧げよという神のご命令です。信仰の試練は神の意図を疑わせるような働きです。これは根本的にして最大の試練だったと言えます。
しかもここには「これらの出来事の後・・・」と書いてあることに注意を払うべきでしょう。アブラハムの生涯は信仰の試練の連続でしたが、その試練には終わりというものがなかったということです。もうこれでいいのだろう・・・と思った時、神は「これらの出来事の後、・・・アブラハムを試練に会わせられる」のです。
その理由はいくつもあります。神と人とは約束と信仰とで固く結びあわされるのです。
神は契約を更新され、私たちに新しい服従、信仰による応答を絶えず要求なさるということではないでしょうか。
そこで試練には終わりということがないばかりか、試練の連続の後には新しい最大の試練が続くのであります。これはしかし実子の証拠、神の恵みです。
(一九八一年三月一五日)

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信仰の業の完成

そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、・・・。
それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」(ルカ一七・一五〜一六、一九)

ここにはいやされた十人のらい病人の話がでてくる。サマリヤとガリラヤの境あたりの人々であった。イエスに出会った彼らは、ここにこそいやしの希望ありとばかりに声をはりあげ助けを乞うたのである。
イエスのいやしは非常に特徴があって、その場ですぐにではなく、「行って祭司に見せるように」と言われ、行く途中でいやされるというものであった。祭司に見せるとはいやされた者が確認を得るためのものであるので、十人が十人共にイエスのことばを信じて出かけていったかぎりにおいては、あの旧約の人物ナアマンにもない信仰を持っていたことになる(第二列王五・一一)。
しかしこの話(ルカ一七・一一〜一九)の全体は十人のうち九人までもが「いやされたことで満足する信仰」にすぎなかったことを語っている。信仰の祈りは病める者をいやす
のであり、人が信仰を持って神にせまり、神の業がいやしというかたちでその人になったものである。ナアマンの物語のクライマックスも実はここにあるといっていい。しかし、本当の信仰の業の完成は一歩先にあるのではないか。
その十人のうちの一人はいやしの事実に神をほめ、イエスの足もとにひれ伏して感謝をする。彼は外国人(サマリヤ)である。彼に主は「あなたの信仰があなたを直した」と言われた。他の九人も信仰でいやされたのではないのか。いや、それもいやしであろう。が、神の業としてのいやしは神の業として受けとめる信者の信仰と共にあるのだ。
(一九八六年三月一六日)

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四つの祝福

幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。
(詩篇一二八・一)

幸いなことよ。この出だしはマタイの福音書五章だとか、詩篇一篇だとかに出てくるものと同じで、ああ何と幸いなことよ・・・とか、幸いだなアとかいう感嘆の言葉である。
都上りの歌であるこの詩篇は彼らの霊的なふるさとにあこがれ、そこへ上っていく喜びに満ち溢れた信仰の告白である。
この第一節は第四節の「見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける・・」と対になって「主に従う者の幸い」について歌っている。
その恵みを失ってみて初めて分かる大きな幸いであり、それ自体祝福であると同時に他の全ての祝福の基となるものである。
次は第二節で、「自分の手の勤労の実を食べる者の幸い」である。働くことをいやがる者もいるが、日毎の糧を今日も与え給えと祈りつつ、今日も健康に留意しながら働いている人・・・。これも失った時にしみじみ分かる幸いであろう。
三番目は第三節前半にある。「家が治められている幸い」である。ホーム・スイート・ホームの歌は世界の歌であるが、それは世界中の人があこがれる家庭に満ちたりた祝福がそれこそ世界の人の幸福であることを表わしている。その中心に妻が居るのだ。私は結婚してからも神学校の帰りに毎回といっていいほど実家に寄った。母が亡くなってはじめて私にとってのホームとは母の存在のことだったと気づいた。
第四は三節後半の「子を持つ幸い」である。旧約聖書の幸福論の中心は神の祝福である。
神の祝福とは概念的なものではない。長生き、財産、よい家庭など具体的なものである。
元気な子どもたちに囲まれ、おいしい食物を口にするのは幸いに違いない。
(一九九一年三月一七日)

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