主の小道

第5回目



一切は主の御手の中

ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で私に奇しい恵みを施されました。 (詩篇三一・二一)

兄弟よ。私たちは四方から攻められ、せんかた尽きることがあります。しかし、希望があります。上だけはあいています。 そうです。この世の敵は横からは攻めてきます。「四方八方みな恐怖だ」と多くの人が叫んでも、ふと見上げれば、私たちの神は叫び求めている願いを上から聞いていて下さる。 私たちの祈りは時々天井までも届かない。本当の苦しみと絶望が信仰による希望をもって祈られていないからである。私たちを神さまからさえぎる天井は不信仰者には厳とした存在ではあるが、信仰者には見えないのです。 包囲された町はそのままほっておけば滅びます。時がたてば自滅します。人は供給なしには決して生きていくことはできません。だから敵は包囲するのです。 だから「奇しい」というのでしょうか。主は包囲の中に居る者に恵みを施すことのできるお方なのです。 私たちは時に忘れます。一切は主の御手の中にあるということを。そのパウロ大先輩のことばを。 私たちは、四方八方から苦しめられますが窮することはありません。途方にくれていますが行きづまることはありません。 神の試練とは私たちを訓練するために神が備えたものなので耐えることができるのです。 こうあります。「耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」 試練と共に備えられる脱出の道。ならば、試練も又神の手の中にあるのです。 神を主よと呼ぶ者にはこの真理の知識があります。一切は神の手の中に。雄々しくあれ。 心を強くせよ。(詩篇三一篇)
(一九九一年二月一〇日)

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完成を目指して

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ一・六)

キリストを信ずる信仰を持つ人々を見るたびに感謝にあふれ、ますますその人たちのために祈りたくなり、しかも喜んで祈りたくなるとパウロはいっています(一・三、四)。 どうしてかというと神のために共に重荷を負って同労者として歩んでみればよく分かることですが、クリスチャンというのは、実に正しい目標に向って確実に歩きだした者であって、困難があっても地を固くふみしめて歩みつづければ間違いなくその目標につく、達成感にあふれた存在だからです。 つまらない私たちの中にキリストが生きて働き、私たちがスタートを切ったというよりは、キリストが私たちのうちにその働きを開始されたのです。ある人の歩きを見ていて楽しくなり、神に感謝したくなり、助けたくなり、喜んで祈りたくなる。そういう人になりたいものですね。どうしてこんな気持になれるかというとその人が日々、向上しているからであります。見るたびに完成に近づき、その人の生活に完成の姿がつまりキリストの姿が明らかに見えてきたら何と楽しいでしょう。 この聖句が私たち多くのクリスチャンたちの慰めになってきた理由に、キリストのためにかかげた理想や目標は必ず達成されるという確信が与えられるからです。少年よ。キリストにあって大志を抱けと言った有名なクラーク博士の言葉ではありませんが、もしそれが本当に正しい目標であるならば、野望と思えるものであっても、宇宙大の希望であっても抱いた方がいいというのです。必ず達成せられるからです。それが信仰であり、ビジョンです。幻なき民は滅びるとはよくいったものです。
(一九八三年二月一三日)

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見える所によらず・・・

イスラエルに死ぬべき日が近づいたとき、その子ヨセフを呼び寄せて言った。「・・・ 私に愛と真実を尽くしてくれ。・・・私が先祖たちとともに眠りについたなら、私をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってくれ。」(創世記四七・二九〜三〇)

イスラエルの民族は不思議な神の摂理の中にあってエジプトに移り住み、その恵まれた土地と環境(あくまで物理的にであるが)の中にあって保護されながら増えひろがっていく。二七節にこうある。「イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常にふえた」。 これはアブラハムへの最初の約束(一二・一〜三)と見まがうほどの祝福とはいえないだろうか。しかし、ヤコブの心はそこにないことが冒頭の聖句を見るとわかる。何故かと言えば、たしかに人数は星の数ほどになり、所有地を得、安定した生活ができるようになっているが、これが「わたしの示す地」(一二・一)であると思ってはいないからだ。ここは自分たちの信仰の自由の地でなく支配者の保護のもとにある場所である。やがてまもなく彼らは奴隷の状態にこの地でおとされてしまうのだ。ここは約束の地ではない。やはりエジプトだ。 人間はしばしばこのヤコブのようではない。シュバイツェルは「私たちは十四才の時の夢を持ち続けられれば幸せだ」と言っているが事実その通りで、希望と夢と最初の志はどんどんせばまっていく。ヤコブはアブラハム、イサクたち父祖の抱きつづけた確信、神の約束に立って生涯を築いた人だった。エジプトの地に土地を与えられ、人数がふえても満足しなかった。 おそらく彼のここでの願いは彼自身の心からのものであったであろうが、それと同時に子孫への指導ともなったに違いない。
(一九八二年二月一四日)

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忙しい時の過ごし方

夢が多くなると、むなしいことばも多くなる。ただ、神を恐れよ。 (伝道者の書五・七)

忙しさということは魂の状態にどういう影響があるか。 先日いま流行のカゼをひいた。聞いてはいたけれど、経験してみてひどいものだと分かった。重い人も軽い人もいたけれども、教育館建築のため気がぬけなかったせいか、疲れがたまり私共夫婦は症状がひどくなかなか治りにくかった。 つくづく思った事だが病気をすると損だということ。たまにはのんびり寝てみたいなどと思っていたのだが、食事の用意も出来ず、食べる物があっても食欲がなく、じっと寝てても熱が下がらず、節々が痛い。忙しく立ち働らけて元気な時がいい。 「仕事が多いと夢を見る。夢が多くなるとむなしいことばも多くなる」(五:三、七)とある。忙しい時がたんに仕事が多いだけだと、軽々しく心あせって言葉を出し、駄目な言葉、破壊的な言葉が猛威をふるう。 あのルカ伝のマリヤとマルタの例のマルタの様だ。 ただ神を恐れねばならない。 神の前では軽々しくあせってことばを出してはいけない。神は天におられ、私たちは地にいるからである。だから言葉を少なくせよ。ただ、神を恐れよ、である。 忙しい時と体力の消耗の激しい時は私たちの魂がなお一層神に出会わなくてはならない。 神さまの御心を探り、じっときき耳をたてないと、私たちは空しい言葉を積み上げるだけになってしまう。 宗教改革者の一人はこう言った。私は数時間づつ日に祈らなければならぬ程に忙しい、と。普通なら忙しくて祈れないと言うところだろう。 魂のニードをよく知った人の言葉である。
(一九九三年二月一四日)

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神の共同責任者

主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。(創世記一八・一七)

ここに来るとアブラハムはその天幕に主を迎えることになる。三人の人とは三位一体の神のことだというアウグスチヌスの見解もある。もしそうでなくても少なくとも神よりの直接の使いであったことは内容から充分読み取れる。アブラハムがひれ伏して迎え、いそいそともてなすさまを見ていただきたい。このようにいつ神を知らず知らずのうちにお迎えすることになるか分からないので、旅人をもてなすのはユダヤ人にとって大切な義務となっていったというこは想像にかたくない。 この三人はアブラハムにとって重要なことを伝える。いよいよ神の御業が成るのである。 来年の今頃赤ちゃんができるというのだ。アブラハムが神からそのことを聞いた時と同じように(一七・一七)、妻のサラも心の中で笑うのだった。不信仰にも人間の年齢の限界の中で神を考えてしまったのである。この御使いが言うように「主に不可能なことがあろうか」である。信仰でものを考える時、神の言葉と約束はその人に受けとめられ、その人の生涯に神の業が顕れるのである。 これからしようとしている、あの悪業の町ソドムとゴモラの滅亡について神はアブラハムにその一切を明かそうとされる。冒頭の言葉はすばらしい。一七節から一九節には神の幸いなみ心があらわされている。神はご自分の御業のために選ばれた人物に、その心のうちを明らかにされようとするのだ。そしてそのお仕事の共同責任者とされる。 神はご主権をもって一切をとり行なわれるが、不思議な事に悪を行う者はその悪の故に滅び、神のために働く者の力を必要とされて事を行なわれる。
(一九八一年二月一五日)

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試みのイエスに学ぶ

誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。(ルカ四・一三)

イエスはこの箇所において悪魔の試みに会っておられる。神の御子だから負ける筈はないというのは見当違いであろう。試みに負ける可能性のないところに「誘惑」は存在しないからである。たらふく食べている人にはどんなごちそうも誘惑ではあり得ず、空腹の人には芋のシッポでさえ罪を犯させる力があるからだ。ここにいくつかのレッスンがある。 まず、聖霊に満ちたイエスはヨルダンから帰られ、悪魔の試みに会われたとある。悪魔の試みに立ち向かうには、肉の力ではなく聖霊の力づけが必要であることを示す。 御霊に導かれて荒野にいたとも書いてある(一)。イエスを強めた御霊が試みの荒野にも導いたとは興味がある。真に強められたものは神の御栄光のために試みの中で主を賛美すべきつとめを持っているのかもしれないと思わせられる。 四〇日間、試みに会い、その間何も食せず、「その時が終わると」空腹を覚えられたとある。その四〇日間は一体何だったのだろうか。勝ったり負けたりのやりとりだったかも知れない。そういう時期を越えた所に真の空腹があり、そこで肉が完全に負け、霊が勝利したのであろうか。主がここでサタンに一歩もゆずらなかった姿はすばらしい。真に負けを知った霊は強い。空腹の中で真の神を知った放蕩息子の霊は暗示に富んでいる。 最後に「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた・・・」とある。この聖句は、主が「しばらくの後」には又サタンの誘惑に会われたことを意味しよう。「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた」(創二二・一)とあるが、試練のあとにまた試練があるわけだ。
(一九八七年二月一五日)

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神が備えたその助け手

「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結びあい、ふたりは一体となるのである。」 (創世記二・二四)

一+一=一ふたりは一体なのですと、結婚式にこの聖句とおかしな数式を示され、牧師から宣言されて、一人前として扱われる緊張感を味わわなかった人は居ないであろう。 新しく一つとされた夫婦の関係について、その原点であるアダムとエバにおいていくつか考えさせられることがある。 最初、神はアダムを取り、エデンの園に置き、そこを耕させ守らせた。そこで大切なことは神様との間に実体のある関係が示されているということだ。労働の役目とその報酬、そして何よりも神のみ前に立つという自覚である。これが男の責任というものか。(一五〜一七) この責任の前に男には助け手が必要であった。イエスさまが大切な宣教のわざに二人づつお遣わしになったように、この責任の前には語り合うもう一人のそばにいる人の存在が、神さま以外に必要であったのである。それがエバという女性だ。 落語家は師匠や先輩から「言う」と「話す」の違いを、手を替え品を替え、ひたすら教わるという。「言う」ことは相手がなくても出来るが、「話す」には相手が要るのだ。 神さまの与えたこの助け手の役割は、向き合う人、向き合って話しあう人としてのつとめである。「話し上手は聞き上手」と言うから、きっと最初の人は神様の天地創造の物語に聞き入ったように、お互いの話にもよく耳を傾け、会話を楽しんだに違いない。 同じ主にあるものたちは「天にいますわれらの父よ」と祈れるのである。これ以上の交わりはあるまい。エバを見てアダムが喜んだのも無理はない。二人の間に罪が入った時、この関係が損なわれるのである。
(一九九二年二月一六日)

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信徒の心に活きた御言葉

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ペテロ五・七)

ペテロは各地に迫害のために散っている者たちをなぐさめ、励ますためにこの手紙を書いていまして、冒頭の聖句はその中の一節、神の平安が一杯の言葉です。 彼はその他の長老たちにむかい、自分もキリストから任務を依頼された一人の長老として語っているのです。キリストの十字架の死をまともに眺めた主の死と復活の証人として、又やがてあらわれる栄光にあずかるもの、つまり自分も主と同じく十字架にあげられる運命にあるものとして切に語るのです。 このギリギリの線で「死にゆく者が死にゆく者へ」語られる御言葉の教えとし真剣に、伝達される。その一節がこれであります。 ここに注目すべきことがあります。使徒ペテロがいっていることは、旧約聖書詩篇五五篇二二節にある聖句とほとんど同じであるということです。 あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。(五五・二二)。 思い煩いは重荷であり、それらの一切を主イエス・キリストに打ちあけて負っていただけ、ということです。 おそらく彼は聖書に親しみ、その生活の中にこの旧約の言葉が活きていたのだと思います。前後関係は別としてこの一節が活きて躍動して居るのが分かります。 自分もなぐさめの言葉を発するのだけれど、一番のはげましは御言葉だという姿勢がここによくあらわれているではありませんか。 私共も、会話の中に聖句が自然に入って来るような聖書読みになりたいと思いませんか。
(一九九五年二月一九日)

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「試練」の人生への意味

あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第一コリント一〇・一三)
私は今年三月で五九才になりますから一四才でクリスチャンになったとすればクリスチャン生活は早くも四五年になろうとしています。 これ位になりますと誰もが愛唱賛美歌と愛読する聖句の一つや二つあるものです。思い起こすことで出番の多いモノで第一はこの第一コリント一〇・一三です。 それだけ人間の一生には試練と呼ばれるものが多いということになります。 試練に会った時はこの句を感で味わいます。三つの部分に分けられると思います。 あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。試練に会っている時それが大きく見えて何と自分は不幸なんだろうと思う傾向があります。試練は人並と考える所に一つの救いがあります。 神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練にあわせるようなことはなさいません。神は真実な方という部分は大切です。タレントの逸見さんがガンで亡くなった時、仲の良い友人がそれをいたんで「神はただ一度のわがままをなさった」と言ったそうです。神は徒らに試練は下さいません。神は真実な方なのです。 脱出の道も備えて下さるのです。耐えられるように逃れ道も共に与えられるのです。 何故か。試練が私たちを謙遜にし、強くし、罪に対して用心深くして下さる、辛いけどよいものだからなのです。ただいじめるためのものではありません。
(一九九四年二月二〇日)

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まず生まれかわること

ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。 (第一ペテロ二・一〜二)

ペテロはこの手紙の冒頭で、信仰の結果であるたましいの救いを得て、栄えに満ちた喜びにおどっている人々にこれを書いている、と言っています(一・八、九)。だからこの手紙はクリスチャンあてであることが分かります。それでようやく、この二・一〜二の聖書の言葉の意味が理解できるようになるわけです。 人は悪意やごまかし、偽善やねたみ、悪口を捨てて、乳飲み子のように無心にみことばの乳を慕い求むべきですが、これはたましいの救いを得ている者の特権です。人間の力でそれをやろうとしても無理であります。 救われるということはそれで完成された者になるということではなく、神にあって新しく生まれ(ヨハネ三章)、新しい創造物となる(第二コリント五・一七)ということなのです。乳飲み子がどんなにたよりなくても一個の人間として全てをそなえている如く、それが完全なスタートです。そこが真の初まりなのです。それが魂の救いなのです。 それでこそ初めて御言葉に動かされ、悪意、ごまかし、偽善、ねたみ、悪口が捨てられるのです。神を信じる新創造物である生まれたばかりのクリスチャンはそのような悪へきと戦うため、ただひたすら聖書の糧を自ら欲するのです。その他のものに興味が持てなくなるのです。 失敗を重ねながら人はそのようにして成長し、名実共に救いを得るようになるのです。 この個所を魂の救いがなくても聖書を読んでそれに従えば救われるととる人がいますが、生まれかわらぬ人には実は無理なのです。 (一九八三年二月二〇日)

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