主の小道

第2回目


悔い改めの実、兄弟愛

そこで彼らは着物を引き裂き、おのおのろばに荷を負わせて町に引き返した。
(創世記四四・一三)

ヨセフはベニヤミンの袋の中にひそかに銀の杯を入れさせました。
これはパロのところからの盗難のうたがいをかけさせるのに充分な処置であったのです。
ヨセフはそうした後すぐに、彼らのあとを追わせます。
折角ヨセフのもてなしを受けて喜んで帰国する兄弟たちを騒がせ苦しませる結果をもたらすこの仕打ちは、一見あまりに残酷に見えるではありませんか。
一体どうしてこんなことをしたのでしょうか。
これは、兄弟たちの心を見ようとした念の入った計画に他なりません。
四二章を見ると(二一節)彼ら兄弟にはヨセフをエジプトに売った時のあの罪に対する深い悔い改めがあったことがわかります。
それがヨセフを感動させ、彼らをエジプトに引き取ってもいいという思いを持たせることともなるのであります。
しかし、そのためにはさらにそのことを確認する必要があったのでしょう。
エジプト人は羊を飼ったりするユダヤ人を嫌います。
いくらパロ王に愛されている特別なヨセフの身内といっても彼らがしばしば問題を起こすような人々であれば、ヨセフも困るし、彼ら自身も決して平安な毎日をこの異国で送ることはないで有りましょう。
ここでは罪を犯したと思われる(実際は盗んでなんかいないのだが)ベニヤミンに兄弟たちがどう愛するかを見て、彼らに悔い改めの実としての兄弟愛があるかどうかを知りたかったと思われます。
彼らは兄弟ベニヤミンのこの災難に心から悲しみをしめして、着物を引き裂き、荷物をもってヨセフのもとに帰っていくのです。
兄弟みんなで自分たちの苦しみを共に負う姿をここに見ることができます。
(一九八二年一月一〇日)

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いと高く、共にある主

まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。
(詩篇一三八・六)

私たちの主は天にいます。いと高き方、神の神、主の主、ただひとり、大いなる不思議を行われるお方だ。
「天にいます、私たちの神さま」と祈る時、私たちはまずその主が何よりも私たちとは限りなく離れていと高き方であることを思い浮かべる。
確かに主はその一声をもて天地を呼び出されたお方だ。
呼び出され、造られてはじめてここにあり、そのお方に支えられてはじめて存在する我らとは全く異なられる高きお方だ。
特別にお造りになった私どもを、真に愛され、「おまえはどこにいるか」と、常にその御目の前に置き、愛して下さろうとする。
「低い者を顧みてくださいます」。
祈る時、この言葉は限りない慰めとなる。
御子キリスト御自身のことを思い浮かべる。
「主は低い者を顧みてくださいます」である。
限りなく低くなられ、私たちよりの低く、十字架の死をまでも喜んで受けられたその低さに私たちは感謝する。
主は「私は心優しく、へりくだっている」とおっしゃる。
そのくびきは負いやすく、荷は軽くとも。
小さな事、自分勝手な理由で困難に陥ったような場合には、私たちはほとんど祈りの言葉もでない。
この問題はお前自身に理由があるのだよという言葉が主の口から聞こえてきてもいい。
しかし主は、くびきは負えとおっしゃる。
それを負い、主より学べばたましいに安らぎが来ると。
たとえどんな状況にあっても主は私たちと共に居られる。
高ぶる者を遠くから見抜かれる全知の主も、私たちがにっちもさっちも行かぬような時に、見上げるとそこに立っていて下さるお方なのだ。
(一九九二年一月一二日)

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真の自由人

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。(第一コリント九・一九)

パウロの言葉です。
彼は自由という権利を自ら放棄した人で最も不自由となったわけですが、ここには真の自由人たる彼の面目が躍如としています。
今は自由の時代を私たちは満喫しています。
しかし、しばしばその自由は自分の人間としての尊厳をも捨て去ったものであります。
一切の制限を取り除かれてはおりますが、そのあとに生きる自分は何一つ基準がなくて、方向性もなくただ流されていくだけです。
そうなると人間はかえって自分が「したいと思うこともすることの出来ない」不自由人であることをいやという程、思い知らされることです。
本当の自由とはパウロのようにある目的のために己れを捨てる自由です。
パウロはキリストのためにより多くの人を獲得しようとして、すべての人の奴隷となりました。
これは自由である権利を自らが切り離すことであり、彼は自由を放棄する自由をとったわけであります。
これは実に尊い自由というべきで彼こそは真の自由人だったのでしょう。
普通私たちは自由だとは言っても束縛をはねのけるのみで自由が本当にしなければならぬ事を目前にしては全く不自由なのです。
彼パウロはキリストを信じた時、人生の最大の価値あることは彼にとって何であるかを発見したのです。
このためには自分が一番心をとらえられていたものから解き放たれ、この新しい目的のために献身できたのです。
人間だれしも好きな事には献身できますが、キリストのみが私共の肉が欲しない聖なるものに私たちを献身させ得るのでしょう。
(一九九一年一月一三日)

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光の中に喜びが

幸いなことよ。喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。(詩篇八九・一五)

幸いなことよ、とは幸いだなあという心からの感激を言い表わす表現です。
主の御前には単なる「幸福論」ではなくて、心からの感激があるのです。
魂が生きている喜びを歌い出すのです。
喜びの叫びとなります。
叫び出さないではいられない、心の奥底からつきあげてくるものがこの表現でしょう。
イスラエル人は心を内臓と考えたようですが、その部分の喜びです。
顔が笑い、口がうたう。
手や足をふって喜びを表現するが、これはみな私たちの体の内部の内臓の満ち足りる喜びの状態が外にあらわされているだけなのです。
「私の魂は私のうちで衰えはて私の心は私のうちでこわばりました」と詩人が告白するような状態に私共はおとしめられることがあります。
ここには喜びがありません。
実に、内臓のおどるような喜びは真の喜びで、喜びの叫びであります。
これらはどこから来ますか。
間違いなく主から来ます。
主に救われたものが分かるように、主の御顔を恥ずることなく見上げるところには、喜びがあります。
御顔の光の中を歩む時には、ただ喜びが湧き出づるのであります。
しかし、「あなたのしもべをさばきにかけないで下さい。
生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められない」のです。
人の心に、それではいつ喜びがありましょう。
そうです。
その時に十字架の主が私たちに輝いて見えるのです。
この世に主の御顔の光の中を堂々と恥ずることなき姿で歩める人が居るでしょうか。
真実に自分をみつめれば不可能です。
しかし、主は十字架で贖いを全うして下さったのです。
そこに喜びの叫びがあるのです。
(一九九〇年一月一四日)


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霊とまことの礼拝

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(ヨハネ四・二四)

神さまの御心であって、その上神さまを心から愛する者たちが同意してきめた、週にたった一日の礼拝だから、一番良いものをお捧げしたい。
そんな気持ちで今の私たちの礼拝態度を見直そうという声がありました。
そこで誰もが同意できると思われる、最小限度の「礼拝心得」を次のように書いてみました。

礼拝心得
礼拝は、神とお会いする時です。
ですから、一五分前には、心を静めて礼拝が始まるのを待ちましょう。
(その時からすでにあなた自身の礼拝の時です。)
二礼拝中の私語、いねむり、みだりに席を離れること、その他礼拝する人の心を乱すことはつつしみましょう。
三礼拝が終わってもしばらくは黙想し、語られた神の言葉にお応えする決意をしてから席を立つようにしましょう。
(以上のことはみなですすめあい、子供たちにもよく話して聞かせましょう。)

これはいまさら述べるまでもありませんし、自然の伝統となっていくべきことではありますが、そのためには日々加えられつつある未信の友や幼児から中学生までの幼い者たちにこの際しっかり教え、一致して進むのもまた効果的ではないでしょうか。
この心得は決して律法ではありません。
まだ何も分からない者たちには自ら実践しつつ、やさしく戒め、訓戒し、その人々が本当の礼拝に至れるようにすすめ、彼らのために祈る必要があります。
また常に教会にはその規準にはずれる者がいるでしょうが、忍耐と愛をもって引き上げていくことが大切です。
(一九八二年一月一七日)

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役に立つ人

彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。(ピレモン一一)

このピレモン書という聖書の部分は使徒パウロが自分の弟子ピレモンに書いた手紙です。
もとピレモンの所にいて悪事を働いたらしい奴隷オネシモを福音の力で改心させ、生まれかわらせるとパウロはこの手紙と共に送り返し、とりなしてやるわけです。
この手紙はキリストを信じた人がどう変化するか、罪ある人をおもいやるキリストの心がどんなものかをパウロという一人のすばらしい伝道者の血の通った肉筆で表現している珠玉のような手紙です。
オネシモの名前の意味は「役に立つ者」というものです。
役立たずであるばかりか迷惑ばかりかけていた彼が神を信じ生まれかわると名実ともに「役に立つ者」になるわけです。
人は奴隷という境遇の中では希望を失ない、やけになり、その場かぎりの生き方をするのかもしれません。
そんな生活は悪事に走る傾向があり、悪事ははらんで人生の死に人を追いやります。
あり地獄のようなものです。
しかし、福音はその人の人生の歯車を止め、逆転させます。
自分が役に立つもの、自分の魂は神に愛され価値あるものだと気づくと、人は雪だるま式に恵みから恵みへと進み始めるのです。
他人が自分を必要としている、何よりも神が自分の価値を認め、そのために御子キリストをつかわして下さったということを知る時、人は変わります。
あなたはどうですか。本当に神と人とに役立っていますか。
そういう実感の中で嬉しく生活していますか。
ますますそうなろうという希望と喜びに動かされていますか。
そうでなければ福音の証しになりません。(一九八三年一月一六日)

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みことば

みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。(詩篇一一九・一三〇)

詩篇を学ぶことは実にすばらしい。
スポルジョンには「詩篇の宝庫」ともいうべき本がある。
詩篇を読むと恵まれる。
どうしてだろうか。
あんなに悲しい悲惨ともいえる苦痛に満ちた言葉も多いのに、と考えてしまう。
誰かも言ったように、問題にぶつかった詩篇の記者が神にたたきつけていく言葉が神の存在をより深く暗示するのであろう。
だだっ子が親の胸をたたき続けて泣いているようなものだ。
甘えているのである。
私にとって詩篇とは一篇一篇が宗教的経験の書である。
クリスチャンにはそれぞれ独特な宗教的社会的経験がある。
それがその人の信仰を特徴づけているのだ。
そしてそれが以外に片よってもいる。
そして信仰が近視眼的になり易い。
私が詩篇を読むとき、そのような穴を埋められる気持ちがするのである。
人間がぶつかるあらゆる宗教的体験を過不足なく経験させて頂ける。
自分に関係ないが、しかし必要な悩みを悩ませ、解決を与えられる。
これが私にとっての詩篇全体一五〇篇の意味である。
その中の一つが一一九篇であって御言葉に関する二二の歌だ。
問題がいろいろあるが、解決法もそれに対応して限りなくある。
聖書は薬であり、糧である。
光であり知恵でもある。
ここに出てくる二十二の歌はヘブル語のアルファベットを頭文字とし、一節一節に必ずみことばを表す言葉が入っている歌であり、各歌が光りを放って、人生問題とその解決法とを示してくれるのである。
十年近く前にここから説教したことがあるが、年を経てまたもう一度「みことば」のすばらしさを見てみたくなったのだ。(一九九三年一月一七日)

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信徒が真剣に願った事

・・・気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。・・・(第一テサロニケ五・一二〜二二)

パウロは、本当によい教会をつくるにはどうすればできるのか、必死になって求め、その結論を教会に願っているのです。
私たちも、それに見習いたいのです。
ここに教会の発展の秘訣があります。
パウロはまず第一に導く者と導かれる者との関係について述べています。
一言で言えば、両者の間に尊敬の気持ちがあり平和が保たれている事。
お互いの間に平和を保つのです。
教会員の間には気ままな者もあれば小心で弱い者もいます。
そういう者に対して、伝道者と教会員は一致して寛容な心で、戒め励ます必要があるのです。
時には、それが最善とは思えない状況もあるでしょう。
なまぬるいと思われるかもしれない。
そこに一四節の寛容であれという言葉の重要性があります。
寛容であるということはどういう事か。
条件なしに相手を受け入れるのではありません。
「ひとりの姦淫の女がイエスのもとに連れて来られた時、ひとり残された女に、イエスはわたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
と言われました。この女は罰せられ、赦されたのです。
相手のことを考え、必要を知ってしたことが、人の目にはなまぬるく、正義でなく映ることがあります。
自分の考えではなく、御霊の御教示を豊かに受けて一致し、導く者と導かれる者の間に信頼がある教会、キリストの寛容に学ぶ教会、そういうことが行なわれている教会は喜びのある教会であり、絶えず祈る教会であり、すべてのことについて感謝する教会であります。
そのことは、教会の重要な使命です。
私たちの課題は次の通りで、できることは三つあります。
Sいつも喜んでいなさいT絶えず祈りなさいUすべての事について、感謝しなさい
これならできるかもしれません。
(一九九七年一月一九日)

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キリストの内に見る

それは、キリスト・イエスのうちにも見られるものです。(ピリピ二・五)

キリストを見るとはどんなことなのでしょうか。
ヨハネはその師であるバプテスマのヨハネの「見よ。この方こそ世の罪を取り除く神の子羊・・」と言って指さされ、もう一人の使徒と共にキリストについて行き、二度ともとの師の処に帰らなかった人です。
ヨハネの福音書や彼の書いた三通の手紙、そして黙示録などを見てみますと随所にヨハネがそれからの生涯、イエス・キリストが本当に神の子羊なのかどうかじっと見つめながらついて行ったことがうかがえます。
三年間、師のお言葉を聞き、その奇跡やしるしをまのあたり見ました。
枕するところも人としての制限、受けられた低いお立場も見たのです。
十字架の下ではキリストから母マリヤをたくされていますから最後の苦しい息づかいも聞きお心も察知しました。
そして、主の復活を経験するのです。
彼はペテロと組んで伝道し、使徒たちの中で一番長生きして、その後の教会を見つづけ、神であるのに人となられ、十字架について我らを
あがない、復活されて父なる神の右に座られ、今も私たちの執りなしをしていて下さるキリストについて考え続けたのであります。
ヨハネは目で見、さわって見、その声を聞いて確認したことの意味を考え続け、結論を出したのです。
この方こそ「神の子羊」。
神が与えて下さった、私たちの罪のためのいけにえだということをキリストの内に「見た」のです。
この方には父のみもとから来られたひとり子としての栄光がある(ヨハネ一・一四)。
その方の中に満ちている恵みとまこととを見たのです。
私達には何が見えるのでしょうか。
(一九九一年一月二〇日)

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上にあるものを求めよ

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
(コロサイ三・一)

人生、何に目をとめ、どこを基調にして生きるかでその価値が決まる。
といっても努力してそうしているのでもない。
新しく生まれ変わった人は、性質から言って違っているから、目のつけどころもまた違っていると言えよう。
ウオッチマン・ニーがその著書の中で言うように、その人の根本的性格は一人でいる時に決定する・・・のだ。
他人の前では本性をあらわさない我々も安心し切った一人の時には違う。
一人でボヤッとしている時、その人の本名で呼んでごらんなさい。
いくら仮名を使っていてもその時にはハッとして返事をするからだ・・・と。
本当は誰なのかがその時分かる。
生まれ変わった人は、天にお属する人である。
キリストと共によみがえらされたのだから、私たちは、地上のものを思わず、天にあるものを思わなくてはならない。
このところで、どうして上にあるものを求めよ・・とパウロは命じているのだろう。
それは、私共が地上にある間は、地上のからだの諸部分、すなわち不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりが残存する肉の部分として、霊の主導権がなくばそのまま生きてい
るからである。
だからパウロは「御霊によって歩みなさい。
そうすれば肉の欲を満たさないからである。」とも言っている。
私たちは一度、上にあるものを味わい知った者である。
目をとめるところの価値が分かった者として責任がある。
上にあるものを求めなさい・・・。又、そのところに有頂天になってもいけない。サタンは我々を偶像礼拝に今もいざなっているから。
(一九九〇年一月二一日)

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