主の小道

第6回目



あとの者が先になり

こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。(創世記四八・二〇)

父ヤコブが病気と聞いてヨセフは自分の二人の息子マナセとエフライムを連れて見舞いにやって来る。この二人の息子はヨセフがまだ親兄弟に会う前にできた子たちである。ヤコブは彼らを祝福しようとする。エジプトの地で生まれたこれら二人の孫がヨセフにかわってヤコブの子たちと数えられるようになるのだ。ヨセフは子として二人分の財産をつぐことになる。特別の祝福と言っていい。 祝福するのに彼は重い病いの床でやっとのおもいで座りなおす。この時、老齢のため目がかすんで見ることができなかったと言う。ここで不思議なことが起こる。祝福はその人の頭に手を置いてする。右手と左手では右手が重要だ。ヨセフは当然長男がより多くの重要な祝福を与えられるものと信じて、長子マナセを自分の左側つまり父ヤコブの右手が自然にのる方に立たせ、逆の位置にエフライムをおくのだが、ところがヤコブは手を交差してエフライムに右手をマナセに左手をおいて祝福をしたのであった。 ヨセフは不満に思ってその手を変えさせようとしたが、父ヤコブはそれを拒んだ。彼は間違ったのではなく知ってそうしたのだった。祝福のことばは、「神があなたをエフライムやマナセのようになさるように」で、順序は逆であった。 ヤコブはエソウの弟でありながら神の摂理の中でアブラハムへの祝福の約束をうけつぐものとなった人だ。神はその者の一切を知って居られ、将来どのようになるかが全てお分かりになる。そして恵む者を自らの御意志で恵まれるのである。 この世の常識では計りがたい神の御旨が一切を支配していることをここに見るのだ。ただ御前に頭をたれるのみだ。
(一九八二年二月二一日)

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神のご主権

しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。(創世記一九・一六)

アブラハムにソドムの滅亡を告げると御使いはその町に急ぐ。アブラハムの願いが聞かれてその甥ロトに助かる道が開かれる。ここで面白いことは、ロトとその家族の救いにおいて神の力強い救いのみ手の働きとロトの救われるための信仰的資質の両方がよく見られることです。 御使いが町につくとロトはうやうやしく迎えます。町の者たちが御使いに乱暴を働こうとすると自分の家族を犠牲にしてまでそれを救おうとするのです。第二ペテ二・七、八にロトは義人ロトと記されています。彼には迷いもあり、妥協もあり、弱さもあったのですが、ともかくも結局は御使いの言葉を割引きなく受けとめて行動に移った所に義人の義人たるところがあると思えます。 しかし、迷う彼に対する神のご主権的働きを見逃すことはできません。これなくしては彼は滅ぼされないですんだであろうか。冒頭の聖句(一六)を見ていただきたい。ロトはためらった。もちろんそれだから妻もふたりの娘もためらったのです。家長のためらいは家族をためらいの中へと導くのです。しかし御使いは彼らの手をつかんで外にひきだされたのです。そして励ましの言葉をもう一度かけるのでした(一七)。この御使いの行為は、主のロトに対するあわれみによると聖書は言っている。 神はご主権によって人間の意志に働きかけ救いを全うされる。それは「あわれみ」によるというのです。アブラハムの執り成しの祈りも忘れてはなりません。
(一九八一年二月二二日)

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神の聖さの顕れる所

それでモーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」それゆえ、アロンは黙っていた。(レビ一〇・三)

ここに主に仕える者の家の悲劇的な事件が画かれている。モーセの兄アロンは神に任命された祭司である。その家系は世襲であった。だからアロンの子ナダブとアビフは、勿論祭司であった。それが識務の日に「主の前から出た火で焼き尽くされ、主の前に二人ながらにして死んだのである。子が二人、同時に主にとられたのである。何故にこの悲劇は起こったか。 一節によると彼らは自分の火皿の中に火を入れ、その上に香を盛って、主の命じなかった火つまり異火(ことび)を主の前にささげて神の怒りをかったのである。主に仕える者が、主のお言葉を軽んじて罰せられたのであった。このことを考えてみる必要がある。 主は第一に神に近づく者によって御自分の聖をあらわされるということだ。神の御前にある神の民は最も大きな祝福を受ける特権の民であるが、同時に大いなる責任を有する者でもある。彼らがいいかげんなことをすれば神が軽んじられたことになる。神がご自身の聖をあらわされるのはこの時だ。彼はその者をただちに罰される。 第二にすべての民の前で主がご自分の栄光を現わされるということ。神の前に仕える者の責任が大きいのは、彼が全ての民に見られているからである。彼は二倍の尊敬を受け、二倍の罰を受ける。地の塩であり、世の光である我らは自らの運命をもって主の聖をあらわし、主の栄光をあらわす存在である。願わくは、罰ではなく祝福でもってそれをあらわしたい。
(一九八七年二月二二日)

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信仰のバランス感覚

一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。(伝道者の書七・一八)

「救いの黎明」という説教のアウトライン集を書いたドイツのあるバプテストの神学校の校長先生がいる。その中に書かれていた一つの事が、私のそれからの考え方に大きなヒントを与えた。 それは信仰のバランスということである。聖書では極端なはなし、両極端の真理とでもいうことが数多く出てくる。 私が信仰を持ったころ、一番疑問に思ったことは救いそのものがどのようにして自分のものとなったかということであった。先輩は、「天国の入口には外側から見れば『信じるものは誰でも救われる』と書いてあるが、入ってから後ろを見るとそこには『あなたは救いに選ばれていた』とある」と教えてくれた。 バランスと言えば聞こえがいいが、これでは矛盾するものを二つ同時に受け入れよというようなものである。 しかし、確かに聖書の言葉にはこういうところがあって、同じことでも極端に右を指さす時と、左を指さす時とがある。信仰生活はこの緊張感の中にあって自分の行き方をバランス感覚でもって決定するわけだ。これが信仰というものではないかと気づかされたのであった。 「神を恐れるものは、この両方を会得している」とは大した言葉である。これは信仰が偉大なバランス感覚の中に働くということではないだろうか。 そう思って冒頭の聖句の少し前のところを見ても、少しも驚かない自分に思わず苦笑いしてしまう。 「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか」(一六)。
(一九九二年二月二三日)

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直面をさける

しかし、彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣り人とは、だれのことですか。」(ルカ一〇・二九)

質問にもいろいろあって、よい質問で相手の心を開いて不明を明らかにするものもあれば、相手をはぐらかすつもりのものもある。この場合はそれだ。 この男はイエスをためすために永遠の生命を自分のものにする道を聞いている(二五)。 イエスさまは律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるかと聞かれた。この場合の質問はその知識について聞くと同時にどう理解するか、どう心にその知識を受けとめているかとの問いである。こんな大事な内容については知識だけでなく、従うつもりを含めた人格的応答が必要なことを教えておられるのであろう。 それに対して彼の答えは完ぺきである(二七)。イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすればいのちを得ます・・・。」知識のサックみたいな人物の代表である。正しいことを知っていながら実行だけがないわけである。実は何も知らないのかも・・・。 実行がないことがその証拠となるであろう。それを弁護するつもりで彼は言った。では私の隣り人とは、だれのことですかと。どこまで教えられれば気がすむのか。彼は直面することをさけていたのである。 この質問のおかげで私たちはあの有名な「よきサマリヤ人」の話を聖書の中に持っているので彼が何も生み出さない質問をしたとも言えないが、彼はこういう質問の明け暮れで実に実りのない毎日をおくっていたことが想像される。 どんな真理も自分でそれを実行し、そのあとに従っていくつもりもないようなモノであれば何も意味がない。聖書の真理もまたそうである。
(一九九〇年二月二五日)

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私たちは神の作品

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。(エペソ二・一〇)

町のある有名なヴァイオリンひきが小さな教会で演奏した。途中でふとやめたヴァイオ リニストは、急に楽器を片手で持ち上げるとそれで床をたたいた。今迄名曲に耳を傾けていた会衆はあまりのことに驚いてしまった。ヴァイオリニストは言った。「皆さん。皆さんは私が今までわが愛器、ストラディヴァリウスを使っていたと思われたでしょう。しかし、違うのです。今床にころがっているのは町の古道具屋さんで二足三文で買って来たただの安物の楽器なんです・・・。」 「どんな楽器でも弾く人が弾けばよい音色で音楽を奏でるのです。 私たちは名工イエスの手の中にあって神の音楽を奏でるのです。その音楽はこの世のものではありません。それを主の手の中にある私たちという楽器が自在に奏でるのです。よい行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」と書いてあります。 その作品(この場合は楽器)がどうのというのではありません。誰の手ににぎられているかです。 私たちは自分の罪過と罪との中に死んでいた者です。死んでるとは何でしょう。例えば生きてるとは川の上流に流れに抗して登っていく小魚です。どんなに大きくて立派でも材木は死んだものであってただひたすらに下流におし出されていくだけなのです。 「しかし、あわれみ豊かな神は私たちを愛して下さったその大きな愛の故に、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストと共に生かし」て下さるのです。 「神のしかし」は偉大な業の起って来るきっかけとなります。神の作品がそこに生まれます。
(一九九五年二月二六日)

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世の終りの日

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあらわれるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。(第二ペテロ三・九〜一〇)

聖書は神が天地の創造者、そしてこの世に終末を来たらせるお方であることをはっきりと示しています。神は始めであり、終りであられるということ、これは非常に重大な意味を私たちの生活に対して持っているのです。 私たちや全宇宙が偶然に出来たのではなく、全知全能の神が御知恵をもって明確な目的をもって創造されたのなら、その御意志に従って生活する事が人の道です。そう考えると聖書が新しい意味をもって迫って来ます。その神がいつこの世の終りをもたらし給うか、その時、私たちはどうあるべきか、このことは私たちの毎日の生活に重大な重みをもってきます。 キリストの来臨の約束はどこにいったのか。創造以来、何の変わったこともないではないか・・・、といってはばからない者の生活はしまりがなく、欲望が生活を支配し神をあざける思いがその基調となります。実はそんな人は神も、その天地創造も信じていないのです。 聖書は警告します。主の日は盗人のようにやって来る。ノアの時代に水が一時世を滅ぼしたようにこの世を火で焼きつくされる時が突然くると。その日に備えて人は「どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう」(三・一一)。 神を創造者、世の終りをもたらす権威あるお方と認める時、人生の根本的な部分に励みが与えられるノデス。(三・一四)
(一九八三年二月二七日)

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さらに考えてみると

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 (ローマ八・二八)

私たちがなれ親しんでいるこの聖句で聖書の重要な教理、「摂理」について語りかける力強い言葉である。 文語訳では「全ての事相働きて益となるをわれは知る」というもので、「守られるさ」という主にある楽観的な姿勢を支持する大変口にされた言葉の一つである。私も人生の局面ではずい分助けられたことだった。 文語体の訳の原本に従えば、「すべてのことが働いて益となることを・・・」である。 が、今の訳では「神が働かせて益として下さる」である。これは大変意味深い。 全てのことはほっといてそうなってしまうのではない。私たちにとってどんなに辛いことでも神さまが知っておられてそれがそのようになる事を許されるのである。 信徒が辛い目に会うことを神さまは喜ばれるという意味ではないが、神は全てを知り給うた上でそういう目にあわせられるのだ。 友人の牧師先生が最近試練にあわれた。奥さまがガンとお診断されて手術を受けられた。 とってみたら幸い良性の腫ようで、一転して安心に変わられたのだが、大変なご経験だったこととお察しする。 どんなに苦しい体験も主が許してそうされたとすれば、必ず益として下さるに違いない。 神の御計画を喜んで受けとめるしかないし、又受けとめられるのだということを学んだと言われた言葉には重みがある。 神が居られるので確かに全ての事は相働いて益となっては行くものだ。しかし更に一歩信仰を進めて考えなくてはならない。 全ての経験の背後には主が居られる。これは慰めである。
(一九九三年二月二八日)

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主にあって共に居る幸い

・・・私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。(創世記四九・二九)

ヤコブは最後の願いを言い終ると息絶えて、「自分の民に加えられた」。このカナンにあるマクペラの畑地にあるほら穴はアブラハムが畑地といっしょに買って私有の墓地としたところである。そこにはアブラハムとその妻サラ、子供のイサクと妻リベカ、そうしてヤコブは先立った妻レアを葬ったそこに葬られることが何故ヤコブの最後の願いであったのか。 まず第一に、この墓こそは小さいとはいえ約束の地に与えられた誰のものでもない、彼らアブラハムの子孫の私有の地である。信仰の拠点、原点といっていい。アブラハムへの神の約束に生きる証しであったと思う。私たちの信仰にも時々こういったもの、つまりそれを見ると信仰が新たにされるような何かがあることがある。 父は父祖と共に休らぐということである。彼は死んで「自分の民に加えられた」のであった。彼の宿とはいえ、この地上に与えられた墓地、そこに故なくして与えられた筈はない、自分の父祖たちと共に眠る・・・これは大きな慰めであり、喜びであったように見うけられる。私たちの信仰の友のことを考えると、時々西行のあの歌を思い起こす。「今宵こそ思い知られる浅からぬ君にちぎりのある身なりけり」西行は別に私の気持に何の関わりもないことを歌っている。が、しかし、ふと思うとこの一つ教会で共に礼拝する者たちを神は与えて下さったんだなアと感じて、その恩ちょうに深い思いをはせることがある。 この主にある同労者たちを心から愛せよと主は命じて居られるのに・・・と。 ヤコブの父祖と共に眠る喜びと慰めを私たちは今も理解できるのではないか。「汝ら互いに相愛せよ」と使徒は言った。
(一九八二年二月二八日 )

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