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第3回目
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
(第一テモテ六・六)
聖書は実に知恵に満ちている。金持ちになりたがる人がいる。金さえあれば、幸福の他は何でも買える。
時には間違って金で買ったもので幸福も買えたと錯覚してしまうのだ。
しかし、幸福は買えないだけでなく、始末は至極悪い。
「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」である。
「誘惑とわなと、また滅びと破滅に投げ入れる、愚かで有害な多くの欲とに陥るから」だというのである。
金銭を愛する事は
あらゆる悪の根だからである。
ほどほどにしないと自滅をする。
昔ある王が家来に「お前に土地を分けてあげよう」と言った。
「ただし条件がある。
土地はいくらでもあげるが、ここから走って行って日の暮れるまでに帰って来い。
その間に足跡で画いた丸の中に収まった土地はことごとくお前のものだ。」
喜び勇んで家来は飛び出して行った。
夕暮れになってもなかなか来ない。
だがついに日の落ちる寸前にヘトヘトになった家来が走って来てゴール寸前でばったり倒れてしまった。
欲ばれば欲ばる程、危険が伴う。
金銭、財産を愛することがあらゆる悪の根であると同時に真理を踏み外させ、生命すら落としかねないのである。
信仰を持って人の欲を考える時、こうした危険がないばかりか返って大きな利益さえももたらす。
信仰の目でものを見るとき、衣食足りてそれで満足するのである。
心の貧しい者は幸いなのです。
貧しい者はこれからは満ち足りる道を歩くのである。
神を恐れる人は満ち足りる心を伴った敬虔な人と言うべきだ。
豊かな富に満ちた神と共に居る人は安全でほどよい神の道を楽しむ心を持つ。
(一九九六年一月二一日)
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
(第一ヨハネ五・一三)^
実に不思議な御言葉だと思いませんか。
ここには、神の御子の名を信じているのに、自分が永遠のいのちを持っていることがよく分かっていない人がいる、ということを記しています。
神さまと共に生き、その力を日々味わいながら世を過ごし、神さまと共に永遠に尽きることのない生命に入る事とされた私たちは幸いです。
たしかに「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と簡単に書いてあります。
信じることも口で告白することも、言ってしまえばそれ自体簡単なことであって、長い求道生活のあとようやくそれに至った人もあれば、ごくあっさりと入ってしまう者も居られるわけです。
しかし、信仰生活は入口を通過することも大変なことですが、終わりまでたどりつくのも容易ではないのです。
そして味わいもまた深くあります。
私たちの祈りが神の御心にかなうものならば、神はその願いを聞いてくださる。
この単純な一事に気づいた人は実に力ある神の右の手をつかんだというべきです。
必死になって、神のみこころをたずね求めることでしょう。
これこそ永遠の生命の道のだいご味です。
また私たちの願うことを神が聞いてくださると知った時その願ったことはまだ手中にしていなくてもすでに、かなえられたと知るのです。
このように永遠の生命の道は主を知るにしたがい深まっていきます。
そのことを実際に味わっている人は本当に祝された証し人といわざるを得ません。
(一九九五年一月二二日)
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
(ヘブル四・一二)
人間の心に真に働きかけるのは神のことば(聖書)であります。
このことは言葉に言い表せないほど驚くべきことです。
私たちはもっとこの事実に着目する必要がありましょう。
普通の生活の中ではあまり感じないかも知れませんが、クリスチャンとして、人間の魂に興味を持つようになりますと、人間というものがどんなに悪魔のとりこになっており、
真理に対して盲目で、滅びに向かってひた走りに走っているかが分かります。
個人伝道をしても神や聖書の真理をいっこうに評価してくれません。
問題の原因が明らかな場合でも私たちの説明など耳も傾けて貰えない時が多いのです。
これを聞いてくれたら・・・もし分かって貰えたら・・・とどんなに願うことでしょうか。
こんな時、私たちは人間の魂に切り込んでいく鋭い両刃の剣、聖書の言葉と聖霊の御働きとに心をとめるべきでしょう。
神の言葉は生きている。
実にその通りです。
「光あれと言い給いたれば、光ありき」なのです。
神はみことばにより天と地とを創造されました。
みことばそのものと呼ばれる神のみ子イエス・キリストはこの世の光として来られ、私たちのうちにあっていまだ誰も聞いたこともない様な神さまについての真の部分を説き明かして下さいます。
私たちの心の中のいろいろな考えやはかりごとに光をあてて判別させてくれる決定的な力は神のことば(聖書)にあるのです。
もちろん私たち自身、どうにもならない自分の心も祈りをもって聖書に向かい、神に向えば常に解決があるのです。
(一九八三年一月二三日)
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
(詩篇一二一・一)
堂々とした山。押しても動かぬ存在感。そこにある山。われらの主はそういうお方である。「私は在る」というお方。それが私たちの主である。
昔から異教の人々はこの山、高き所を神格化した。
分かるような気もする。
「私の助けは、天地を造られた主から来る(二)」という時、詩人の心はもっと大きな主に向かっている。
この高き山もみな天地を造られたその主の御手の業であるとは何とすばらしいことであろうか。
大きな山。動かざる山はこの主が「在れ」とおっしゃった御言葉によって生じたものだ。
私たちも母の胎の中に宿った時よりこの主の見守りの中にあり、しかも山とも違って救われて神の偉大さを理解したりすれば黙していたりはしない。
神を心からほめたたえる者として山以上のものなのである。
しかし、しばしば私たちは不信仰の故にこの大きな神を見失ったりすることはないか。
私たちの神はそんなに小さな神であろうか。
山を置かれ、天地を創造されたお方。
そのお方が私たちを救い、低くなって私たちに目をとめておられるのである。
ああ神がそのように大きい方であるならば神の作品としての私たちもどんなに幸いな者たちなのであろうか。
山に向かって目を上げよ。
私たちの目には見えないが、信仰の目をもって見上げる私たちにとって、主はそこに「在る」神である。
動じない存在。動かしがたいお方。全てのものの基(もとい)なる主。誰も対等に話し合えるようなお方ではない。
なのにその方は御子キリストとしてへりくだりをもって人としてあらわれ、十字架につかれたのだ。
不思議さにおののく。
(一九九三年一月二四日)
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記一五・六)
一五章のアブラハムの記事は「これらの出来事の後、・・・」と始まっている。
私たち
クリスチャンは一つ一つの出来事を通して強められるばかりでなく、さらに新しい契約の中へと導かれるのである。
神は言われる。
「アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受け
る報いは非常に大きい」。
この言葉の何と力強いことか。
しかし、現実を見ると事態は決して甘くないという面に目が行ってしまう。
私にはまだ子がない。子のない者が祝福を受けつぎ、あの地の砂、天の星のように子孫をふやすことなどできるのか。まず第一歩で違っているのではないか。
信仰を通して神を見ない者、現実に目をうばわれる者は、イエスから目を離して海の波の中にのまれそうになったあのペテロのような結果となる。
するとまた主の言葉が彼に臨み、そんなことはないと確約される。
と同時に主は実際的な感覚でこれを理解させようとなさる。
彼を外に連れ出しておおせられるのだ。「さあ、天を見上げなさい」。み言葉による福音が、目に見えるパンとぶどう酒による聖さん式で補強された主のさだめを想い出す。
さあ天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。・・・そしてさらに言われた。「あなたの子孫はこのようになる」と。
私たちが空の星を見て神秘的な感じに打たれ、圧倒されそうになるのを想い起こしてみよう。主は神を信ずる信仰の目で自然を見つめるとそれがさらに強い感動を与えることを知っておられる。アブラハムは「主を信じた」のである。
この信仰は何と尊いものだろうか。神はこのような信仰をその人の義と認められる。
(一九八一年一月二五日)
私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。(詩篇一一九・一八)
目が見えるということは、大いなる特権である。
自分は生まれたときから目が悪く、親は、名古屋市内のあらゆる病院という病院を走り回ったものであった。その後、身体に良いということで、ある日突然、叔父と叔母の住む千葉の幕張の海岸近くに親から離れて移り住んだのが四才の頃だ。
小学生時代にはまだ病気が進行中で、一時期半年近くも学校を休んでいたこともあった。
戦争中でもあったし、目が悪くては学校にも行けず、自分の小学校時代の学業は、自分なりに自分を見つめて考え込むこと以外にはなかったようだ。
悲しく、そしてそれなりに充実していた時期でもある。
毎日のように京成電車に乗って通っていた眼科医が今も千葉教会のそばにあり、その前を車で通る時、ふと当時の心の底の感情が懐かしくよみがえる。
目が見えないのではない。明るい所では光がまぶしく、目がゴロゴロ痛むのだ。色眼鏡でようやく外を歩くが、しばしばドブに落ち、情けなくて泣いた。暗い夜空を眼鏡や眼帯を外して見上げては、健全な目の持ち主の気持ちを想像しては羨ましく思った。
だから少し分かるような気がするのだが、肉の目が見えるということは本当に大変な特権なのだ。と同時に、その目が閉ざされた時、私たちに開かれる新しい世界が素晴らしいということも事実である。
それは目が見えた時などには到底気付かなかったようなものである。まさに「奇しいこと」かもしれない。
「私の(霊の)目を開いて下さい」という祈りは、大変な祈りなのである。
(一九九二年一月二六日)
神を愛するとは神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
(第一ヨハネ五・三)
人を愛するということは私たちにとって容易ならざる業です。愛とは自分の身を殺してもひるまないこと、と聞かされてはなおの事です。ましてや愛の中の愛といわれる神を愛すると言われたらなおの事です。
老齢に達したヨハネが若い説教者たちが自分の説教を語り終えてから、「長老ヨハネよ。何か一言・・」と言われると必ず立ち上がって一言「あなたがたは互いに愛し合いなさい」
と言って座ったといわれて居ります。愛するという事はヨハネの一生の課題であったということが分かります。
課題の頂点であるところの神を愛するという事は、やってもやらなくてもいい事ではなくて、神の命令なのです。
しかもヨハネは、「この命令は重荷とはなりません」と言う。
どうして重荷とはならないのか。キリストは私たちの為に自分の生命をお捨てになりました。それにより私たちに愛が分かったのです。と三・一六で言います。主自らが私たちの手本となって下さった十字架の愛を見つめる時、「愛が分かった」というこの大きな言葉を吐かせるのです。
ですから私たちは、兄姉たちの為にいのちを捨てるべきですと言ってヨハネはイエスの十字架の手本が私たちの心の中で煮えたぎり、主の大命令が私たちにとって重荷にならない物となっていったと伝えているのです。
本当の愛を持っている人が欲するところなら心からやろうと思うでしょう。命令されても「命令」とは思わない筈です。
このように身を捨てて命令を実行しようと勇んで待っている人を神より生まれた者、世に勝つ者と呼んで居ります。
その人こそ世に勝つ信仰の人です。アブラハムを始めとするすべての信仰者は出来ないと思われる命令を次々に可能にして行ったのです。
(一九九六年一月二八日)
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
(箴言四・二三)
心はまちがいなく全身の中心である。いのちにあふれた心は全身を健やかにする。心はただそこにあるだけでなく、そこからコンコンと泉の水をわき出させる。
心のすこやかさとは何か。御言葉を受け入れた時の心である。「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見出す者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする」とあるからだ。
カゼをひくと薬をのむ。体をやすめて回復を待つ。しかし、病は気からと言うように、多くの場合、健全な魂は生命に満ち、健やかな心のあるところには、全身健やかな肉体がある。たとえ、カゼを引いていようと、目が痛かろうと、そういうことにはお構いなく、私たちは健やかであり得る。心がいのちの泉である時、人間はその限界を感じつつも、豊かに生きるのである。まさに「人の生くるはパンのみによるにあらず」だ。
だから聖書は言う。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」と。サタンはほえたける獅子のように私たちのまわりをめぐって、油断する時をみつけようとする。クリスチャンは主を見上げさえすれば必ず正常にもどることができる。危険なのはドカンと落ちるおとし穴でなく、除々に深みにはまっていく日常生活の慣れと油断である。いつの間にか立ち上がることが難しい場面に来る。
魂に必要なのは、油断なく見張ることである。力の限り見守ることである。大変なことのようだが深みにはまってしまって多くの損失をこうむることと較べればまだ少しの努力といえよう。心を見つめ泉を確保しよう。
(一九九〇年一月二八日)
あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。(ヤコブ四・二)
人間の生命力は「欲望」と言いかえても適用する場合があるようです。モノを食べたり、子孫を残したり、また新しいものを作り出して生活環境を良くしたりしたいという欲望は生きているということと実際つながっているのです。しかしそれが野放しになっている状態では神さまが正しい方法で使うように計画された生命力もこの世の秩序をこわしたり、私たちを不幸にしたりするだけになってしまいます。
この節には次のようなことばが先行しています。「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。
私たちに必要なものはすべて備えられると信ずることこそが神にある人々の平安の基礎ではないでしょうか(マタイ六・三三)。何物でも手に入れるためには争ったり人殺しをしたりしてではなく、全てのものの供給者であられる神さまに願う。これがヒケツです。
「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」とあるではありませんか。与えられないとすればそれは、「自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うから」です(四・三)。
世を愛して、神の敵とならないならば、必要なものを求めて私たちはストレートに神に向かうことができます。そういう人の財産は神そのものなのです。
今私たちは新会堂建設を決意しました。それを願うには条件がそろわなすぎます。しかし、皆の気持ちだけは一致しました。これ以上のものはどこにあるでしょう。皆で皆の神、主を仰ぎ、神の味方となり、その御栄光のために願うならば与えられないことがありましょうか。
(一九八三年一月三〇日)
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ一・一八、一九)
心の目が見えるとはすばらしいことなのだ。それによって何が見えるのか。
まず、「神の召しによって与えられる望み」である。私たちの希望は空しい望みではなく神にかかっている望みだ(四・四)。
「受け継ぐものの光栄」である。偽りのない真の光栄、神より出づる豊かさに富んだももを受け継ぐことである。
そして「私たちに働く神の偉大な力」をである。キリストを死者の中からよみがえらせる力が私たちに働いて、教会を形成する一人一人の立派なあかしの生涯を持つクリスチャンとして下さる。
それが見える。心の目が見えるようになると、この望み、この富、この力が見えるのである。
この心の目はどうして見えなくなるのか。
パウロが祈っているように、心の目が見えるためには「栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を与えて下さる」のでなければならない。
私たちの祈りはひたすら「神を知るための知恵と啓示の御霊」を与えられるように、でなければならない。
しかししばしば知恵を持っている筈の者が見えない事があるのは何故か。「時」である。
信仰が真に働かせられ、神に喜ばれるためには私たちには「汝今知らず、後悟るべし」というところがあるのではないかとこの頃ふと思う。主に信頼するがいつも見えない部分があるものだ。
(一九九三年一月三一日)
今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
(創世記四五・五)
ヨセフの兄弟たちが食糧を買いつけることができる条件として連れて来た末息子のベニヤミンが今失われようとしています。兄たちが必死になって、自分を犠牲にしてその子を助けようとし、父親のことを思って嘆願する姿を見て、ついにヨセフはこらえ切れなくなってしまいました。そして自分はあなた方にエジプトへ奴隷に売られたヨセフですと告白しました。兄たちの驚きはどんなだったでしょう。
しかし、ヨセフがその次に言った言葉こそが実に驚きであったと思います。みにくいことに父に愛されたヨセフをねたんで彼を売り払い、子を失って嘆き悲しむ父親をだました自分たちがどんなに恥ずかしかったことでしょう。しかしヨセフはそれを許してくれているのです。ただそれだけでない。そこには神の大きな御心が働いていたとヨセフが言うのです。
ヨセフが兄達を許せた理由は、ただ彼が寛大であったからだけではありません。彼は全ての背後に働く神の計画を見抜いていたからであります。ロマ書八章二八節にありますように神は全てのことを働かせて益としなさる摂理の神であると信ずるヨセフにとっては、兄弟たちの自分に対する憎しみも、神がすべて善い方へと導いて下さろうとする道具の一つとしか考えられないのです。こういう見方で見れば許すも許さないもない。神が起こることを許して居られることは直接的に、あるいは間接的に神の民のためには結局はよいことだと知る事ができるわけです。クリスチャンの心の広さはこんなところから来るのでしょう。
(一九八二年一月三一日)