主の小道

第1回目



新しい年を迎えて

牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。(箴言一四・四)

皆さんが主にあって恵みの年を迎えて居られることと思います。「一年の計は元旦にあり」
と言いますが、私たちも与えられた道のりを精一杯走りきる気持ちで出発したいものです。年頭にあたって私の与えられている御言葉を引きます。
「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ」で始まります。
子供の居ない家庭はこぎれいで、うらやましくなるようなことがあります。しかし彼らがそのにぎやかさの中から幼い魂が育ち、やがてその家に柱が生まれていきます。生産的なきたなさです。
何かの実を得ようとしたら、いくばくかのリスクは覚悟しなくてはなりません。
「牛の力によって収穫は多くなる」のであります。
飼葉おけをきれいにするために収穫が少ないのをがまんするか、収穫を多くするために飼葉おけをきれいにする労をいとわないのか。
人の魂の価値は全世界の重さに勝るもの。
一人の魂の滅びるのも望まない、主の御心を行う私共にとって、魂の救いのために労苦を惜しまぬ方を選ぶべきです。
主イエスは九九匹の羊がおりの中にあるのに、迷い出たただ一匹の羊を求めて探し歩かれ、探し出されると心から喜んで下さる方です。
主の価値観は数よりもその魂の重さにあります。
教会の働きは単純ではありません。何をやっても飼葉おけを洗うにつながります。が、願わくば、何のために飼葉おけを洗う労苦をしているのかをはっきりさせて歩みたいものです。
忙しければ救霊の仕事が免除されるものではありません。
主の価値観で歩みたいもの。
(一九九五年一月一日)

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今年の祈り

信徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」(ルカ一七・五)

私たちの主イエス・キリストにあって良い年をお迎えになった事を信じ、心より祝福をお送り申し上げます。
ある歴史家が申しました。「歴史はつぎ目のない布地のようなものだ。どこに区切り目をつけるかはその人の考え方次第だ」と。
確かに一昨日やったように古き年の午後一一時四五分から三〇分間、祈祷会を行いましても、年と年の区切りはどうもはっきりしないものです。
要するに、心の持ち方のようです。古き年を脱ぎ去って新しい、まだ足跡のついていない年月に大いに期待して一歩を歩み進めていくのですね。
特に今年何か良いことが待っている方などは楽しい思いがすることでしょう。
とすれば新年を迎えたこの時を意義深くするのは、ひとえに私たちの心構えによるものです。
聖書(ルカ一七・五)によればイエス・キリストの弟子(信徒)たちは、主に願って悲鳴の様な声で思わずこう言いました。
「私たちの信仰を増してください。」本当にいつの時にも、私たちが最も願うことは、信仰を増して頂くことです。
信仰によってアブラハムは、すでにその時期の過ぎた妻サライの胎を通して約束の子を得たのです。
イエスのこの言葉の後で、「もしあなた方にからし種一粒ほどの信仰があったなら、この桑の木に『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけ通りになる」とおっしゃっています。
「兄弟が罪を犯したら彼を戒め、悔い改めれば赦しなさい。一日に七度でも赦してやりなさい」と言われた後でです。
難しいことです。これも信仰が増されればできるというのです。
今年を左右する祈り、それは信仰を増していただく事です。
(一九九四年一月二日)

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神が伝道を進められる

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒の働き一・八)

力強い伝道の働きの実際的な部分がここにはっきりと示されているではありませんか。
これをながめながら新年のごあいさつを申し上げます。
今年は伝道と証しの年です。長年祈り労してまいりました。百名教会を達成する年でもあります。
主の示される方法によれば、それは難なく達成されるはずであります。
祈りつつその方法、初代教会が祝された道を辿ってみたいものです。きっと恵まれることと思います。
私たちにはまず力が必要です。それはどこから来るでしょう。
聖霊が一人一人に臨まれる時に来ます。
主イエスを信じ受け入れた時、御聖霊はすでに私たちの間にやどられたのです。
御聖霊が内住される時、御霊の実は明らかになってきます。
勇気が与えられ、キリストを主と証しする様になります。
今それが私たちのうちに乏しいのは何故でしょうか。
まず第一に何かの理由で信徒にとって当然の事である聖霊の内住についての確認と確信とがおろそかになっているのです。
御言葉の約束を信じましょう。
エペソ一・一三、一四を見るならば、私共は霊的に大変力強い立場におかれている事に気づくのです。
これは気づくだけで大変な威力を発揮するのでサタンは私たちの目をくらましてしまうのです。
第二に主の働きを実際に体験していないのです。
小さな事でも祈りましょう。
私たちの歩みは小さなそして確実な一歩から始まるのです。
祈りが聞かれた経験が私たちを証し人とするのです。
(一九九三年一月三日)

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心の正月

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。」(ヨハネ三・三)

「新」という字は正月気分を盛り上げる。聖書にも、「新」という言葉が多い。イザヤ書にも「見よ、私は新しいことをなす。」とある。
キリスト御自身にも冒頭のような言葉がある。
「新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れなさい」(マタイ九・一七)とおっしゃった。「私はあなた方の新しい戒めを与えましょう。
あなた方は互いに愛し合いなさい」ともある。(ヨハネ一三・三四)
使徒パウロは、第二コリント五・一七に書いている。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と・・・
家中を掃除し、きれいな着物をきて正月気分にひたっていても、心が変わらなければ、決して新しい人にはなれない。
心が古い罪をもったままでは、年が変わっても、人は決して変わるものではない。
しかし、神の前に罪を悔い改める時、罪が許され、新しい人が出現する。改革ではなく生まれ変わりでなければならないのだ。
これが心の正月というものである。
昔、一休という坊さんが、「正月は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と歌って「めでたい、めでたい」と言いながら年をとっていく人間を皮肉ったが、私たちも全く同じである。
正月がきて、めでたがっていてもたましいの一新がなければ、本当には何も新しくないのである。
(一九九七年一月五日)

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「信仰」を増してください

使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」しかし、主は言われた。
「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。(ルカ一七・五〜六)

この聖句を見て理解の不足からか、私にはどちらかというと不快な感じがしないでもなかった。信仰があれば山も動くとは力強い言葉ではあろうが、何かというと信仰というえたいの知れない部分によりすがり、なすべき責任を果たさないようなのである。
しかし、昨年の教会建設という大事業を通して改めてこの部分に光を与えられた気がした。
主が弟子たちにおっしゃったことは、私が感じていたことと全く同じで、安易に信仰のえたいの知れぬ部分に逃避しないで、今持っているその小さき信仰自体の尊さに気づけと言われているのではないか。
イエス・キリストを神の子と信ずる信仰は世に勝つ信仰だ、と言ったヨハネは同じ手紙の中で、キリストの十字架を通して神の愛を知った・・・。
私たちもその友のために生命を捨てようという。
これは決して当り前にはける言葉ではない。
死のうというのは人間の本能に抗らう、異常な発言であって、それがスラリと出るところにキリストの愛を知ることの尊さ、信仰の貴重さ、力強さがあるのである。
まさに福音は私たちを立たせる・・・というあのパウロの言葉の通りである。
信仰はたとえどんなに小さなからし種ほどのものであっても、例えば赤ちゃんは大人のように仕事ができないから人間として半分生まれた、と言えないように、信仰の小ささは不完全を意味しない。
まことの神と福音を信ずる信仰はそれ自体が尊く、力がある。
そこに気づくことが信仰が増されるということなのである。
しかし、この部分には信仰の力強さにもふれていることは事実である。
キリストにあって偉大なことを希望せよといった信仰の先達の言葉がある。
年の始めに一つ主にあって大きなことを望んでみませんか。
ただし小事に忠なるは大事にも、を忘れぬように。
(一九八五年一月六日)

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去年も駆け、今年も駆ける

ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。
モーセが彼の上に、かって、その手を置いたからである。
イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行った。(申命記三四・九)

元旦礼拝の折りにも話したことだが、この新年にあたって私は申命記の三四章をしきりに考えさせられた。
モーセはイスラエルの民を引きいて乳と密の流れる約束の地カナンまで来る。
その全地域を目の前にして彼はその地に入れないと主に宣告された。
彼が死んだ時は一二〇才であったが、目もかすまず、気力もおとろえていなかったという。
この世の普通の人であれば、「エンギでもない」というところであろう。
しかし、私はここに素晴らしいメッセージを見るのである。
これが人間の現実であり自分の直面する現実でもあるということだ。
私たちの人生は限りない末広がりのものではない。
一人一人は与えられた寿命をもち、若くして死ぬ人もあり、それこそ天寿を全うする人もある。
そしてそれぞれがそれぞれに生きて、最後に神の御心のみが堅く立つのだ。
モーセは死んだが、働きはちゃんと継続していく。
モーセはまだまだ出来ると思ったに違いない。
しかし主の命令によって死んだ。
気力十分な時に召されたのだ。
カナンの地に入れないのは誰かの罪の故だとも書いてない。
「死ぬるも又益なり」である。
私たちの役割は全力をつくして自分の人生をかけぬけることだ。
そして死の門もそれに打ち勝つことの出来ない教会は、次の時代に駆け抜ける次の世代により明確に受けつがれる。
自分の一生の中にもこれがあって、去年も駆けたが今年も新しく駆ける。
そして御心が成る。
(一九九一年一月六日)

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捧げることは「蒔く」こと

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
(第二コリント九・六)

パウロはここでおごそかに、「私はこう考えます」という。
この言い方は教理的に重要なことを述べる時に使われ(第一コリ七・二九、一五・五〇、ガラ三・一七、第一テサ四・一五)、キリストのまことに汝らに告ぐに匹敵すると思われます。
献金という重要な主題について語って来たパウロはいよいよその結論を述べるのです。
捧げ物は礼拝と献身につながり(ロマ一二・一)、私たちの信仰に密接な関係があります。
パウロは、捧げることは、「蒔く」ことだといいます。
決して失なうことではない。
このことを見出したものは信仰生活においてはある境地に達したと言えるでしょう。
捧げ物や奉仕からは、芽が出、実が結ばれるのであります。
蒔き方が書いてありますが、少しだけと豊かにとがあります。
これは量のことではなく質の問題です。
けちけちして沢山捧げた物は少ししか捧げないのと同じです。
レプタ2枚しか持たぬ者がそれだけ捧げれば、物惜しみしないで捧げたのだから、豊かに捧げたことになるのです。
箴言には「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。
おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される」(一一・二四、二五)とあります。
まさに捧げ、与えるということは蒔くことであります。
一粒のむぎは地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶのです。
そのものは亡くなってしまいます。
それを惜しむ人はしかし実を得ないのです。
主は「与えなさい。
そうすれば、自分も与えられます」(ルカ六・三八)と言われます。
散らして集めるところに主の働きの証しがあり、それは教会の働きに相応しい原則なのです。
(一九八九年一月八日)

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人の意見をさばかない

あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。
その意見をさばいてはいけません。・・
ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人も居ますが、どの日も同じだと考える人もいます。
それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(ローマ一四・一、五)

バプテストという人は、おそらくキリスト教信者の中で一番自由な人ではなかろうか。
いや自由な人であるべきではないかと思う。
自分の信じている事の核心にふれる部分、最も大切なところでは一歩もあとにひかない
がんこさもあるが、そうでない所ではぐちゃぐちゃ言わない。
それぞれ自分の心の中で確信を持つのであって、他人の意見をかるがるしくさばかない。
無知の故に失敗することもあるのだ。
教会の新館を建てた時のこと。
トイレに障害者のためにパイプをつける事になった。
二つある便器のどちらにそれをつけるかで建設会社ともめた。
会社は入口に近くといい、私は奥といった。
見栄えが良く思われたからだ。
十年もたったごく最近、障害者のためにそれをつけるなら、絶対に入口に近いのが当り前なのだとふと気づいた。
建築がどうあるかは見栄えではない。
私たちは変な価値観で行動する。
信仰の弱い人を軽々しくさばかないで本当にその人の立場になって思いやる広さが必要である。
これは大変な事ではあるが、声を出して聖書を読む時、必ずといっていい程読み間違える。
昔若い頃よくえらそうに言ったものだ。
「説教者たるもの、聖書を読み違うなどとんでもない。」と。
確かにとんでもない間違いというものもある。
しかし今の私は目の悪いせいもあってよく間違えるのでもうそんなことは言えない。
自分でできない事を人におしつけ、さばいては駄目だ。
私たちはそんなチグハグな事をしている。
(一九九五年一月八日)

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信仰の実践

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(第一コリント一三・一三)

パウロは私たちの賜物について語った後で、残るものは信仰と希望と愛だ、と語りました。
まず、信仰について考えてみましょう。
先週のこの欄で語りましたように私たちの祈りは「私たちの信仰を増してください」です。
それはもっともなことで、信仰は山をも動かす力とエネルギーとを持つのです。
私たちは信仰によってとてつもない夢を見、そのビジョンに従いなんとそれを実現していってしまうのです。
信仰の実践者の一人、上田晃牧師は「主にあって大風呂敷を広げるのですよ。
そうするとそれがことごとく実現してしまうのですよ。」とおっしゃいました。
謙遜して大風呂敷などと言って居られますが、全て主にあって実現可能と信じて居られるのです。
私たちはどうしても夢のようなことを言えば、もしも実現しなかったらみっともないというように思ってしまい、ほどほどにしてしまう。
石橋をたたいて渡るのだから人生何も面白いことはないわけです。
信仰の言葉は時にいばっているように聞こえるがそうではありません。
一つ一つ事が成就していくのでそうではないことがよくわかります。
信仰によって生きているものらしく、信仰を働かせましょう。
信仰についての章、ヘブル人への手紙一一章では信仰者を列挙しています。
信仰の有無はその行動によって分かります。
いや、その行動でしか分からないのです。
信仰があるあると言っても行ないにあらわさないかぎり、誰にも分かりません。
信仰生活の課題はそれがどれ程働くかという事です。
これが信仰生活の課題です。
(一九九四年一月九日)

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偉大なる弱さの力

「しかし、私はあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。」
(マタイ五・三九)

このマタイ五・三九〜四二は、キリスト教倫理では新約聖書中最高のものだとバークレーは言う。
旧約聖書では『目には目で、歯には歯で』と教えられているが、これも神の律法だ。
他人から損害を与えられたら同程度のものをもって償えというわけで、真に理にかなっている。
他人の生命を損なったとすれば死刑、目を傷めれば自分の目を差し出して償うというのである。
神の公正さをよく表している。
しかし、これが現実の社会となると関与するのが罪人なる人間であるから始末におえない。
相手が叩いたら叩き返す。
怒りをもって必要以上に叩き返すことは我慢できても、聖書にもそう書いてあるといってやられたことのお返しを続ければどういうことになるであろうか。
際限なく応酬の繰り返しが残るばかりである。
キリストはこれを愛という大いなる力でストップする教えを下さったのである。
「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」。
これは一見どうしようもない弱気な行為のようにも見える。
闘いを逃げる消極的な態度のようでもある。
本当はそうではなくて、繰り返し行なわれる憎しみによる報復を自分を無にして一つ控えることにより、それ以上の無駄な争いをストップする実に積極的な行為といえる。
キリストの教えにはこれがある。
人をさばく前に自らが十字架につく御子の死があり、自分を釘づけしようとする者らのために赦しを願って祈りをするイエスの姿がある。
われわれはこの「目には目を理論」で他人を簡単に裁かないか。
キリストならそれをどう見るだろう。
(一九九三年一月一〇日)

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