主の小道

第4回目



許せる心の条件
今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。(創世記四五・五)

ヨセフの兄弟たちが食糧を買いつけることができる条件として連れて来た末息子のベニヤミンが今失われようとしています。兄たちが必死になって、自分を犠牲にしてその子を助けようとし、父親のことを思って嘆願する姿を見て、ついにヨセフはこらえ切れなくなってしまいました。そして自分はあなた方にエジプトへ奴隷に売られたヨセフですと告白しました。兄たちの驚きはどんなだったでしょう。 しかし、ヨセフがその次に言った言葉こそが実に驚きであったと思います。みにくいことに父に愛されたヨセフをねたんで彼を売り払い、子を失って嘆き悲しむ父親をだました自分たちがどんなに恥ずかしかったことでしょう。しかしヨセフはそれを許してくれているのです。ただそれだけでない。そこには神の大きな御心が働いていたとヨセフが言うのです。 ヨセフが兄達を許せた理由は、ただ彼が寛大であったからだけではありません。彼は全ての背後に働く神の計画を見抜いていたからであります。ロマ書八章二八節にありますように神は全てのことを働かせて益としなさる摂理の神であると信ずるヨセフにとっては、兄弟たちの自分に対する憎しみも、神がすべて善い方へと導いて下さろうとする道具の一つとしか考えられないのです。こういう見方で見れば許すも許さないもない。神が起こることを許して居られることは直接的に、あるいは間接的に神の民のためには結局はよいことだと知る事ができるわけです。クリスチャンの心の広さはこんなところから来るのでしょう。
(一九八二年一月三一日)

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家は知恵によって

家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。(箴言二四・三〜四)

家が建てられるのを見るのは一つの不思議である。今は設計図というものがあって、建つ前から素人にも完成の姿が見えるものだが、私の小さい頃、大工さんは間取りを画いた図面を見るだけで一本一本材料を用意していき、建て前の日に皆で一挙に建て上げたもので、感心したものだった。大工さんの頭の中には最初から完成図があったのである。何事をなすにもきちんとした目標が必要で、それが主にある知恵というものであろう。 しかし、その家が真に堅く建つのには、英知がいる。複雑な家、面白い家が建てられても、それが本当に目的にかなった機能性を持ち、全てがムダなく用いられるためには、英知がいる。英知とはこの際、その家の魂をこめる知恵のことであるか。人生の設計の上に、最終目標がしっかりととらえられていることである。神をおそれる心が、全ての知識の根幹にならなくてはならない。 さて、そうして建てられた、また完成を目指している家には部屋がある。部屋にいろいろな用途があるように、この人生という部屋にもいろいろな方面別の作りというようなものがあるのだ。尊い、好ましい宝物で満たされた部屋とはどんな部屋だろう。どういうふうに好ましいのであろう。 あるチベットの高僧の無限の知識はどういう風に頭脳に入っているのかとの問に、彼は頭の中の「引き出し」という言葉を使っていた。彼はある事を考える時にまずその方面の知識のつまった引き出しを考え、その中からとり出す・・・とか。 神にある人生はこうしてあらゆる方面で豊かさを増すのだ。
(一九九〇年二月四日)

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この聖句から始めて

聖書全体の中で、御自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 (ルカ二四・二七)

神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい(ヘブル一三・七)。前にも話したかも知れないが私の義理の父吉野千代治は、五〇才を過ぎてから救われ、幕張教会の執事をへて牧師となり、同時に神学校で二年学んで白根夫人とは同期である。八十六才で亡くなった時はかなりの蔵書を残した。その一冊を手にとるとアーサー・レイノルズ「説教の準備」というもの。真赤に傍線が引いてあって説教における苦心のあとが察しられる。 説教を準備するには習わねばならない点も多々あるが、学習したり、時間をかけたりすれば出来るものではない。しかし時々迷路に迷い込んでしまう。そうしては六〇才の牧師が初心に返るのである。 私たちが聖書を説き明かす究極的な目的はキリストを示すことであります。聖書にはキリストはアルパでありオメガ、始めであり終わりです、序論であり結論である、彼は実に説教全体であると教えている。 彼はこの世の救い主なのである。 いつの間にかそこへ行く道すじを教え、そこに行ったらどうふるまうかを教えながら、私たちの主イエス・キリストを教えたくなる。 信条にあったではないか。主の大命令はS弟子となし、Tバプテスマをほどこし、Uキリストに教えられた事共をよく教えよ、というものである。 御自分について書いてある事を「この聖句から始めて」彼らに宣べ伝えたという。いつの間にかの「本末転倒」である。 (一九九六年二月四日)

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かくれんぼではない

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠 れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなた の父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ六・六)

これはイエスが祈りの仕方を教えたところの一説である。自分の奥まった部屋に入ること、そして戸をしめて、父にお祈りをする。そうしたら父は隠れた所で見ておられるから、その祈りを聞き、報いてくださるというわけだ。 この奥まった部屋とはなんだろう。場所のことではないかも知れない。第一、考えてみれば私の住まいは、自分が奥にいるのでそれ以上の奥はない。奥というのは、普通よその人がふみこむことは出来ない所のことをいう。だから心の奥のひそかなる場所ということであろう。 作家の下重さんは、「自分と向き合うところから、個性が生まれる」といって、自分の外側の姿ではなくて、内側の自分自身に目を向けることの大切さを指摘している。 自分の奥まった部屋とはどこだろうか。その所でしか対話できない天の父とお交わりすることの出来る場所はどこでもあなたの奥まった部屋である。 ある人の奥まった部屋とは、混み合った通勤電車の座席かもしれず、ある人の場所は家族を送り出したあとの台所の調理台の前かもしれない。 「台所にも主は居られる」。心静まって来て主をあおげばそこがあなたの密室である。 そこで父なる神と対面するのだ。 場所の問題ではない。あなたの奥まった部屋を見出し、戸を閉めることを学ぶのである。 そうしたら、私たちとの交わりを御自身で心より切望しておられる主と会えるのだ。そこであなたは変るだろう。
(一九九五年二月五日)

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教会のつなぎ−祈り

私たちの生活を特徴ある方面からわけると教会・家庭・社会となるでしょう。その中で一番大切な、基本的なものは教会生活です。他の生活も決して劣るものではありませんが、霊的な存在であるクリスチャンにとって教会生活においてしっかりと責任を果たし、兄弟を愛し、愛され、成長して行くのでなければ、家庭生活も社会生活も健全で霊的なものとなっていくことはありません。 だからといってクリスチャンとなりバプテスマを受けて教会に加えられたとしてもすぐさま教会を愛し、親しみ、その中での自分の居場所を見出せるとはかぎりません。大変な個人差があります。ホーム・チャーチつまり母教会という言葉がありますが、チャーチ・ホーム(教会という家庭)もまたあっていいと思います。それにはやはり愛し合い親しみあう人にめぐりあうこと、それに努める必要があります。その最善の方法は自分から心を開いていくことですし、奉仕活動に積極的に加わっていかなくてはなりません。 それまで気づかなかったことですが、私が母を失なって最も大きな変化は自分の帰れるホームを失なってしまったということでした。おふくろこそ私にとって家庭そのものだったのです。教会は言葉でいえば信徒の群れと定義できますが、定義してみてもどうにもなりません。そこに愛する人たちが居て、愛されている実感がなければなりません。そのためには、お互いが祈り合うことが何と大きな役に立つことでしょう。 名をあげて祈ること、その人に実際的な問題を上げて祈っていること、聖書の間にもその名をはさみ、デボーションの時に憶えて祈る。これはすばらしいことです。それが聞かれ、答えられた時、肉の兄弟の場合のように心から喜べます。実に教会のつなぎは祈り、祈られることですね。
(一九八四年二月五日)

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知恵をどこに求めるか

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。 (ヤコブ一・五)

先日あるアメリカの雑誌の表紙に頭がパソコンで有る一人の男の絵が出ました。この雑誌は毎年、年の暮れに「今年の人」という題でその年最も活躍した人物を出すとのこと、人間以外の者が使われたのは創刊以来初めてとのことです。 それほどコンピューターが一般家庭に普及したということです。私の知り合いのクリスチャンが考えた末、パソコンを入れ、操作の練習をしながらあまりの不思議さに思わず、神は偉大なり・・・という文字を打ち込んだ位だと話していました。 しかし考えて見ればコンピューターがいかにどえらい仕事をしても所詮は人間の与えたプログラム通りにしか答えをくれないわけです。人格のないミスター・コンピューターは、自分から喜んだり怒ったり、そして「神は偉大なり」などと叫んだりしてくれはしません。 コンピューターになぞらえてはまったく不敬虔な話ですが、今の段階ではその働きが人を驚かす点である人にとってそれは神に等しいわけで、あえて使わせて頂けば、神こそは全知全能で、モノを問えば必ず答えてくださる驚きの存在です。コンピューターの比では勿論ありません。その知恵は限りなく、誰にも制限されず、ある方法に従えば必ず答えに、それも誤りなき全宇宙に適用する答えに出会うのです。その方法とは「少しも疑わずに、信じて願う」という信仰という方法です。 コンピューターなどで驚いてはいけません。神に信仰をもって向かえば、私たちの生涯に安定と正しい方向を与える知恵に必ず出会うのです。
(一九八三年二月六日)

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信仰の原点

「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。・・・わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。・・・」(創世記四六・三〜四)
ヤコブは自分の子供のヨセフが不思議にも生きていて、しかもエジプトで偉くなって今は自分たちを十分助けられる力を持っていることを知ってびっくりする。そして一族と共に出発しエジプトにつく前にベエル・シェバという所についた時、彼は神にいけにえを捧げ礼拝をする。 この場所は思い出深い所である。昔彼が家を離れ、一人ぼっちの旅をつづけていた時、ここからほど遠からぬ所で、夜に石を枕にして眠っていた彼に神があらわれなさり、祝福の約束とそれへの保証を与えられたのであった。「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」と(二八・一五)。今、そのことが再確認されているということになる。 いくら息子が偉くなっていようとも、他国に一族をひきつれていくので不安であろう。 そして最初の約束はといえばこのエジプトではなくて、カナンの地こそイスラエル人が増えひろがり、その国をたてる土地なのだ。しかし神さまはヤコブに明確に再契約なさった。 「わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る」と。何という力強い約束であろうか。人が一度神の御声を聞き、人生の確信を与えられたその原点にもどり(そしてしばしばその場所や状況もそれを思い出させてくれるよいきっかけになる)祈るならば、必ず神はそこにおられる。そして必ず確信を与え祈りに答えて下さる。
(一九八二年二月七日)

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信仰は体で知る

あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。 わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。(創世記一七・五)

この章ではアブラハムとサラの改名が記されている。神さまが「わたし」という言葉を連発されて、ご自分の権威をもってアブラハムに祝福を約束される。それが自身九九才、サラ九〇才という高齢で息子イサクを生むという奇跡で成就するのだ。 神さまは人間の弱さをよくご存じである。頭だけの信仰では不徹底なものだ。さすがのアブラハムですらすでに老人になった二人の子供をもうけるという奇跡には、思わず笑わざるを得なかったほどである(一七)。 信仰は体でおぼえるものである。「歩み」という言葉で信仰は表わされるほどに、また、「求めよ、さがせ、たたけ」と言われるほどに信仰の歩みは体ごと動いてはじめて信仰なのだ。トラクト配りばかりやっている伝道を馬鹿にする者がいたらその人は信仰の重要な一面を知らない。路傍で見知らぬ人に一枚の福音トラクトを手渡す。間違いなくそのうちのほとんどは鼻であしらうであろう。 しかし、私の知るかぎりの人でそうして教会につながった人は案外結果から見ると多いのである。その中にはトラクトを配る人物に興味を持った人だっている。福音伝道に重荷を持ち、世の批判に恥ずかしさをおさえて喜んで証しをする人。その中に信仰の大切な要素が入っている。 ついてまわる名前で思い出す神の約束、そして男子は身に傷をつけ、包皮の肉を切りとる割礼を通してイスラエルの選ばれた民であるとの自覚を持ちつづける。これらはみな「体で知る信仰」の一つである。その内にある信仰を体で表現せよ。これはヤコブ書の言ったことである。
(一九八一年二月八日)

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試練のあとに来るもの

あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐える
ことのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第一コリント一〇・一三)

あらゆることにおいて試練の中にある友よ。神の真実を信じ、右記の言葉を信じて、ゆり動かされることなく、サタンのえじきにされないように気をつけようではないか。あなたがクリスチャンならすでにこの試練の意味するところは十二分に分ったと思う。クリスチャンでなかったなら、この機会を通じて、勝利者としてではなく敗北者としての自分の中に真の勝利を見出した聖書の信仰者たち、例えばパウロやペテロのような人の人生の秘密にふれて欲しい。これは又とない機会です(第二コリント一二・九〜一〇)。 すべての訓練は霊の父の手の中にあって、その時は喜ばしくはなく、かえって悲しく思われるものです。だからこそ訓練であります。悲哀を知った人だけが真に福音に値するのです。他人への思いやりや、神への感謝が分かり何よりもこれによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせるという約束が聖書にあります(ヘブル一二・五〜一三)。 だからこれは後になって分かることではありますが、試練に会うときは、それをこの上もない「喜び」と思わねばなりません。信仰はためされると忍耐が生じます。人間が欠け目のない、成長をとげた完全な者となるために何よりも必要なことは忍耐であります。 忍耐は単なる静ではなく、内に限りない動を秘めたる静であります。苦痛に満ちた肉の生命の世に神を仰ぎ見て立つのに忍耐ほど偉大なものはないのです。
(一九八七年二月八日)

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イマゴ・デイ

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(創世記一・二六)

まず創世記を開く。初めて聖書を手に取って、それを読み始めるとき、だれでもそうするであろうがどんな思いがその人の心をよぎるだろう。 現代人は何よりも先ず、何と馬鹿らしいことと思うに違いない。しかし一度、心を謙虚にしてあの単純な書き方を味わってみるとまた違う思いがする。 「光あれと言い給えば、光ありき」。創造の神の偉大な存在感がそこにある。 その中でも、ひときわ光り輝く出来事は、われら人類の創造である。人類の創造にだけモデルがあるのだ。それは創造者なる神ご自身である。 一声で無から有を造られる神のみ業もさることながら、神に似た人間の存在にも驚かされる。すべて造られたものと、それを支配するものとはここが違う。 神の似姿(イマゴ・デイ)に造られた人間は、勿論神とは違う。だが彼は神と通じる部分をみずからのうちに持ち、神と交わることができ、神と語り合うことも出来るのだ。 創世記の創造の記事がどこからその資料を得たのかと言うことを考えれば、最初の人アダムとエバは、創造というこの壮大な出来事について神ご自身から聞いたとさえ思えるのだ。 今も私たちはキリストにあって新しいものとされる時、神の心でもってこの全宇宙を眺めることができる。その支配者としての特権を踏み、地球を汚すとは・・。全世界の魂が福音を伝えられないまま、滅び行かせるとは・・。
(一九九二年二月九日)